子供はかまってくれない

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映画「ミッドナイト・イン・パリ」:SFXを使わない「ウディ・イン・ワンダーランド」に酔う

2012年07月08日 00時14分36秒 | 映画(新作レヴュー)
技術的にもの凄く高度なことをやっているという訳ではなく,かといって一分の隙もなく練り上げられた見事な構成によるどんでん返しがあるという訳でもない。
多少シニカルでクスッとさせる箇所はあるが,全編諧謔的とまでは言えない。役者の演技も,そっくりさん大会的な楽しさを超えるような,深いパフォーマンスを見せるというところまでは届いていないかもしれない。マリオン・コティヤールは実に美しいが,サルコジ元大統領夫人のカーラ・ブルーニは見事なまでに華がない。
けれども「ミッドナイト・イン・パリ」は,心の深いところに染み込んで行く,優しく柔らかい魂のようなものを感じさせる作品になっている。宣材の文句のようになってしまうが,これぞパリの街が持っている魅力にも負けない,ウディ・アレンの映像の魔法に他ならない。

何がきっかけでそうなったのかは分からないが,このところすっかりヨーロッパづいている生粋のニューヨーカー,ウディ・アレンの新作の舞台はパリだった。
顔かたちは全く似ていないのに,とぼとぼとパリの石畳を歩く姿がどことなくウディを想起させる脚本家(オーウェン・ウィルソン)が,ある日,真夜中を告げる鐘と共に「ゴールデン・エイジ」1920年代にタイムスリップする。若く美しい婚約者(レイチェル・マクアダムス)を愛しながらも,ヘミングウェイに連れられて行ったガートルード・スタイン(キャシー・ベイツ)邸で出会ったモデル(コティヤール)に恋をするのだが…という筋立ては,恋多き男アレンの妄想と実人生の境界上に生まれたお伽噺のようでありながら,かつてない程の艶っぽさを伴ったロマンスとなって,観客を惹き付ける。

タイムスリップの謎も,物語を動かした後の始末も,どちらもパリの夜露に浸されて曖昧にされてしまうのだが,そんなもやもやの中から出てきた「第三の女」が,コール・ポーターを餌にして主人公を攫っていってしまうという展開もまた,色彩豊かな幸福感を助長してくれる。とことん悩んだ男に差し伸べられる幾つもの愛の手は,まるでパリという街だけが持つ千手観音のたおやかな腕のようだ。

その意味では,そんなハッピーエンドを生み出した街を,「マンハッタン」の導入部を想起させるような巧みさで次々と紹介していく冒頭のカットバックこそが本編で,続く物語は,そんな街が持つ魔法を証明しているだけなのかもしれない。
次の舞台はローマということだが,是非ともフェリーニを甦らせて,女性談義に花を咲かせて頂きたい。あっぱれ。
★★★★★
(★★★★★が最高)


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