美容院に行ったら七夕の笹がかざってありました。私の住んでいる地方では、七夕は7月7日ではなく8月7日にかざります。お客さんに願い事を書いてもらっているとかで、短冊を渡されました。ああ、昨日までだったら、「シロ、できるだけ長く生きていてね。」って書けたのに。ちょっと考えて次のように書きました。
「シロ、千の風になって、いつまでもわたしたちのそばにいてね。」
先日、新聞に「死者が千の風になるという考えかたは、全てのものに魂が宿るという原始的なアニミズムに通じる。仏教などの成熟した宗教は、それを克服して『死者は極楽浄土へ行く』ということで魂を救済しようとした」といった内容の記事が出ていました。しかしながら「千の風になる」という考えかたが広く人々の共感を得たのは、残されたものの悲しみを癒す考えかただったからだと思います。死んだら極楽浄土へ行く(生きていける)という教えは、死すべき人間にとっては、死の苦しみや恐怖を除き、来世への希望をもたらすかもしれませんが、残されたものの喪失感は簡単には消えません。
とはいうものの、24時間ずっと悲しんでいるわけではないのです。喪失の思いはふとした瞬間に浮かんできます。たとえば、朝えさをやりに外へ出て、いつも戸口で期待に満ちた顔で待っているシロの姿が見えないとき、あるいは車庫の隅でぐったりと横になっているのを起こさないように、そっと車を乗り入れようとして「ああ、もうそんなことしなくていいんだ」と思うとき。そんなとき、あの子は風になって今ここにいると考えると、ふっと心が軽くなるような気がします。
「千の風になって」の歌が大ヒットしたということは、それだけ多くの人が悲しみを抱えて生きているということなのでしょう。
「シロ、千の風になって、いつまでもわたしたちのそばにいてね。」
先日、新聞に「死者が千の風になるという考えかたは、全てのものに魂が宿るという原始的なアニミズムに通じる。仏教などの成熟した宗教は、それを克服して『死者は極楽浄土へ行く』ということで魂を救済しようとした」といった内容の記事が出ていました。しかしながら「千の風になる」という考えかたが広く人々の共感を得たのは、残されたものの悲しみを癒す考えかただったからだと思います。死んだら極楽浄土へ行く(生きていける)という教えは、死すべき人間にとっては、死の苦しみや恐怖を除き、来世への希望をもたらすかもしれませんが、残されたものの喪失感は簡単には消えません。
とはいうものの、24時間ずっと悲しんでいるわけではないのです。喪失の思いはふとした瞬間に浮かんできます。たとえば、朝えさをやりに外へ出て、いつも戸口で期待に満ちた顔で待っているシロの姿が見えないとき、あるいは車庫の隅でぐったりと横になっているのを起こさないように、そっと車を乗り入れようとして「ああ、もうそんなことしなくていいんだ」と思うとき。そんなとき、あの子は風になって今ここにいると考えると、ふっと心が軽くなるような気がします。
「千の風になって」の歌が大ヒットしたということは、それだけ多くの人が悲しみを抱えて生きているということなのでしょう。