ゴールデン・リタイアーズ

S20年生、後期高齢ゾーン、人生最終コーナー「遊行期」の
徒然残日写真録

170821 アニメ「なぜ生きる」、蓮如上人と吉崎炎上!を観る。人が生きる目的とは?

2017年08月21日 | アフターセブンティ

 月初配布の「公報ちくしの」にチラシがはいっていたアニメ映画「なぜ生きる」蓮如上人と吉崎炎上を市の生涯学習センターで見た。五木寛之の親鸞などを読んでいたので、200年後の親鸞の後継者の蓮如上人の物語かなとおもって出かけた次第。

原作本が100万部突破とか29週上映ロングランとかおうぎょうしくチラシにかかれてあったが今一でしたね。蓮如上人を演じた里見浩太郎の声はよかったがね。人間はなぜ生きるのかという問いかけへの答えがわかりにくかった。

 親鸞のあらわした「教行信証」は「難思の弘誓は、難度の海を度する大船」という言葉で始まるらしい(読んでいないので?)三世諸仏の本仏である阿弥陀如来が四苦八苦の苦しみの海からなかなかのがれらない人間を唯一救ってくれる大船である。必ず救って、人に絶対の幸福を与えると請願された。その阿弥陀様の本願を一途に信じて念仏を唱えたり、間断なき聞法に接することが大切である。親鸞は比叡山での長い苦行でも開眼できず、法然のもと、ひたすら南無阿弥陀仏と唱え続けることにより開眼、絶対の幸福を実現した・・・ということを200年後蓮如が津々浦々に親鸞の教えを広め、浄土真宗を確固たるものにしたということらしい。

 とかく人間は生きんがため食わんがため、出世するためとどう生きるかと手段を模索し悩み苦しむ。そうではなくて、その大船にのりこみ、絶対の幸福感を体得することが生きる目的である、と言う。・・・まあ、そのことによって得られる心の安寧が仕事にも家庭にもいい結果をもたらしてくれるということかもしれないがね。生き馬の目をぬくこの資本主義の世の中を生き抜いていけるかどうか?200万円の年収では結婚も、子供を育てることもちょっと難しいかもしれないが・・・

<パソコンで蓮如を検索>

 蓮如上人は、応永22年(1415)に本願寺第七世存如上人のご長男として京都で誕生。母上は蓮如上人が6歳の時に事情があって本願寺を去る。その時の形見が有名な『 鹿子(かのこ)の御影』。

 永享3年(1431)、16歳の時、天台宗門跡寺院の青蓮院において得度。当時の本願寺は不遇の時代、蓮如上人は父・存如上人について、宗学の研鑽を積み、、近江・北陸での教化を助けた。東国の親鸞聖人の御旧跡へも歴訪。

 長禄元年(1457)本願寺第八世を継職、近江の教化に努力。「御文」による文書伝道や名号の精力的な下付など、独自の布教活動を展開。しかし、比叡山延暦寺衆徒の本願寺破却に遭い、親鸞聖人の御真影を奉じて近江の金森、堅田、大津を転々。文明3年(1471)、ようやく越前吉崎に坊舎(吉崎御坊)を建立。吉崎御坊にはまたたく間に多くの参詣者が集まり、その周囲には「多屋」と呼ばれる宿坊が軒をつらねて、吉崎は一大佛教都市になる。

 しかしながら、そのために、周囲の権力者や他宗との間に軋轢が生まれ、文明7年(1475)蓮如は吉崎を後にする。

 その後、摂津・河内・和泉に布教。河内国出口では御坊を建立し、すぐに参詣者であふれるようになり、門徒の間には皆で聞法できる御堂の建立を望む声が広がる。そして文明13年(1481)、京都・山科に御影堂・阿弥陀堂を建て、ついに本願寺の再興を果たす。「寺中は広大無辺、荘厳ただ佛国のごとし」と言われた山科本願寺の建立以後、真宗他派が相次いで多くの門徒と共に本願寺に帰参し、本願寺は全国的な教団へと発展。蓮如上人は延徳元年(1489)隠居、明応5年(1496)には大坂石山に坊舎を建て、山科との間を往復して、晩年も教化を続ける。明応8年(1499)、山科本願寺で多くの弟子や門徒たちに見守られる中、85年のご生涯を終える。今日の本願寺の基盤を築かれ、まさに「浄土真宗開立(かいりゅう)の祖」と言える。  とある。

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