銚子地区で震度5弱の地震がきました。
被害はありませんでしたか?
学校は大丈夫です。
ただし、明日の電車が心配ですので、Twitterにも書いておきましたが、明日本校公式HPの掲示板で連絡をします。
HPも見られない場合は、Twitterで連絡します。
気をつけてください。
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・小津安二郎の映画はいい。
・なにがいいか?・・・・・・それは大人になるというその過程において、われわれは何を考え、どのように行動したらよいのかというロールモデルを知ることができるからである。
・さらにこの「父ありき」は、教師としてどのように大人になっていくべくかを示しているとも思うのである。
・淡々とした語り口。感情を制御しているという点で、この笠智衆という役者は実にすばらしい。教師はこうでなくてはいけない。大げさな身振り手振りで、激して、自分の素で勝負するようではいけない。
・大人の対応というものは、こういうものであるのだ。ましてや、教師ならば感情コントロールというのは重要である。
・このことは、大学で非常勤講師として教職課程も教えさせていただくので、学生諸君に課題として聞くつもりである。
・つまり構造主義的にどう考えたら良いのか、ということをである。単なる教育技術や方法論を超越しているのではないかと思うからである。
旧制中学教諭の堀川周平(笠智衆)は、妻の亡き後、男手一つで息子の良平を育ててきた。つましいながらも幸せな生活を送っていたが、突如、トラブルに見舞われる。修学旅行の引率で箱根の芦ノ湖を訪れていた時、ボートが転覆して生徒の生命が失われてしまったのだ。
責任を取って辞職した周平は、生まれ故郷の信州に退く。豊かな自然の中での新しい生活。幼い良平とって、父親と連れ立って釣りに出掛ける事が一番の楽しみになった。
しかし、親子一緒の楽しい日々はそう長くは続かない。良平を上の学校に行かせるためには安定した収入が不可欠だ。周平は息子を中学の寄宿舎に預けると、商社マンになるために上京した。
父親の支えの中、学業に励んだ良平(佐野周二)は、大学を卒業した後、父と同じ教師の道を歩み、東北の学校へ着任していた。
ずっと離れ離れだった父の事を想い、共に暮らすために職を辞して東京に帰ろうとも考えたが、父から「自分は続ける事は出来なかったが、教師を天職だと思って頑張ってほしい」と諫められて思い直す。温泉で束の間の邂逅を果たした親子は、いつかのように川で釣りに興じた。
時代に戦争の影が差していた。徴兵検査を無事通った坊主頭の息子の姿を見て、周平は妻の仏前に手を合わせる。
良平は立派に成長し、縁談話もまとまった。もはや思い残す事もない。引退して、これからは親子一緒の平穏な暮らしが送れると思っていたのだが・・・
・この小津映画もまたすばらしいのだ。旧制中学校の数学教師。例によって笠智衆さんが父親役をやっている。珍しいことに髭をはやしている。
・父一人、息子一人(佐野周二)のつつましい生活である。親子の関係を描いていて、「晩春」の場合は娘版であったが、これもまた親子関係を描く点ではすばらしいものがある。
・しかし、今回は別の観点から注目してみた。
・それはこの映画が教育の方法と技術という観点で分析可能であると考えたからである。
・笠智衆さんが、黒板を前にして数学の授業を行っている。珍しいことである。数学の図形の問題を解いて見せている。とつとつと語っている。語り口はなかなかのものである。
・この映像を見て、現代の大学生はなんと思うだろうと思った。特に、教職課程をとっているような学生はなにを考えるだろうかとふと思ったのである。
・さらに、息子の方は仙台にある旧制帝国大学の理工系で学ぶ。そして、大学の世話で秋田県の工業学校の先生になって赴任していく。
・工業学校での理科の授業であろうか。息子の方の授業風景も出てくるのである。
・これは実におもしろかった。手法の優劣については、こちらも職業教師であるからいろいろ言いたいことはあるが、これは映画である。だから、それもまた避けよう。
・そして思った。また大学生である。学校の教師になりたいと思う若者がこれをどうレポートするのか、ということである。
・楽しいであろうと思う。
・主人公(笠智衆)の父親は、漢学の先生であったようだ。金沢藩お抱えの漢学者であろう。DVDのせりふだと、よく聞こえない。しかし、こういう文化的雰囲気というのはいいものである。
・だから地域の教育力が大事なのである。おとなたちの、文化力がである。これは絶対に軽視してはならないことである。
・しかし、小津監督は好きだなぁと思う。漱石の作品に出てきそうな青年がたくさん登場するのだ。旧制の帝国大学を好んで使う。そういえば「晩春」の主人公の大学教授も帝大の教授であった。
・印象に残るのが、工業学校の教師をしている息子が、父親と一緒に生活したいからという理由で、秋田の学校を退職したいと父親にすがるシーンである。
・それを説得する主人公(笠智衆)のせりふがすばらしい。まるっきり、教師心得である。淡々と言っているから余計に説得力がある。現代ドラマのような、オーバーアクション、つまり妙な声高や興奮がないからである。
・優れた作り手にかかると実に見事になる。
・この教師心得もまた教師志願者に聞いてみたいことの一つである。どう答えてくださるだろうか。そんな場所があればである。
・無理な話はこれ以上しないようにしよう。
・女言葉はどこへ消えたのかという問いは、非常に興味のある題材である。
・ずっと中学校や高等学校の教師をやっていたせいで、日常的にそれを感じていたのだ。 しかも、30代と44歳までは、高等学校の柔道部顧問で、担任大好き人間であったから、生徒の間に割り込んでいって、彼らの会話方法を盗み聞きするのを生業としていたのだ。
・自分のことを「オレ」と言うもの、「ワシ」というもの。それこそどうなっているんじゃいと思っていたのだ。 むろん批判的に書いているのではない。ま、それもありかな・・・と思っている程度でしかないからだ。 自分がそれでいいと思っているんだったら、それでいいんじゃない?というのが私のスタンスだからである。
・そもそも、性的な役割分担なんていうものは、固定化されているものではない。 父親役、母親役という設定だって、離婚すれば、どっちかの親が両方の役割を兼ねるしかない。 ふたつあって、十全たるものであるならば、その機能を一部失ったならば、兼ねるしかないではないか。 だから、女性だからこういうことでなければならないとか、言葉についてどうのこうのと言うつもりはない。
・しかし、ここに非常に興味深い研究をされた先生の書物と出会ったのである。 それは尊敬する小林千草博士の「女ことばはどこへ消えたか」(小林千草著 『女ことばはどこへ消えたか』2007年 光文社新書)という書籍である。
・小林千草博士は、私の平安、室町時代の国語国文学の学習に必須の先生であって、特に能楽研究では非常に尊敬申し上げているかたである。(例によって一方的にである) その先生がどういうことを言われているのかを、メモとしてここに残しておきたい。
○「ちげーよ」(同書 p.13) 上代(奈良時代)では、「たがう」と言い、平安時代でも「たがう」が主流であった状況下、その変化形として「ちがう」が新登場。 上記の事は知らなかった。
・ここから小林千草博士の絶妙な引き込みにはまる。うまい!実にうまい。流行作家でもこれだけのテクニックを駆使できる人はいないのではないか。 しかも、新書版とはいえ、入門的な学術書である。
・学術書というと、難解で読むものを拒否している書籍が多いのに、実にお人柄であろうか、私のような初学者にも親切である。
・こういう入門的な書籍の中に、「聞いたことがない」「知らなかったこと」があるのである。
・私は基本的に、「知らない」ことを学びたい。知っていることを、あれこれ言うことは楽である。だから、学ぶのである。
・学びとは基本的にそうではないのか。 知らないことがあまりに多すぎるし、経験してきた、あるいはこれまでも一応の水準にあると思い上がってきたことも、実はホントは知っていなかったというレベルでしかなかったことをイヤというほど経験してきたからである。
・大人になるということはそういうことなのではないのか。
・いつまでも、高校大学レベルでやってきたことにこだわり、それを使い古したノートに書かれてあることを、そのまんま受け売りで、知識人としてふるまうというのは、いかがなものか。
・「お話を思いつく」というスタイルで、このような形でブログの記事にするということで、知識としてマスターできると最近は思うようになった。
・結構大事なコツである。
・思いついたら、キーボードをたたくことである。最近はポメラという機械もあって、重宝している。どこでも乾電池さえあればできる。乾電池はコンビニでも買うことができる。
・駅の待合室でも打てる。大学の学生食堂でも打てる。図書館でもできる。タブレットコンピュータや、ノートパソコンだと、電源の関係で座るイスが指定されるし、借用申込書が要る。じゃっかんこれでは困る。もっとも、筆者の在籍させていただく大学院は、情報教育でも有名であるから、こちらの方で困ることはまったくない。充実ぶりはさすがである。
○女の笑いの言語力 「ほほほ」 笑い声に託されたもの(p.30) 漱石の「三四郎」に出てくる笑い声である。よし子を最初もらうと言った人のところに、美祢子が結局嫁ぐことになった人生の不思議、縁の不思議を「可笑いでせう」と表現している。そして、ことばだけでなく、笑い声が伴っているのである。
・女が「ほほほ」と笑うとき、いろいろな彩りがある。 相手に迫っているからである。女の笑い声は、動作が伴うときに、品性と精神的高揚を現す。
・深層心理をどういうふうに現すかは、非常に複雑ではあるが。
・主体としての「ほほほ」なのであろうか。
・否。
・女はほほほでもって、他者と主体の関係をいったんリセットしているのではあるまいか。(というのは私のとほほな体験談からきているものだけど) 豪快に笑い飛ばすという感じの笑い方ではないのが、「ほほほ」である。(当たり前だ) しかしながら、しっかりとした「男への挑戦」みたいな響きも「ほほほ」からは感じる。
・能楽で使う面だって、そう感じるのである。なんだか、せせら笑われているような気分になる。しかも、それは爽快なんである。なんとしたことか。
・また考えてみたいことの一つである。
レヴィ・ストロース入門 読書メモ
参考文献(レヴィ・ストロース入門 小田亮著 2000年 ちくま新書)
私が語っているときに、どうやら自分の話をしている時は、その殆どが「他者の教え」であるというのが、構造主義たちが言い出したことだそうな。
これはほんとうにそうだ。事実、こうやって、私は構造主義の受け売りをメモにしてブログにまとめて理解をしようとしているのだから。
しかもご丁寧に、ページ番号まで振ってある。
これは後で、なにがしかのレポートにするときに役立てようとしているからであって、なんともまぁ手抜き工事もいいところだ。
しかしである。
こういう野蛮な試みもまたいいものである。
第一、私は活字中毒である。あるいはなんか書いていないと落ち着かない。
かなりの重傷である。夕食を忘れても活字を読まない日は・・・・・(おっと、そこまで言い切っていいんだな?)あるかもしれない。
ま、そんなレベルだ。
ヨーロッパの人々が、アジアやアフリカを植民地化して、虐待をした。未開人として遇した。日本だってどうなったかわかったもんじゃない。
彼ら自称先進国の人間たちは、未開人たちを自分たちのような進化した歴史過程の前の段階にいると査定したのだ。
自分たちは、そういう未開の段階を通過して、乗り越えたからこそ、現在の文化的繁栄にあると信じきったから残忍であり得たのである。
構造主義とは、そうした歴史的野蛮に対して強い嫌悪を持つ。
構造主義は、時間の広がりと深みを大切にする。私とは違う時間の中に生きている人に、世界がどのように見えているかは、私にはよくわからないという知性を持っているのである。
自分自身こそ、そのよくわからないものであるのだが。
○構造という語のイメージ (pp.44_46)
構造という語は誤解されている。建物の構造とか、会社組織の構造とか、変化しないものとして理解されている。動かない固定されたものというわけである。
構造からの解放とか、日本文化の構造に根ざしたものという言い方は、レヴィ・ストロースのいう「構造」からは出てくるはずのないものである。
体系=システムという意味ではないのである。
○体系と構造の違い (pp.46_49)
構造とは、要素と要素間の関係とからなる全体であって、この関係は、一連の変形[変換]過程を通じて不変の特性を保持する(p.46)
構造と体系の違いを理解することが鍵である。ポイントは、構造が変換transformationという概念と一体であるということである。(p.47)
体系とは違って、構造は変換するという点が違う。最もシンプルな答えは、一連の変化の過程をとおして「他の一切が変化するときに、なお変化せずにあるもの」(同上)
一つの体系のみを考えるから不思議なものとなる。
○ジャンケンの体系の変換 (pp.49_51)
ジャンケンは体系である。
要素の関係=体系
藤八拳というジャンケンに似た方法がある。庄屋(手を膝に当てる格好をする)、猟師(手を前に出して、鉄砲を撃つ格好をする)、キツネ(手を耳に当て、キツネの格好をして表す)
ジャンケンの体系が藤八拳と入れ替わることも可能 ある変換の規則による変換の関係が見いだせる時、ジャンケンと藤八拳は一つの変換群をなし、同じ構造を持つというわけである(p.50)
要素間の入れ替えだけで、変換をとおして不変なるものというわけにはいかない。
内的脈絡がキーワード
○トムソンによる変換の概念 (pp.52_57)
「成長と形態」からの影響がある。
「遠近の回想」で言っている。動植物の同じ属の中での種相互の、あるいは器官相互の目に見える差異を変換としている。
○『親族の基本構造』の独創的なところは、この二つの謎にたった一つの答えを出したことにあった。その答えというのが「女性の交換」である。すなわち、インセスト・タブーという規則も交叉イトコ婚という規定婚の規則も、社会そのものを成り立たせている自集団と他集団との差異と対立の関係を、自と他とのあいだの「女性の交換」による互酬的な関係として確立するための規則なのだという答えである。(p.82)
↑:この考え方は近親婚をタブーとする考え方をどうとらえるかということの結論でもある。すぐれて構造主義的な発想であろう。
小西甚一博士の「日本文学史」(小西甚一著 講談社学術文庫 1993年第1刷)を読了した。考えることあり。
「猿楽(散楽)のなかに、たぶん十一世紀後葉ごろから、劇的所作が発生したことは、すでに述べた。しかし、それはわたくしどものいう『能』と同じではない。能とは劇的所作のほかに音曲と舞踊の加わった総合的な楽舞劇だが、そういった意味の能が素朴ながら成立したのは、一三世紀の中ごろと推定される」 (p.105)
小西先生は能の成立時期を高らかに宣言されている。この定義でこれからの学びを継続していきたいものである。
「それはわたくしどものいう『能』と同じではない」
ここである。この部分にひっかかりを感じるのである。でなければ私の目は節穴である。恥を知れというようなものだ。(もっともこれまで、節穴ばかりの人生であったが・・トホホ)
じゃぁなんなのだ?と読み進めるべきであろうから、そうする。
猿楽の能を、農村歌舞伎を源流とする田楽以上のものにしたのが、観阿弥・世阿弥なのである。結論から言うと。
小西先生は、「形勢をくつがえし」と表現されている。この言葉はなまなかなものではない。一四世紀には、田楽の能が一段と進歩していたからである。また多くの名人達も現れた。一忠とか亀阿弥などである。
この状況の中で、猿楽を田楽の能以上のものに仕上げたのが、観阿弥・世阿弥なのである。
猿楽も田楽も彼らの興業を合理化するために「座」をもうけた。12世紀中頃から13世紀である。実質的に支援していたのは寺社であったが、寺社の経済的な逼迫状況から次第に武家に支援をしてくれる相手が変化してしまう。
もっともそうした恩恵を受けたのは、大和猿楽だけである。他には、結城座(観世)、外山座とびざ(宝生)、円満位座えまいざ(金春)、坂戸座(金剛)がある。
観阿弥は、あまり定型に拘らず、詞章もわかりやすい。演能技術に優れており、さすがに才能のある人間である。なにをやっても成功したのではないかというタイプだったのではないか。いわゆるやり手。・・・もっともこれは私個人の感想ではあるが。
その観阿弥に興味を持ったのが将軍の義満である。(同書 p.108)
世阿弥は、父観阿弥の作風を変化させた。幽玄を重視した歌舞第一の行き方であり、高雅な優美さを指す。藤原俊成の幽玄とは一線を画す。徹底した理念的芸術である(p.109)
小西先生はこう概略を述べられている。
この基本の上にたって、これからの私の作業過程を構築していきたい。
なぜなら、基本認識がどこにあるかによって、道びかれていく先が違ってくるからである。能を歴史的な分野の一部であるとして、追求していくとそれはそれで違った方向にいく。先行研究としては、大阪大学の天野文雄先生の「世阿弥がいた場所」(ペリカン社)がいい。早稲田の法学部を出られてから國學院大學大学院で勉強された学者である。天野先生の著書は、歴史的な観点から能を分析されているから、興味が尽きない。
私は、死生学の観点からここのところをもっと勉強してみたいのである。
そしてこのブログはそのためのメモでもあるのである。