「つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」
・有名な、ほんとうに有名な徒然草冒頭の文である。第1段。受験勉強の時に誰しもくぐる正門みたいなもので、実に懐かしい。暗唱もさせられた。否、させていただいた。
・この部分は、加齢にともなってだんだん理解できてくる。それは、「日くらし」である。「一日中」なのである。あるいは「朝から晩まで」なのである。
・このことがなにを意味するのかということを、最近は考える。
・終日、単調なリズムで時間が流れるということである。これはたまらんことである。
・退屈してしまうではないか。まるっきり定年後のと~ま君の生活ぶりではないか。(もっともそれがイヤで学生になったのだが)
・今と違って、テレビもないし、スマートフォンとかいうものもない。ないないづくしである。
・もっとも、学説によればそんなに暇人でもなかったらしいが。作者は。
・積極的に生きるにかぎる。年をとったらよけいにそうである。
・中途半端に完成したとか、もう俺のようなすぐれた人物に学ぶものはないとほざいていると、あっという間だ。なにが?・・・・あれです、あれ。お迎えです。
・方丈記の作者も日長一日閑に耐えていたらしい。こちらの方が私は興味深いのであるが、今、いろいろ勉強中の身としてはまたの機会にこのブログに書いてみたいことの一つである。
・こうやってただの感じたことを書き流していると、だんだん理解が深まる。これがありがたいのだ。書くために読む。書くから疑問点が起きる。そして調べる。この作業がいい。あたまの体操にである。
・加齢は、だから逆に考えるといいのだ。加齢しているから理解が遅い。それは認める。だったら、じっくり時間をかければいい。調べるのにも時間がかかる。だから大学図書館にずっといればいいのだ。楽しいし。健康にもいい。わからんことは、図書館に専門のうら若い方々がたくさんおられる。専門書もある。(こういうときが、私はいちばん幸せなのだ・・・)
・私事だが(もっとも、このブログというものが最も私事である)、居住地の県立図書館に行くのがやはり楽しい。いつもずっと読書をしているのだ。
・ノートもとる。若い頃は気取って京大式カードB6版のを使っていた。これは勉強したと言う気にはさせてもらえる。その点ではありがたいツールだった。しかしだ。能力のない私には重荷であった。次から次へと忘れていくのだ。書いたという安心感から忘れるのだから、重症である。
・つまり私はよい子ではないのである。学校受験秀才ではなかったからである。再生機能が?なんだねぇ。
・もっとも、人から査定されるということを極端に嫌っていたから、こんなもんでしょう。こんなもん。こういうのは、半端な隠棲人で過ごすしか無い。
・されど兼好法師である。何者にもならなかった人という風にNHKのシリーズもので、有名な予備校の古典講師が言っていたが、(昨日録画していたのを一気に4回分見た)そうかもしれないなぁと思ったのである。
・私もそうだ。なんにもならなかったし、なにかになろうともしなかった。
・生涯学習も、目的があって、それにむかってひたすらばく進するというのでもない。
・古女房ドノは、道楽で勉強しているんだからいいわねぇとおっしゃるが、まったくそれに近いのかもしれない。たまに、能楽をふらっと見に行くし、夜は夜で、身体知を知るとか言って、おさなご達と柔道をやっているからだ。
・実はありがたいことである。感謝している。
・誰に?
・おさなご達と古女房ドノにである。
・さぁ、今晩も柔道である。リラックスが今日のテーマである。オイラも、リラックス。相手もリラックスさせて、敵をつくらない。そういう関係性の中で、技がどうきくのかということを考えて参りたい。
・また次回に。