子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「白いリボン」:詰め込まれたレトリックの断片しか理解できないもどかしさ

2011年05月28日 11時45分06秒 | 映画(新作レヴュー)
小さな世界を描いていながら,内包するものはとてつもなく大きい。でも,厄介。
一昨年のカンヌでパルムドールを獲得したミヒャエル・ハネケの新作「白いリボン」を見終えての感想を,どうにか形にしようとしても,こんな言葉しか出て来ないことがもどかしくてならない。

第1次世界大戦直前のドイツの片田舎という,現代の東洋人にとって想像することが容易ではない時代とシチュエーションの下,次々と小さな事件が起こる。事件の連鎖が不穏な空気を濃縮して行く様子を,カメラが冷徹に追いかける。
一旦カラー・フィルムで捉えた映像を,後からモノクロームに転換したというコントラストの鮮やかな白黒画面に映る被写体は,どれもがかつて鮮やかな色がついていたという記憶を引きずっているような,不思議な感触を振りまいている。特に,何人も登場してくる子供達の顔は皆,漠然とした不安を宿し,純粋な魂を覆い尽くすような嘘がその顔から滲み出しているのが,実に不気味だ。

初めて観たハネケ作品「ピアニスト」のラストで,青年に捨てられたイザベル・ユッペールが,絶望の余り鎖骨の辺りにナイフを突き立てるシーンがあった。絶望してはいても,自死には至らなかったものと勝手に解釈していたのだが,後日「あれはピアニストとして最も大事な神経が通っている箇所を切断したことを描いている」ことを指摘した作品評を読んで,大事なことが理解できなかったことを悔やむと同時に,一筋縄では行かないハネケという人物の厄介さを思い知った。

だから,厳格な親と隠された性癖,乳母,かごの中の小鳥,そして子供の腕に巻かれる白いリボンといった,作品の中で印象的に扱われる事物や事件が抱えるものが,実際には何を象徴しているのかを理解できないながらも,辛うじて「ナチス台頭前夜の静かな狂気」というクリシェだけでこの作品を評価することの危うさだけは自覚しつつ,点をつけるとこうなってしまった。
ハネケさん,未熟な観客にどうかお許しを。
★★★☆
(★★★★★が最高)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。