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と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

武蔵野大学大学院通信教育部修了式

2012年03月19日 23時38分18秒 | 先公ごっこ2008年から2012年



・今日は、記念すべき日である。

・武蔵野大学大学院通信教育部人間学専攻(修士)を修了させていただいたのだ。実にうれしい。まったく能力も省みず、無茶なことをしたものである。

・一番良かったのが、武蔵野大学の学びのシステムの優秀さである。

・厳しいのであるが、先生方の面倒見の良さは本当に比較すべき大学を知らない。

・これまで、5つほど通信制の大学、大学院、専門学校等々をわたり歩いてきたが、最高である。

・もっとも、これは私の求めているものと、大学の提供してくださった教育内容がぴたり一致したからでもある。

・人生は有限であるということに気がついたのが、働き盛りの50代であった。大腸ポリープ4個が人間ドックで見つかったのである。手術をして、それから考えることができたのである。

・このことはある意味、幸運でもあった。転機があったからである。

・人間とは何か、あるいは死ぬこととは何か、老年学とはなにか、生きるとはなにかという人生の根幹に関わる問題が迫ってきたのである。

・そうである。そうした問題について考えることができたのが、武蔵野大学での学びであったのである。

・こういうことを若い頃から一番やってみたかったのだ。そう気がついたわけである。

・ただし、私は仕事を持っていたから、通学するわけにはいかない。

・通信教育しかない。

・これが良かった。本当の意味で学びがあったからである。学部時代とは全く別個。むろん学部時代とは違う大学である。

・それでもこれだけの教育内容を保証していただいて、感謝である。

・学部卒業以来38年。それなりに世間智はついている。ごまかされない。当たり前である。狡知に長けるおじさんなのだ。投資効果とかいう問題ではかなりうるさいのである。それでも、このおじさん(ほんとはじじぃだけど)は、納得できるのである。内容にである。

・唯一後悔がある。それはバーチャルな関係性しか構築できなかったということである。ほとんどスクーリングを受講できなかったのだ。職場に内緒で学習していたからである。

・本当にこれが残念であった。特に、修士論文に該当する特定課題研究でご指導いただいたK教授の授業をスクーリングで受講できなかったことは悔いが残る。

・そのまま武蔵野の他の専攻をやってみようかと迷った。しかし、対面授業の魅力には勝てなかった。定年を迎えて居住地の近くにある大学で学びたいというのは、かなりのものがあった。やってみたいということである。駄目でもともと。駄目だったとしても、充実感はある。それでいいのである。学びとはそういうものではないかと思うのである。

・生涯追求していくつもりである。

・ついている灯を自分から消すバカはいない。

・生涯学習の灯を。




・また次回に。


※多くの武蔵野大学大学院同級生の方々に深謝いたします。フラ夫さま、夢検索人さま、山*わ*さまには特にお世話になりました。

 

 

 

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武術というものは、なんのために

2012年03月18日 18時29分40秒 | 先公ごっこ2008年から2012年

・武術というものは、なんのためにやっているのだろうかということを考えることがある。

・少なくとも敵対関係を作り出して、勝ち負けを競うというようなものではなさそうだ。

・それは相手からの問題設定をいただくということである。柔道で組み合っているとき、腕を通して、ある種の情報が伝わってくる。それが問題設定なのである。

・Aという動きをしたら、あんたはどうすんだい?というような問答がくりかえされるのである。

・これが非常に貴重な体験になる。だから、いついかなる場合でも、武術をする人は対応に迫られることになる。

・問題が出されて、即対応をしなくてはならないのである。当然である。それが武術の本筋であるからだ。

・決して勝敗にこだわってはならない。競技ではないからだ。勝っても、負けてもこだわってはならないのだ。問答法だからである。

・つまり競技としてではないという意識を持っているからである。

・武術人としては、私は素人だから言えるのかもしれない。こんなことは。

・30歳くらいで、確かに4段の免状はいただいた。高校の柔道部顧問もさせていただいた。しかし、いつまでたっても「未熟」であるという思いがあるのだ。

・未熟であるから追求するのである。技もきかない、かからないから工夫するわけである。

・武術ばかりではない。武術を通して、いろいろな社会問題や、世間のことを考える。

・教育問題がコアになるか。そうかもしれない。たちどころに、答えることでなくてはならないのだ。問題に対しては。それが可能になるように、普段から準備をしておくことが武術人としての心構えである。

・もっとも、教育問題について対応を考える場合はかならず前提というものを私は問題にする。でないと、独断に陥るからである。

・さらに武術人は、いいものを学ぶことができる。それは応対辞令というか、丁々発止のやりとりの中で覇気をもって対応することができるということだ。リーダーとして必ず持っていなければならない能力がこれである。

・相手から攻められた場合、覇気がなくてはならない。言われっぱなしでは、いつのまにか責任まで押しつけられる。もっとも、最終責任を持っているのは組織のトップである。逃げられないのだ。それはそれでそういう生き方を選んだ以上仕方がない。

・教員として、多くの経験をしてきた。世間で言いふらされているように、モンスターなんとかというのもいた。

・聞くべきことは聞いてきた。しかし、あまりにも理不尽な場合は、やわらかに対応するしかない。相手の論理的矛盾を分析しながら聞く。そもそも、批判ばかりする方々は、批判をすればするほど相手は立ち直ってくれるという善意の人種なのである。だから批判をする。

・似非マルクス主義者というのもいた。個人的に文句を言うことで、それがいつのまにか万人の考えることであって、自分の説はいつでも正しいというふうに、主張を修正してしまう方々である。そして、必ず批判されるべき階級的な相手が想定されているのだ。相手がいるから、文句を言えるわけである。よって、階級的な闘争相手を常時作り出さなくてはならなくなる。

・一方的な攻撃の意志は、逆から考えると一方的な被害者意識にも結びつく。自分だけが被害者であると自己規定をして、相手を攻撃するわけである。正しいのはいつも自分だけなのである。

・だから相手を完全に消滅するまでたたく。これは私の嫌う戦争の論理と一緒ではないか。


・ともかくである。

・武術をやる人間は、考えなくちゃならんということである。世間に疎い(実際、私は疎い)と言い訳をしておってはいかんのだ。


・反省、反省。

・今日はこれから田舎暮らしをしているので、町内会の寄り合いがある。来月からなんだか暇だろうと思われているようで、ありがたいお役をいただくんだそうである。順番である。定年を待っておられたのだそうだ。田舎暮らしだから、私はまだまだ若造である。参ったね。大学生になるとか、院生になるって言ったって誰も信用してくれんだろうから。

・では・・・・・・・・・・行ってまいることにします。



 

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日くらし、硯にむかひて

2012年03月17日 17時07分11秒 | 先公ごっこ2008年から2012年

「つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」

・有名な、ほんとうに有名な徒然草冒頭の文である。第1段。受験勉強の時に誰しもくぐる正門みたいなもので、実に懐かしい。暗唱もさせられた。否、させていただいた。

・この部分は、加齢にともなってだんだん理解できてくる。それは、「日くらし」である。「一日中」なのである。あるいは「朝から晩まで」なのである。

・このことがなにを意味するのかということを、最近は考える。

・終日、単調なリズムで時間が流れるということである。これはたまらんことである。

・退屈してしまうではないか。まるっきり定年後のと~ま君の生活ぶりではないか。(もっともそれがイヤで学生になったのだが)

・今と違って、テレビもないし、スマートフォンとかいうものもない。ないないづくしである。

・もっとも、学説によればそんなに暇人でもなかったらしいが。作者は。

・積極的に生きるにかぎる。年をとったらよけいにそうである。

・中途半端に完成したとか、もう俺のようなすぐれた人物に学ぶものはないとほざいていると、あっという間だ。なにが?・・・・あれです、あれ。お迎えです。

・方丈記の作者も日長一日閑に耐えていたらしい。こちらの方が私は興味深いのであるが、今、いろいろ勉強中の身としてはまたの機会にこのブログに書いてみたいことの一つである。

・こうやってただの感じたことを書き流していると、だんだん理解が深まる。これがありがたいのだ。書くために読む。書くから疑問点が起きる。そして調べる。この作業がいい。あたまの体操にである。

・加齢は、だから逆に考えるといいのだ。加齢しているから理解が遅い。それは認める。だったら、じっくり時間をかければいい。調べるのにも時間がかかる。だから大学図書館にずっといればいいのだ。楽しいし。健康にもいい。わからんことは、図書館に専門のうら若い方々がたくさんおられる。専門書もある。(こういうときが、私はいちばん幸せなのだ・・・)

・私事だが(もっとも、このブログというものが最も私事である)、居住地の県立図書館に行くのがやはり楽しい。いつもずっと読書をしているのだ。

・ノートもとる。若い頃は気取って京大式カードB6版のを使っていた。これは勉強したと言う気にはさせてもらえる。その点ではありがたいツールだった。しかしだ。能力のない私には重荷であった。次から次へと忘れていくのだ。書いたという安心感から忘れるのだから、重症である。

・つまり私はよい子ではないのである。学校受験秀才ではなかったからである。再生機能が?なんだねぇ。

・もっとも、人から査定されるということを極端に嫌っていたから、こんなもんでしょう。こんなもん。こういうのは、半端な隠棲人で過ごすしか無い。

・されど兼好法師である。何者にもならなかった人という風にNHKのシリーズもので、有名な予備校の古典講師が言っていたが、(昨日録画していたのを一気に4回分見た)そうかもしれないなぁと思ったのである。

・私もそうだ。なんにもならなかったし、なにかになろうともしなかった。

・生涯学習も、目的があって、それにむかってひたすらばく進するというのでもない。

・古女房ドノは、道楽で勉強しているんだからいいわねぇとおっしゃるが、まったくそれに近いのかもしれない。たまに、能楽をふらっと見に行くし、夜は夜で、身体知を知るとか言って、おさなご達と柔道をやっているからだ。

・実はありがたいことである。感謝している。

・誰に?

・おさなご達と古女房ドノにである。



・さぁ、今晩も柔道である。リラックスが今日のテーマである。オイラも、リラックス。相手もリラックスさせて、敵をつくらない。そういう関係性の中で、技がどうきくのかということを考えて参りたい。

・また次回に。


 

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コリン=ウイルソンという作者の「アウトサイダー」

2012年03月16日 17時41分30秒 | 先公ごっこ2008年から2012年

・コリン=ウイルソンという作者の「アウトサイダー」という本は、高校生くらいの自称文学少年のバイブルである。これは体験上間違いがない。

・なぜ間違いないというかというと、私の高校時代にいたのである。天才的な文学少年である。まったくの同級生で今は政治家をやっているそうだ。高校卒業以来会っていただけないが。(あたりまえか・・・田舎暮らしのじじぃですからなぁ)

・なにしろなんでも知っていたのである。本当である。どこまで優秀なんだと心の底から尊敬をしていた。日本の文学だけではない。西洋でも、インド哲学でも、中国文学でもなんでもござれなのである。

・そして、なにより彼はもてた。しかもすこぶる美人ばかりにもてた。正直、腹が立ってならんかったのだ。とほほ、とほほの連続であったのである。

・だって指をくわえているだけの存在というのは、ミジメでっせ。

・しかし、柔道部で、応援団で、趣味で文芸部に所属していた私のような、雑多主義とは違って、純粋に文学を志向していた。と、当時の私は思っていたのである。

・私の卒業させていただいた高校は、(まったく間違って卒業したのではないか・・・)田舎にあるが、かなりの進学をしていく高校であった。国公立に現役で170名は合格してしまうのである。これはなかなか刺激的であった。

・なぜか。

・それは私が、できないからである。成績劣悪。まったく刺激的な高校生活を送らせていただいた。感謝しているんです。マジで。

・柔道部をやり、応援団で硬派を気取っていたのである。まったく、今思えば顔から火が出るようなものである。だから刺激的なのだ。だって、顔から火が出たら熱くてやけどするではないか。(とほほ)

・さきほどの天才文学少年にもどろう。

・彼のバイブルがあったのである。それがこの「アウトサイダー」である。文芸部の部室に忘れていったのだ。

・悪いけどぱらぱらめくって「あっ」と気がついたというわけである。いわゆるタネ本というやつだと。

・なにしろ引用文献が数量的にものすごいのだ。まともに読んだらおそらくついていけまい。「アウトサイダー」の中に出てくる作品群をいちいちあたっていたら、それだけで齢を重ねていってしまう。

・そもそも10代後半ですべての文学作品に通ずるわけにはいかないというのが、常識であるはずなのにそれに気がつかなかったのだ。おまけに、尊敬までしていた。

・それはそれで感謝しているが。

・彼との出会いがなければ、学部時代にドストエフスキーに出会うこともなかっただろうし、それはそれでいいことであった。

・しかし、なんか腑に落ちないのである。

・理由がである。

・そりゃぁ文化的資本というのは、他者の受け売りであるということを言われる方もおられるのであるから、(レヴィ=ストロースだっけ?)、所詮そんなものかもしれない。

・ま、いいか。若かったからということ、あるいは人間ってそんなもんですよ、そんなもんということで。

・もっとも、私の長女の場合も似たようなことをしていた。ある女子大学の日本文学科で漱石を卒論に選んだのだが、前半部分はまだよしとして、後半部分は息切れがしたのか、ストロース先生の言われるとおりになってしまっていた。

・私も人のことは言えない。情報を得るということは、確かに他者からの情報提供を受けているからである。それを自分なりに読みこなしていくしかないからである。

・私の場合は、このようにブログに書くことによって、そうした雑多なものを整理統合して、ある一つの物語を思いついているだけにすぎない。

・これでいいのではないか。むろん、盗用は厳禁である。(ホンマにこれはいけないっすよ)

・しかし、ある一つの物語を思いつくということは、普段からの地道な情報収集がものを言うと思うのである。

・その点だけは若いころからずっとやってきた。

・なにしろ活字中毒である。書くために読む、読むために書くのである。

・ブログの非常に良い点がここにある。自分のために書いているようなものである。ボケ防止(ホンマに)のためでもある。

・こんなブログ、誰も読んでくださる方はいないだろうが、書きながら勉強しているんで、どうかお許しを。

・アマゾンで購入するとかなり安価で購入できる。これもまたいい。しかし、若い頃はこんな本の買い方があるとは、想像もしなかった。まったくである。

 

 

・また次回に。

 

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鴨長明「方丈記」を読ませていただきました

2012年03月16日 16時49分34秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

鴨長明「方丈記」を読ませていただきました

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3月14日(水)のつぶやき

2012年03月15日 03時48分56秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
22:29 from web
緊急連絡① 生徒へ連絡します。地震の被害について心配しています。学校は被害なしです。

22:31 from web
緊急連絡② 現在電車が止まっていますが、明日の朝、本校HPで生徒の皆さんには連絡をしますので、見てください。

22:31 from web
緊急連絡③ HPもつながらないようでしたら、この校長のTwitterで連絡します。

22:32 from web
緊急連絡④ 十分注意して過ごしてください。

23:26 from gooBlog production
生徒諸君へ緊急連絡です blog.goo.ne.jp/kencho943/e/15…

by kencho943 on Twitter
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地震の被害はありませんでしたか

2012年03月14日 23時22分41秒 | 先公ごっこ2008年から2012年

銚子地区で震度5弱の地震がきました。


被害はありませんでしたか?


学校は大丈夫です。


ただし、明日の電車が心配ですので、Twitterにも書いておきましたが、明日本校公式HPの掲示板で連絡をします。


HPも見られない場合は、Twitterで連絡します。


気をつけてください。


 


 


 


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狂言「魚説教」

2012年03月14日 22時56分41秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

狂言「魚説教」

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狂言「宗論」(2/2)

2012年03月14日 22時37分25秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

狂言「宗論」(2/2)

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狂言「宗論」(1/2)

2012年03月14日 22時17分14秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

狂言「宗論」(1/2)

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幻の能“経盛” 新たな形で上演

2012年03月14日 21時28分38秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

幻の能“経盛” 新たな形で上演

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【歌ってみた】謡曲「善知鳥」

2012年03月14日 21時23分07秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

【歌ってみた】謡曲「善知鳥」

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観世流素謡「神歌」

2012年03月14日 21時05分10秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

観世流素謡「神歌」

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能楽師 流派を超えて鎮魂の謡

2012年03月14日 20時57分32秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

能楽師 流派を超えて鎮魂の謡

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小津安二郎の映画はいい

2012年03月14日 20時30分45秒 | 先公ごっこ2008年から2012年

・小津安二郎の映画はいい。

・なにがいいか?・・・・・・それは大人になるというその過程において、われわれは何を考え、どのように行動したらよいのかというロールモデルを知ることができるからである。

・さらにこの「父ありき」は、教師としてどのように大人になっていくべくかを示しているとも思うのである。

・淡々とした語り口。感情を制御しているという点で、この笠智衆という役者は実にすばらしい。教師はこうでなくてはいけない。大げさな身振り手振りで、激して、自分の素で勝負するようではいけない。

・大人の対応というものは、こういうものであるのだ。ましてや、教師ならば感情コントロールというのは重要である。

・このことは、大学で非常勤講師として教職課程も教えさせていただくので、学生諸君に課題として聞くつもりである。

・つまり構造主義的にどう考えたら良いのか、ということをである。単なる教育技術や方法論を超越しているのではないかと思うからである。







 旧制中学教諭の堀川周平(笠智衆)は、妻の亡き後、男手一つで息子の良平を育ててきた。つましいながらも幸せな生活を送っていたが、突如、トラブルに見舞われる。修学旅行の引率で箱根の芦ノ湖を訪れていた時、ボートが転覆して生徒の生命が失われてしまったのだ。

 責任を取って辞職した周平は、生まれ故郷の信州に退く。豊かな自然の中での新しい生活。幼い良平とって、父親と連れ立って釣りに出掛ける事が一番の楽しみになった。
 しかし、親子一緒の楽しい日々はそう長くは続かない。良平を上の学校に行かせるためには安定した収入が不可欠だ。周平は息子を中学の寄宿舎に預けると、商社マンになるために上京した。


 父親の支えの中、学業に励んだ良平(佐野周二)は、大学を卒業した後、父と同じ教師の道を歩み、東北の学校へ着任していた。
 ずっと離れ離れだった父の事を想い、共に暮らすために職を辞して東京に帰ろうとも考えたが、父から「自分は続ける事は出来なかったが、教師を天職だと思って頑張ってほしい」と諫められて思い直す。温泉で束の間の邂逅を果たした親子は、いつかのように川で釣りに興じた。

 時代に戦争の影が差していた。徴兵検査を無事通った坊主頭の息子の姿を見て、周平は妻の仏前に手を合わせる。
 良平は立派に成長し、縁談話もまとまった。もはや思い残す事もない。引退して、これからは親子一緒の平穏な暮らしが送れると思っていたのだが・・・

 



・この小津映画もまたすばらしいのだ。旧制中学校の数学教師。例によって笠智衆さんが父親役をやっている。珍しいことに髭をはやしている。

・父一人、息子一人(佐野周二)のつつましい生活である。親子の関係を描いていて、「晩春」の場合は娘版であったが、これもまた親子関係を描く点ではすばらしいものがある。

・しかし、今回は別の観点から注目してみた。

・それはこの映画が教育の方法と技術という観点で分析可能であると考えたからである。

・笠智衆さんが、黒板を前にして数学の授業を行っている。珍しいことである。数学の図形の問題を解いて見せている。とつとつと語っている。語り口はなかなかのものである。

・この映像を見て、現代の大学生はなんと思うだろうと思った。特に、教職課程をとっているような学生はなにを考えるだろうかとふと思ったのである。

・さらに、息子の方は仙台にある旧制帝国大学の理工系で学ぶ。そして、大学の世話で秋田県の工業学校の先生になって赴任していく。

・工業学校での理科の授業であろうか。息子の方の授業風景も出てくるのである。

・これは実におもしろかった。手法の優劣については、こちらも職業教師であるからいろいろ言いたいことはあるが、これは映画である。だから、それもまた避けよう。

・そして思った。また大学生である。学校の教師になりたいと思う若者がこれをどうレポートするのか、ということである。

・楽しいであろうと思う。

・主人公(笠智衆)の父親は、漢学の先生であったようだ。金沢藩お抱えの漢学者であろう。DVDのせりふだと、よく聞こえない。しかし、こういう文化的雰囲気というのはいいものである。

・だから地域の教育力が大事なのである。おとなたちの、文化力がである。これは絶対に軽視してはならないことである。

・しかし、小津監督は好きだなぁと思う。漱石の作品に出てきそうな青年がたくさん登場するのだ。旧制の帝国大学を好んで使う。そういえば「晩春」の主人公の大学教授も帝大の教授であった。

・印象に残るのが、工業学校の教師をしている息子が、父親と一緒に生活したいからという理由で、秋田の学校を退職したいと父親にすがるシーンである。

・それを説得する主人公(笠智衆)のせりふがすばらしい。まるっきり、教師心得である。淡々と言っているから余計に説得力がある。現代ドラマのような、オーバーアクション、つまり妙な声高や興奮がないからである。

・優れた作り手にかかると実に見事になる。

・この教師心得もまた教師志願者に聞いてみたいことの一つである。どう答えてくださるだろうか。そんな場所があればである。

・無理な話はこれ以上しないようにしよう。

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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/