「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

原水爆も核兵器もテレビも悪いにきまっている 2006・03・21

2006-03-21 07:45:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)の昭和62年のコラム集から。

 「『核兵器はなくせない』と高校生の半分近くが思っていると読売新聞九月十四日号は報じた。アンケートしたのは日教組系の『国民教育研究所』で、中三と高三に聞いたという。むろんこれ一つを聞いたのではない。非核三原則はよく守られているか、核戦争が起こったら人類はどうなるかなどと聞いたなかの一つである。
 核兵器は人間の力ではなくせないと思うと広島の高校生の四六・二パーセントが答え、全国では四五・二パーセントが答えたという。
 これはいくら原爆許すまじと叫んでも甲斐ないことを、高校生の半ばが知っていることを示している。私は出来てしまったものは出来ない昔に返れないと思っている。」

 「いいとか悪いとかいうなら、原水爆も核兵器もテレビも悪いにきまっている。けれどもひとたび出来てしまったものは、出来ない昔にもどれないのである。これが原則だと面倒だから教えておいたほうがいい。
 私はテレビは百害あって一利ない代物だと思っている。自動車はいらないと思っている。」

 「テレビもカーも核兵器をつくる同じ精神の所産である。てっぺんに核兵器があるとすれば末端にテレビやカーがある。末端を享楽しててっぺんのだけ許すまじといったって、そうは問屋がおろさないことを高校生は頭ではなく肌で知っているのだろう。」


   (山本夏彦著「世はいかさま」新潮社刊 所収)
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私の死に支度 2006・03・20

2006-03-20 07:14:00 | Weblog


  今日の「お気に入り」は、佐藤愛子さんの「最後の修業」と題した文章の中から「私の

  死に支度」と題した一節です。


 「 どんなに頑張っても人はやがて老いて枯れるのである。それが生きとし生けるものの自然である。それが

  太古よりの自然であるとすれば、その自然に自分を委ねるのが一番よい。私はそう考えている。

   そこで今、私が直面している問題は、いかに自然に老い、自然にさからわずに死んでいけるか、という

  ことだ。いかに孤独に耐え、いかに上手に枯れていくか。長命がめでたいのは、心も肉体も枯れきって死

  ねるからめでたいのだと私は考えている。肉体にエネルギーが残っている間は死ぬのは容易ではない。心

  に執着や欲望を燃やしたまま死ぬと、死後の魂は安らかでない。

   今、多くの老人は老後を楽しく送りたいという願いの一方で、人に迷惑をかけずに死んでいきたいもの

  だと心から念じている。家族主義の中で老人が大切にされ、うやまわれていた時代は老いて病むことも子

  や孫に預けておけばよかった。しかし犠牲を悪徳のように考える今は、身内の者が平和に楽しく暮す権利

  を認めなければならないから、老人はひたすら迷惑をかけることを怖れている。六十歳も半ばを過ぎて、

  私は漸く自分の死について考えるようになった。私も遠からず老い衰えて死を迎えるのである。そのため

  には私なりに準備をしておかなければならないと思っている。

   これからの老人は老いの孤独に耐え、肉体の衰えや病の苦痛に耐え、死にたくてもなかなか死なせてく

  れない現代医学にも耐え、人に迷惑をかけていることの情けなさ、申しわけなさにも耐え、そのすべてを

  恨まず悲しまず受け入れる心構えを作っておかなければならないのである。どういう事態になろうとも悪

  あがきせずに死を迎えることが出来るように、これからが人生最後の修業の時である。いかに上手に枯れ

  て、ありのままに運命を受け入れるか。楽しい老後など追及している暇は私にはない。」


  (山田太一編「生きるかなしみ」 ちくま文庫 筑摩書房刊 所収)





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生ある者は必ず滅す 2006・03・19

2006-03-19 07:25:00 | Weblog


 今日の「お気に入り」は、和漢朗詠集から。

 「生ある者は必ず滅す  釈尊いまだ栴檀の煙(けぶり)を免かれたまはず

  楽しみ尽きて哀しみ来(きた)る  天人もなほ五衰の日に逢へり 江(がう)」

 〔現代語訳〕この世に生をうけたものであるかぎりかならず死ぬ時がやってきます。

    釈尊でさえも涅槃に入り、その金棺が栴檀の煙の中で火葬にせられることを免れることはできませんでした。

    歓楽が尽きるとそのあとにはかならず哀しみがやってきます。

    天上の快楽(けらく)を享けた天人ですら、やがて命終(みょうじゅう)の時がきて、五衰の相をあらわすときがくるのです。

 (注)江(ごう)は大江朝綱(おおえのあさつな)のこと

  (川口久雄 全訳注「和漢朗詠集」 講談社学術文庫 所収)





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為にする誤訳 2006・03・18

2006-03-18 07:30:00 | Weblog


 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)の昭和62年発行のコラム集から。

  「 どちらかというと私は韓国の味方で、社会党がいまだに北朝鮮だけを国家として認め、

   韓国を認めないのを嗤(わら)ったくらいである。韓国にはまだ『孝』が残っていると紹介したこともある。

    それというのも私は隣国が互に憎みあうのを好まないためで、フランスとドイツの犬猿の仲を見たことが

   あるからである。韓国とわが国がこれに似ることを私は欲しないが、韓国の指導者は欲するかのようなのは

   けげんである。

    いま話題の『新編日本史』に『伊藤博文は韓国独立運動の壮士安重根に殺された』とあるのを韓国はいち

   早くとらえ、安重根をごろつき呼ばわりしたと宣伝した。壮士とは時事に感じて悲歌慷慨する志士のことで

   ある。ほかに書生の意味がある。これらのふりをしたダラク書生ごろつきをいうこともあるのを奇貨として、

   選んでごろつきと訳したのは為にする誤訳である。韓国の若者はいま日本語を知らないから、ごろつきと訳

   せばそうかと信じる。

    むかし燕の太子丹は秦に滅ぼされる前に壮士荊軻(けいか)をして秦王(始皇帝)を暗殺せしめようとした。

   荊軻は無双の刺客である。太子の一行は荊軻を易水まで送って別れの宴をはった。

    荊軻はたとえ成功しても生きては帰れない。悲愴の感は宴にみなぎって並いる男たちの髪は冠をついた。

   『風蕭々として易水寒し、壮士ひとたび去ってまた還らず』という詩が残っている。

    韓国の知識人なら誰も知る故事である。日本の知識人の半ばもまだ知っている。燕趙悲歌の士――どうして

   壮士がごろつきだろう。」

   (山本夏彦著 「世はいかさま」 新潮社刊 所収)





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波の下にも都の候ぞ 2006・03・17

2006-03-17 07:55:00 | Weblog


  今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

   「 縁あって私は八代目團蔵を知っている。昭和四十一年八十四になった團蔵は四国遍路の旅に出て、旅は

    無事終えたのに帰途瀬戸内海に身を投じて死んだ。

     どこでどうして知ったか話せばながくなるから省くが、せめて追悼の小文を書きたいとそのとき試みた

    ができなかった。『波の下にも都の候ぞ』という名文句がある。コラムをそれで結ぼうとしたのがいけな

    かった。何によらずはじめに結びの文句が浮かんだ文章は成らない。是が非でもそれで終らせようとする

    からで、結びは自然にまかせるにかぎる。」


   (山本夏彦著「世はいかさま」新潮社刊 所収)




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歌は風流韻事でいい 2006・03・16

2006-03-16 06:30:00 | Weblog


   今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

  「 正岡子規の『歌よみに与ふる書』あらわれて以来、和歌は短歌と化して芸術を志すものになって

   しまった。それまで和歌は風流でありたしなみであった。男子の教養は漢字を自在に操ることで、

   平安の昔から明治の初めまで学のある男は日記を漢文で書いた。

    教育ある婦人も漢詩文を読んだが、書くときは仮名で書いた。『源氏物語』がその代表である。

   ことに和歌をよんだから男は女に恋の手紙を出すには仮名で書いて歌を添えた。手本はたいてい

   『古今』である。

    その『古今』を完膚なきまでに攻撃したのが子規だったのである。女たちは子規のけんまくに

   恐れをなして和歌をよむことをやめてしまった。枕ことばも掛けことばも用いなくなった。『み

   すず刈る信濃の旅』、『くれ竹の根岸の里』などといわなくなった。みすずなんてどんな笹か知

   らないが、それを刈るというといかにも草深い信濃の感じがする。

    和歌を短歌と改めたところで皆が皆芸術家になれるわけではない。そもそも凡夫凡婦にそんな

   才はない。日常茶飯を歌によむのは散文精神で詩精神ではない。教科書中の子規や茂吉の写真を

   見て、あれが詩人の顔かと『安哲』と呼ばれた哲学者安藤孝行は笑ったという(『新潮』61年3月

   号白崎秀雄)。読んで私も笑った。私は歌は風流韻事でいいと思っている。」


   「 人ごとに一つの癖はあるものを我には許せ敷島の道。
 
    平安末期の僧慈円の作だそうで、ついこの間までは知らぬものがなかったのに今は知るものが

   ない。和歌の道のことで、これを忘れて以来婦人に床しさをみること希になった。俗に断絶々々

   というがそれは戦後生じたのではない。風流韻事が滅びたときすでに生じたので、これも大正デ

   モクラシーの一特色だと私はみている。」


   (山本夏彦著「世はいかさま」新潮社刊 所収)




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みつぎとりと金貸 2006・03・15

2006-03-15 06:25:00 | Weblog


 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「 所得税の確定申告は二月十六日に始まって、三月十五日に終る。どうせとられる税金なら、
  さっさと払って私は忘れることにしている。
  たぶん皆さんそうだろう。一年十二ヶ月、月給日ごとに重税だと不平を鳴らす同僚がいたら、
  その男は爪はじきされるだろう。いやなことは忘れたいからである。それに彼のみ高い税率
  ではないからである。
   けれども今年は家に病人が出たので、医師や看護婦への礼、通院一時間の病院までの自動車
  代、薬代(但漢方)を申告したらはたして認められなかった。
   医師に礼金は包まなくていいと税吏は言うが、包むのが慣例である。名高い甲先生ならいく
  ら、乙先生ならいくらと相場がきまっているのがその証拠である。
   それを包まなければ病院の医師は月給だけで衣食することになって、『腕』はタダになる。
  町の開業医と収入に大差が生じ、病院から名医また凡医まで総退場する恐れがある。患家が礼
  することによって、両者のバランスは微妙にとれていると私はみている。
   むろん税吏はこれを認めない。大手術をした病人に、往復二時間の道を電車とバスで行けと
  いうのである。それなら税吏自身ガンになってみよ。医師に礼をしないでいられるか。
   税吏は血も涙もないものだと承知しているから、私は認められまいと知りながら、試みに申
  告したのである。私は人を奪う者と奪われる者、さげすまれる者とさげすむ者にひそかに分け
  ている。税吏と金貸は奪うもので、その代りさげすまれる者と昔からきまっている。
 彼らは町でうしろ指さされ、その娘なら嫁にもらい手がないという社会的な制裁を以前はうけた
 のである。ところがこの百年金貸は銀行員に化けて、その制裁をまぬかれ、税吏もまたまぬかれ
 そうだから、諸君爪はじきすることを忘れ玉うなと云爾(しかいう)。」

 「 みつぎとりはみつぎとり、金貸は金貸として堅気にうしろ指さされるなら、私はこんなことを
  言いはしない。並の人として遇されているから言うのである。」


   (山本夏彦著「やぶから棒」-夏彦の写真コラム-新潮文庫 所収)


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隣組の正義 2006・03・14

2006-03-14 06:30:00 | Weblog

 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)と山本七平さん(1921-1991)の対談集から。


 「夏彦 人間はおカネより正義を欲するんです。『何よりも正義を愛す』。そして実はこのほうが始末が悪いんです。

  七平 正義を欲すること今の新聞なんて代表的ですね。

  夏彦 反核アピールの署名運動なんかもそうですね。あれ、『正義』じゃないですか。

  七平 正義です。

  夏彦 反核アピールに署名しろ――あれ困りました。

    僕の読者から手紙でね、そのひとちゃんとしたひとなのに、あなたに署名してもらうアピールを送らなかった、

    申し訳ない、遅ればせながら送るといって、署名したひとの名前のコピーまで送ってくれたんです。

  七平 ほう。

  夏彦 そして署名してくれるものとばかり期待しているのですから、読者というものは多ければ多いほどありがた

    いっていうわけにもいかないんです(笑)。

     そのころ新聞に投書が出ましてね、五百人に送ったら、三百人が署名し、二百人が署名しなかったそうです。

    その名を発表してはどうかと書いてありました。

     これ昔の隣組ですよ。ほら戦争中、申しぶんのないことばかり言うひとが隣組にいたでしょう。靖国神社の

    前を通ったらお辞儀しましょう、なんて。

  七平 うん、いたいた。

  夏彦 あれ、抵抗できませんからね。抵抗したらうしろへ手が回りますからね。

  七平 国に命を捧げたひとへの礼を拒否するとは何ごとだ、まさに隣組の正義ですね。今も同じだな。

  夏彦 いま反核アピールに署名せよというひとは、むかしの隣組を最も非難するひとです。僕はあの隣組長と彼ら

     が同じに見えます。

  七平 フフフフ。

  夏彦 どうしてちゃんとしたひとが、ああいうことをするんでしょうね。不思議でしょうがない。

  七平 私も不思議ですね。

  夏彦 魔がさすのかしら(笑)。

  七平 反核声明なら自分で声明文書いて、自分で署名すればいいと思うんです。それならみんな内容が違うと思う

    んです。

    自分で書いて自分で署名すればいいんで、ひとの書いたものに署名するってのはおかしいですよ。

  夏彦 一々おっしゃる通りですな。しかし文士たちが、なぜその程度のことを言わないんでしょうね。

  七平 言えない空気なんですな。」


   (山本夏彦山本七平著「意地悪は死なず」中公文庫 所収)





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嫉妬は正義のふりしてあらわれる 2006・03・13

2006-03-13 07:30:00 | Weblog


  今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

  「 安部譲二の『塀の中の懲りない面々』が三十万部を越えたころ、私は全部税金だと思え、伊丹十三の

   映画『お葬式』の例を見よと言ったが安部は信じなかった。

    伊丹十三は『お葬式』で二億円儲けたが、税に約一億八千万円奪われたという。実に九割である。安

   部もいずれは九割奪われるだろうから、今からその覚悟と用意をしておくがいいと言ったがむろん承知

   しなかった。

    承知しないのはもっともである。一割か二割が税金なら分るが九割近いとは言語を絶すると安部は憤

   激するが、世間は同情しない。どうせアブク銭である、九割とられるとはいい気味だ、一割の二千万だ

   って大金だ。それなら伊丹十三の場合もそうか、松下幸之助の場合もそうか。

    持てるものから奪うのは正義だというが、何、ただのやきもちにすぎない。福沢諭吉は最もいやしむ

   べきは人をねたむことだと言った。だから嫉妬は常に正義のふりしてあらわれる。

    伊丹監督は『マルサの女』でわが税制を難じようとしたらしいが、結果は反対になった。脱税しよう

   としても『マル査』にはかなわないと思えという印象を与えて映画は終った。事は志とちがったのであ

   る。脱税するのは悪い奴ではない、九割とるほうが悪い奴だというテーマは、持たないものには喜ばれ

   ない。安部だって一文なしのころはどうせアブク銭だ、とられていい気味だと思っただろう。今は思わ

   ない。」


   (山本夏彦著「世はいかさま」新潮社刊 所収)






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亡びるなら全員まるごと 2006・03・12

2006-03-12 07:30:00 | Weblog



   今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

  「 美衣美食して助平のかぎりを尽すのは亡国の兆である。ローマはそれで亡びた。男女は寝そべって芝居を

   見ながら淫楽にふけった。食べては吐き吐いては食べて一回でも多くうまいものを味わおうとした。中国の

   『酒池肉林』のことは以前紹介した。

    けれどもこれらはみな王侯貴族がしたことで、のちにブルジョワがまねしたことである。したがって大衆

   とは無縁で、大衆はいつも貧しかったから百年ごとに怒って王たちを亡ぼした。大衆の指揮者は常に正義に

   よって不正を亡ぼしたが、亡ぼすや否や王侯のまねしたから次なる指揮者が再び三たび亡ぼした。

    それ千乗の王を倒すのは百乗の臣、百乗の主人を倒すのは十乗の家来だという。一天万乗の君というから

   一乗は兵車の単位だと分る。正義によるというが嫉妬によるということだと分る。それがこれまでの歴史で、

   世間はこの繰返しによって無事だったのである。

    ところが今回は違う。一億総おしゃれ総グルメ総助平になって更になりたいもののごとくである。有史以

   来ないことで、これを倒すものがあらわれる見込みがない。それなら亡びるなら全員まるごとではないかと

   案じられるのである。」


   (山本夏彦著「世はいかさま」新潮社刊 所収)





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