・武術というものは、なんのためにやっているのだろうかということを考えることがある。
・少なくとも敵対関係を作り出して、勝ち負けを競うというようなものではなさそうだ。
・それは相手からの問題設定をいただくということである。柔道で組み合っているとき、腕を通して、ある種の情報が伝わってくる。それが問題設定なのである。
・Aという動きをしたら、あんたはどうすんだい?というような問答がくりかえされるのである。
・これが非常に貴重な体験になる。だから、いついかなる場合でも、武術をする人は対応に迫られることになる。
・問題が出されて、即対応をしなくてはならないのである。当然である。それが武術の本筋であるからだ。
・決して勝敗にこだわってはならない。競技ではないからだ。勝っても、負けてもこだわってはならないのだ。問答法だからである。
・つまり競技としてではないという意識を持っているからである。
・武術人としては、私は素人だから言えるのかもしれない。こんなことは。
・30歳くらいで、確かに4段の免状はいただいた。高校の柔道部顧問もさせていただいた。しかし、いつまでたっても「未熟」であるという思いがあるのだ。
・未熟であるから追求するのである。技もきかない、かからないから工夫するわけである。
・武術ばかりではない。武術を通して、いろいろな社会問題や、世間のことを考える。
・教育問題がコアになるか。そうかもしれない。たちどころに、答えることでなくてはならないのだ。問題に対しては。それが可能になるように、普段から準備をしておくことが武術人としての心構えである。
・もっとも、教育問題について対応を考える場合はかならず前提というものを私は問題にする。でないと、独断に陥るからである。
・さらに武術人は、いいものを学ぶことができる。それは応対辞令というか、丁々発止のやりとりの中で覇気をもって対応することができるということだ。リーダーとして必ず持っていなければならない能力がこれである。
・相手から攻められた場合、覇気がなくてはならない。言われっぱなしでは、いつのまにか責任まで押しつけられる。もっとも、最終責任を持っているのは組織のトップである。逃げられないのだ。それはそれでそういう生き方を選んだ以上仕方がない。
・教員として、多くの経験をしてきた。世間で言いふらされているように、モンスターなんとかというのもいた。
・聞くべきことは聞いてきた。しかし、あまりにも理不尽な場合は、やわらかに対応するしかない。相手の論理的矛盾を分析しながら聞く。そもそも、批判ばかりする方々は、批判をすればするほど相手は立ち直ってくれるという善意の人種なのである。だから批判をする。
・似非マルクス主義者というのもいた。個人的に文句を言うことで、それがいつのまにか万人の考えることであって、自分の説はいつでも正しいというふうに、主張を修正してしまう方々である。そして、必ず批判されるべき階級的な相手が想定されているのだ。相手がいるから、文句を言えるわけである。よって、階級的な闘争相手を常時作り出さなくてはならなくなる。
・一方的な攻撃の意志は、逆から考えると一方的な被害者意識にも結びつく。自分だけが被害者であると自己規定をして、相手を攻撃するわけである。正しいのはいつも自分だけなのである。
・だから相手を完全に消滅するまでたたく。これは私の嫌う戦争の論理と一緒ではないか。
・ともかくである。
・武術をやる人間は、考えなくちゃならんということである。世間に疎い(実際、私は疎い)と言い訳をしておってはいかんのだ。
・反省、反省。
・今日はこれから田舎暮らしをしているので、町内会の寄り合いがある。来月からなんだか暇だろうと思われているようで、ありがたいお役をいただくんだそうである。順番である。定年を待っておられたのだそうだ。田舎暮らしだから、私はまだまだ若造である。参ったね。大学生になるとか、院生になるって言ったって誰も信用してくれんだろうから。
・では・・・・・・・・・・行ってまいることにします。