と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

PTA新聞に書かせていただきました

2012年03月07日 20時38分24秒 | 先公ごっこ2008年から2012年

県立銚子での思い出
                                                                                     
 県立銚子での思い出というテーマで書いてみよということで、関係職員からいただきました。ありがたいかぎりであります。



 ふと思ったのが、思い出というと何を書くべきであろうかということでありました。経歴では人に笑われるし、業績ではなにかやったことがあったのかと自省する日々でありますし、ましてやあれこれと他人に吹聴できるものなぞ学歴をはじめとして何も無し。天下無一物であります。唯一思い出として書けるならば、それはインターネットの世界に外山日出男として検索していただければ、種々雑多な情報と称するものが出てくるということでありましょうか。



 つまらない世界であります。



 なぜか。



 それはもう過去のものであるからであります。過去に執着しているほどみっともないものは無い。瞬間は、日々刻々過ぎ去って参ります。今現在を充実して生きるしかないと、懶惰な生き方ではありましたが、信念として持って参りました。過去よりも、未来に生きていきたいからであります。



 県立銚子は、生まれ変わりました。さらに、未来形において楽しみな展開がどんどんあるようであります。新校舎になる、防災の学びがあるというような展開が未来においてなされていく。それらが現実のものになるときは、わたくしは過去の人。きれいさっぱり高校教育界からさよならをさせていただきますので、遠くから応援だけはさせていただきます。それがこれからのわたくしのミッションでもありましょう。



 ただし、在校生諸君や卒業生諸君には、県立銚子で学びの日々を送ったこと、その時間的な流れにおいては、記憶にとどめていただきたいと願わずにはおられません。



 学びというのは、ある一つの学校を卒業したから完成したのではありませんから。つまり、本校を卒業しても永続するのが学びであります。そういうことを考えられなくなったときに、停滞が訪れます。もういいや、勉強なんてこれっきり。厭きたとか、なんとかとか、何も自分から自分の将来を捨て去ることもない。あるいは自分はこれ以上無い完全なインテリであるとか、道徳的に完璧であるとか、そういう観点から他人を誹謗中傷したりしている暇があったら、勉強することであります。



 たった4年間だけの校長ではありましたが、県銚ニュースや、校長ブログ、銚子の日刊紙、教育関係出版社からの教育関係雑誌等々あらゆる機会を通じて、生徒諸君には訴えてきたつもりであります。たった4年しかなかったというのが、残念でありました。もっと時間を与えていただければもっともっと理想の学校経営ができたのかもしれないと感じることもあるからであります。しかし、致し方なし。時間が来てしまいました。定年でありますから。定年というのは、諦念とも書きます。意味深長であります。諦めよということでもあります。



 わたくしは、諦めた結果、4月からますます切磋琢磨して、学びの世界に突入して参ります。県銚の4年間よりももっと長い時間が待っていてくれるからであります。楽しみであります。



 お世話になりました。   


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3月6日(火)のつぶやき

2012年03月07日 03時49分15秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
22:59 from web
高橋源一郎先生を知った。なかなかの作家で、大学教授である。

22:59 from web
高橋 源一郎(たかはし げんいちろう、1951年1月1日 - )は、日本の小説家、文芸評論家、明治学院大学教授。日本テレビ放送番組審議会委員。広島県尾道市出身。灘高等学校卒、横浜国立大学経済学部除籍。

23:00 from web
高橋源一郎 @takagengen「「あの日」からぼくが考えている「正しさ」について」が出版されました。去年の3月11日から今年の1月1日までに書いた文章が載っています。ツイッターで呟いたこともその期間だけ載せました。 p.tl/VZ1G

23:01 from web
というように紹介されている。

23:01 from web
またまた一人の哲人と出会えたような気がする。

23:03 from web
こういうスタイルが一番いい。本でもそうだ。良い本は向こうから呼びかけてくる。本当にそうである。

23:03 from web
つまり読み手がいくとおりもあるということである。解釈の正解がないのである。

23:05 from web
読み手の数だけ解釈が違うというのもいいものである。レヴィナスを読むときもそうだ。難解すぎて、読み手が選ぶ書籍ではない。レヴィナスに選ばれているような気がするのである。

23:07 from web
ドストエフスキーだって、そうである。こっちが選んで読んでいるのでは無く、呼ばれている、なんだか知らないが、ドストエフスキーに選ばれているような気がするのだ。

23:10 from web
高橋源一郎先生の本は、明日もまた買うのであろう。ショッピングセンター内の書店で。斜めに見、手に取って見、ため息をついて見るのである。変わったおじさんである。もっとも、もうすぐホンモノのじぃさまになるけれども。

23:13 from web
ほんとうに活字中毒である。一日と言えども中古本の店と、インターネットの古書店を覗かない日はない。赤鉛筆でぐりぐりと、あるいは三色ボールペンでさらさらと線を引きながら、読んでいる。最近は100円ショップの60枚ノートというのも重宝している。安いし、バンバン書くのだ。

23:15 from web
最近気がついたことがある。対話が大事だと言われているが、あれはある種の定理を覚えていないと、できない。案外それに気がついていない方が多いのではないかと思うのだ。

23:16 from web
他者の視点から見ているんだろうか。自分自身をである。

by kencho943 on Twitter
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/