・吉川英治先生の宮本武蔵に出てくる。言わずと知れた宝蔵院流槍術である。思うところ多々あり。「我」にとらわれていると、武術人として(ドシロウトだけど)碌なことはないということを思った。
・勝敗に囚われていると、我に埋没してしまう。
・また、あいつに勝ちたい、負けたくねぇとかなんとかやっていると「相対主義の地獄」に陥る。成果を問うてはならんのである。数字で現される世界は所詮相対の世界でしか無い。勝敗だって、数字であらわされるではないか。みっともない。
・剣聖上泉信綱の生き方にも学ぶことがある。つまり相手をリラックスさせる名人だったのではないかと思うからである。固い動きからは、(あるいは言動から)相手の反発だけを招いてしまうだけである。
・強烈なリーダーシップとかは、ただただ相手を固くしてしまうだけではないのか。
・老子よりも荘子か・・・・・・。
・あるいは無門関の世界であるのだろうか。
・なぜ、そろいもそろって古来の剣聖は、柔らかいのであろうか。リラックスの名人であるような気がしてならんのである。
・相手の姿の中に、自分を見るということなのであろうか。
・禅も、武術も、学問も、全部一緒になって見えてくる。
・不思議な世界である。