「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

作者にとっては作品がすべてである 2006・03・11

2006-03-11 07:35:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「石川啄木は死ぬ一両年前から朝日新聞の社員だった。明治四十五年の一月は啄木の短い生涯の最後の正月だった。

 自分の再起はおぼつかない、妻また病む、母まで喀血しようとは思いもかけなかった。その日まで啄木は借りられる

 だけの金を、借りられるだけの友から借りていた。

  丈夫なころの啄木はウソつきで見栄坊で、金田一京助に下宿代まで払ってもらいながら、たまたま五円舞いこむと、

 それで一円五十銭の勘定をしてつりはいらないと女中に与えるようなことをした。金田一はそれを見ながらそれを許した。

  新聞社の同僚にもずいぶん迷惑をかけていたはずなのに、上役の杉村楚人冠は正月早々、また正月下旬社内に『奉加帳』

 を回して金を集め啄木に贈った。

  啄木はそれに対して自分の気持はただ『ありがたい』とか『かたじけない』とかいう月並な言葉では言いあらわすことが

 できない。どうぞお察し願います。私は謹んで貴下のご厚情に浴します云々明治四十五年一月二十七日夜と礼状をしたためて

 いる。
 
  金田一は啄木にとっては神のごとき友であるが、金田一の家族にとっては啄木は疫病神のごとき友である。金田一の妻は

 啄木が来るたびにまた奪われるかとおぞ毛をふるった。金田一の家では啄木が没後次第にもてはやされるのが不服でなら

 なかったという。
 
  京橋の瀧山町の 新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな

  瀧山町の名は今はない。銀座六丁目のもと朝日新聞社のあと地にある瀧山ビルにこの歌の碑を建てたいと発起人は望んだが、

 当時の朝日新聞社長美土路昌一はがんとして許さなかったと扇谷正造氏は伝えている。美土路は若いときさんざん啄木に

 迷惑をかけられたのだろう。

  作者にとっては作品がすべてである。人物はカスである。だから人物を知っていると作品の鑑賞のさまたげになる

 以前私は言ったがこれはその例である。だからといって美土路が杉村に劣ると言いたいのではない。人には相性がある。

 たぶん相性が悪かったのだろう。」


   (山本夏彦著「世はいかさま」新潮社刊 所収)




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人はあたりをうかがって大ぜいに従う存在である 2006・03・10

2006-03-10 07:45:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は 、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から 。

 「 さる大新聞の世論調査によると 、国民の祝祭日に必ず国旗をおあげる家は一割 、
  時々なら三割 、あげてもいいと思っているだけのひとなら 八割いるという 。」

 「『 君が代 』斉唱も似たようなものだという 。なぜ旗をたてないか 、なぜ歌を
  うたわないかと問われても困る 。十年前私は問われてそれなら以前はたてたのか
  うたったのかとこちらが聞きたいと答えた 。
   いかにも戦前は戸ごとに日の丸の旗をたてた 。三大節をはじめ国民の祝祭日には
  必ずたてたから 、俗に旗日といった 。」

 「 戦争中私たちは 玄米を食わされた 。大根の葉っぱ薯のつるを食わされた 。一升
  びんに玄米をいれ棒でつついて白米にしたことはまだ記憶に新しい 。それなら
  一升びんや葉っぱを見ると戦慄するかというとそんなことはない 。食うや食わ
  ずで大人になった者どもは 、いま米の飯を残している 。捨てている 。
   私はそれを非難しているのではない 。ノドもとすぎれば熱さを忘れるのが人間
  の常だといっているのである 。それなのに ひとり国旗と国歌に対する怨みだけ
  は忘れないというのは本当らしくない 、自然でないといっているのである 。
   以前 戸ごとに旗をたてたころは 、たてないと怪しまれた 。今はたてると怪し
  まれる 。人はあたりをうかがって大ぜいに従う存在 である 。隣近所がたてれば
  たてるし 、たてなければたてない 。故に 以前はたてない人をとがめた 。今は
  たてる人をとがめる 。たてる人も たてない人も 別人ではない 。全く同一の人
  物だと問われて 私は同じことしか言えないのである 。」


   (山本夏彦著「世はいかさま」新潮社刊 所収)
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この世は九分九厘習慣で動いている 2006・03・09

2006-03-09 06:15:00 | Weblog

  今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「 前回私は子供は何でも知っているというほどのことを述べた。純真無垢どころか大人が持っている

  『悪』の萌芽ならみんな子供は持っている。したがって作文が書きたくないと、なぜ書かなければ

  いけないの?口で言えばすむものをなどという。

   作文の時間である、書けと命じれば足りる、子供の相手になってはいけないと言ったが、まじめ

  に相手になる先生がふえた。それをとりあげるマスコミがふえた。

   なぜいけないかというと、これをとりあげるとこの文句に理があると客観的に認められたことに

  なって、子供はそれに力を得てこのたぐいのなぜを連発してそのまま大人になるからである。

   だから新聞の投書欄は昔はこのたぐいの投書は没書にした。失笑して載せない暗黙の規則があっ

  たが、それがこのごろくずれた。なぜを連発して育った子がレポーターになり記者になったからで

  ある。
 
   私は新卒の社員が速達郵便の切手を右に左に上に下に貼るのに驚いて、左側一列に貼れと教えて

  『なぜ』と問われたことがある。すでに十余年の昔である。官製はがきを見よ、左の肩に貼ってあ

  るではないかと一蹴したがなお不服である。

   はがきの切手は一枚だが速達や書留は五、六枚貼ることがある。左右の余白に貼ってどこが悪い

  と言いたげだから左側通行と同じだ、郵便局員のスタンプを押す手が宙に迷うから左ときめただけ

  で、ひとえに能率のためだと言ったが、それは偶然私が郵便に詳しいから言えたのでそんなこと尋

  常のひとには言えやしない。

   この世は九分九厘まで習慣で動いているところである。一々なぜと聞かれて答えられる者はいな

  い。習慣重んずべしと小学中学で教えよと言っても教えないのは何か魂胆があるからで、それはす


  でにお察し通りである。」


   (山本夏彦著「世はいかさま」新潮社刊 所収)





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問答無用 2006・03・08

2006-03-08 06:25:00 | Weblog

 今日の「お気に入り」は 、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から 。

 「 子供も中学生くらいになると理屈を言う 。挨拶しないのをとがめると『 なぜしなければならないか、

  尊敬もしてない人に 』くらいのことを言う 。

   文明国では客には必ず挨拶する 。ボンジュールあるいはグッドモーニングと言って 、内心に敬意の

  有無を問わない 。問えば挨拶は失われるから 、ボンジュールと言えと幼いときから命じて言うくせを

  つける 。『 なぜ作文を書かなければならないのか 、口で言えばすむものを 』と言って書くまいとした

  例なら紹介したことがある 。昨日の運動会を一分で二分で三分で 、言えるものなら言ってみよ 。朝起

  きて顔を洗ってごはんを食べて弁当を持って学校へ行きましたと言っているうちに三分は過ぎてしま

  う 。かいつまんで言う訓練のための八百字の作文だと答える義務は教師にはない 。作文の時間である 、

  書けと命じれば足りる 。

   未熟な子供のなぜはなぜではない 。作文を書くのは自分と格闘することだからいやなのである 、ほ

  とんど苦痛なのである 。だからこんな屁理屈を考えだす 。それにつきあってはいられないと言うより

  つきあってはいけないのである 。

   いまの政治いまの世の中のしくみを疑うのはいいことだ 、何事もなぜと疑えと教えるから 、こんな

  なぜを持ちだされて教師は窮地におちいるのである 。凡百のなぜを承知した上でのなぜが真のなぜな

  のである 。承知しないもののなぜはなぜではないから 、したがって問答は無用なのである 。」

   ( 山本夏彦著「 世はいかさま 」新潮社刊 所収 )




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ちいさこべのすがる 2006・03・07

2006-03-07 06:20:00 | Weblog
 今日の「 お気に入り 」は 、山本夏彦さん ( 1915-2002 ) のコラム集から 。

  「 東郷平八郎の名も乃木大将の名も今の子は知らないという 。教科書に出ていないからである 。

   けれども風のたよりで知っている人は多い 。

    名だけを知ってそれが何者だか分らないのは気になる 。父母がよく知っているのに全く知ら
   ないのも気になるから知りたい 。

    西郷隆盛はさすがに知らぬものはないが 、桐野利秋 篠原国幹 別府新助 以下は知る人が少い 。
   西郷隆盛の股肱である 。

    司馬遼太郎の小説があんなに読まれるのは 名のみを知って それ以上知らぬ ヒーローを紹介
   してくれるからである 。

    トルコやハンガリーでは 東郷平八郎 の名は今もとどろいている 。

    大国ロシヤを破った提督だからで 、いまだにロシヤに圧しられている両国では東郷は英雄
   なのである 。

    それを日本の子供が知らないのは 、ただ軍人だというだけで 教科書が抹殺したからである 。

    どこにネルソンを知らない英国人がいよう 。

    戦前の子なら知らぬものがなかった人物を 戦後の子が知らなければ 、親と子の話は通じ
   なくなる 。文章もまた通じなくなる 。

    伝承が絶えるということは一大事なのである 。

    戦前の小学生は日本中同じ教科書で習ったから 、親が知る人物なら子も知っていた 。

    軍人ばかりではない 。

    稗田阿礼 も 松下禅尼 も ちいさこべのすがる も知っていた 。

    ちいさこべのすがる は無類の子供好きで 、彼が出あるくと幼な子がとりすがったから
   ちいさこべのすがる と呼ばれたという 。

    国定教科書はこれまで非難されるばかりでどういう教科書か明らかでなかった 。

    粉川宏著『 国定教科書 』( 新潮選書 )はその実体を明らかにしようと試みたもので
   ある 。

    教科書論争は四十年続いていまだに結着がつかない 。

    けれども よい教科書と悪い教科書を見わけるのは わけはない 。

    前にも言ったと思うが 、何より 自分の国を陰に陽に悪くいう教科書ならよくないに
   きまっている 。

    それは常に『 良心的 』という仮面をかぶっているからご用心 。」


   ( 山本夏彦著「 世はいかさま 」新潮社刊 所収 )






  ついでながらの
  筆者註 :・「 稗田 阿礼 ( ひえだ の あれ 、生没年不詳 )は 、飛鳥時代から奈良時代
        にかけての官人 。『 古事記 』の編纂者の1人として知られる 。
        概 要
         稗田阿礼については 、『 古事記の編纂者の一人 』ということ以外は
        ほとんどわかっていない 。同時代の『 日本書紀 』にも 、この時代の
        事を記した『 続日本紀 』にも記載はない 。『 古事記 』の序文によれ
        ば 、天武天皇に舎人として仕えており 、28歳のとき 、記憶力の良さ
        を見込まれて『 帝紀 』『 旧辞 』等の誦習を命ぜられたと記されてい
        る 。元明天皇の代 、詔により 太安万侶 が 阿礼 の誦するところを筆録
        し 、『 古事記 』を編んだ 。 」
       ・「 松下禅尼( まつしたぜんに 、生没年未詳 )は 、鎌倉時代中期の女性 。
        鎌倉幕府の御家人・安達景盛の娘 。北条時氏の正室 。鎌倉幕府の第4代
        執権・北条経時 、第5代執権・北条時頼の母 。子は 他に時定( 為時 )、
        檜皮姫 、女子( 北条時定室 )など 。
        生 涯
         元仁元年( 1224年 )、六波羅探題となった時氏に従って上洛 。のちに
        鎌倉に戻り 、寛喜2年( 1230年 )の時氏の死後 、出家して実家の甘縄邸
        に住んだ 。『 徒然草 』184段に 、障子の切り貼りを手づから してみせて
        時頼に倹約の心を伝えたという逸話がみえ 、昭和期の国語教科書などにも
        取り上げられた 。
         時氏の早世後は 息子の経時や時頼の養育を務めた 。第8代執権・北条時宗は
        松下禅尼の 甘縄の邸 で誕生している 。
         没年は不明だが 、弘安5年( 1282年 )10月以前には死去している 。 」
       ・「 少子部蜾蠃( ちいさこべのすがる )は 、『 日本書紀 』、『 日本霊異記 』
         に見える 雄略天皇時代の豪族 。『 少子部栖軽 』もしくは『 小子部栖軽 』
         と書かれることもある 。『 多神宮注進帳 』によれば 、多武敷の子 、多清
         眼の弟 とされる 。
         名 称
         『 蜾蠃 』( スガル )とは 、『 万葉集 』巻第九1738の長歌に『 腰細のすが
         る娘子 』とあり 、腰の細い 似我蜂 を指す 。『 少子部 』は『 子部( 児部 )』
         と同様に 、天皇( 大王 )の側近に仕える童子・女孺らの養育費を担当する
         品部であろうと思われ 、『 釈日本紀 』も同様の説をとっている 。小子部連氏
         は 、『 古事記 』の 神武天皇 の項目や『 新撰姓氏録 』では 、神八井耳命の
         子孫となっており 、天武天皇13年( 西暦685年 )に『 宿禰 』の姓を賜っている 。
         経 歴
         『 日本書紀 』雄略天皇六年三月の条( 推定462年 )に 、后妃への養蚕を勧め
         る雄略天皇から 日本国内の蚕( こ )を集めるよう命令されたが 、スガルは
         誤って児( 嬰児 )を集めてしまった 。雄略天皇は大笑いして 、スガルに
         『 お前自身で養いなさい 』と言って 皇居の垣の近くで養育させた 。同時に
          少子部連 の姓を賜った とある 。 ( 後 略 )             」
        以上ウィキ情報 。面白いなあ 。
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晩年惟好静 2006・03・06

2006-03-06 09:40:00 | Weblog


  今日の「お気に入り」は、盛唐の詩人王維(699?-761)の「張少府に酬ゆ」という詩一篇。

  原詩、読み下し文、現代語訳ともに、中野孝次さん(1925-2004)の著書「わたしの唐詩選」(文春文庫)からの引用です。


  晩年惟好靜   晩年は惟(た)だ静を好み
  萬事不關心   万事 心に関せず
  自顧無長策   自ら顧みて長策なく
  空知返舊林   空しく旧林に返るを知る
  松風吹解帯   松風 解帯を吹き
  山月照弾琴   山月 弾琴を照らす
  君問窮通理   君は窮通の理を問う
  漁歌入浦深   漁歌 浦に入って深し


(現代語訳)

 もはや世事には関心なく、また人に訊ねられたところでこれという策があるわけではない。今はこの山中に住んで、

 もうきちんとした宮仕えの服装でなく、気楽な恰好で松林をわたる風に吹かれ、琴を弾くうちに時の経つのを忘れて

 山にもう月が上っているのを知る。書を読み琴を弾じ、詩を詠み酒を飲んでたのしむ。こういう暮しが今のわたしに

 は気に入っている。君はわたしに経綸のすべてを問うがわたしには答えようがない。漁師の舟が戻ってきたらしく、

 浦の奥で彼らのうたう歌がきこえる。

 
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時おり鳥がなき 2006・03・05

2006-03-05 07:20:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、ヘルマン・ヘッセの「時おり鳥がなき」という詩です。

 時おり 鳥が鳴き
 風が小枝を渡り
 犬が遠い農家で吠えると
 私は黙って じつと耳をすます
 すると私の魂は戻つてゆくのだ

 忘れられた千年の昔
 鳥や 吹く風が
 私と似て 私の兄弟であつた時まで

 私の魂は一本の樹に
 一匹の獣 ただよふ雲となり
 その変つた見なれない姿で 帰つてきては
 私に問ひかける ああ それに
 どう答へたらいいのだらう?

        富士川英郎訳

 作家の中野孝次さん(1925-2004)が、その著書「わたしの唐詩選」(文春文庫)の中で紹介されている訳詩です。




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夜静かにして群動息(や)み 2006・03・04

2006-03-04 07:20:00 | Weblog



   今日の「お気に入り」は、盛唐の詩人王維(699?-761)の「夜静かにして群動息(や)み」で始まる詩

 を一篇。原詩、読み下し文、現代語訳ともに、中野孝次さん(1925-2004)の著書「わたしの唐詩選」(文春文庫)からの引用です。

  春夜竹亭贈    春夜 竹亭にて

  錢少府歸藍田   銭少府の藍田(らんでん)に帰るに贈る  王維

   夜靜群動息  夜静かにして群動息(や)み
   時聞隔林犬  時に林を隔てて犬声を聞く
   却憶山中時  却って憶う 山中の時
   人家澗西遠  人家 澗西(かんせい)に遠かりしを
   羨君明發去  羨む 君が明発に去り
   采蕨輕軒冕  蕨(わらび)を采(と)って軒冕(けんべん)を軽んずるを

 (現代語訳)
  夜になってさまざまないきものたちの動きが息(や)み、静かになった。今はときおり林の向うで犬の鳴くのが聞えるだけだ。
  こう静かな夜にはかえって終南山にいたときを思いだす。あそこでは人家は澗(たに)の西の方遠く、山々はすべて静まりかえ
  っていた。そのことを思うと、あなたが明日の朝発って南山に行き、役人勤めであくせくするのをやめて蕨をとって生きるよ
  うな暮しをなさるのが羨しい。
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笑わぬでもなし 2006・03・03

2006-03-03 08:30:00 | Weblog


 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「(人は)自分をほめる言葉には敏感である。それには常に理があって、何度聞いても飽きない。

  ところが、他人(たとえば友人)をほめる言葉には違った意味で敏感で、それは一度聞けばたく

  さんである。繰返されると、いやな気がする。反対に悪口は他人に対するものには理があって、

  何度聞いても飽きない。自分に対するものなら、そもそも聞きたくない。だから友の悲運を嘆い

  てみせる友より、友の幸運を心から喜んでくれる友のほうが、真の友だといわれるのである。」

    (山本夏彦著「笑わぬでもなし」所収)




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若菜摘みの歌 2006・03・02

2006-03-02 06:30:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、「閑吟集」から若菜摘みの歌。

 ・いくたびも摘め 生田の若菜 君も千代を積むべし

 ・菜を摘まば 沢に根芹や 峰に虎杖(いたどり) 鹿の立ち隠れ


 ・木の芽春雨降るとても 木の芽春雨降るとても なほ消え難きこの野辺の 
  雪の下なる若菜をば 今幾日(いくか)ありて摘ままし 春立つと言ふばかり
  にや三吉野の 山も霞みて白雪の 消えし跡こそ道となれ 消えし跡こそ道となれ

  ( 木の芽が萌え出る春雨が降っても、まだ消えにくいこの野辺の雪に
   埋もれている若菜を、あと幾日たったなら摘めるだろう。でも、
   さすがに春が来たというだけで、吉野の山々に霞がかかり、
   白雪も何時しか消えて、その跡に黒々とした道が現われていることだよ。)

  浅野建二校注「閑吟集」(ワイド版 岩波文庫)所収
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