子供はかまってくれない

子供はかまってくれないし,わかってくれないので,映画と音楽と本とサッカーに慰めを。

映画「劔岳 点の記」:測量作業にも似た創造行為

2009年07月18日 23時24分07秒 | 映画(新作レヴュー)
腰を下ろして休む浅野忠信と香川照之のバストショットの遠景に映る,陽光を反射して赤く染まった雲海。険しく細い稜線,正にその直上を山のような測量用の器材を担いで歩く登山隊を,遙か上方から捉えたロングショット。
にわかには実写とは信じられないような映像が,連続してスクリーンに映し出される。「映画」というメディアが持ち得る訴求力の限界に挑んだようなフィルム,と言うより他に言葉を見つけられないもどかしさが,却って心地良いくらいだ。

撮影助手として果たした映画界デビューが,あの黒澤明作品だったという監督の木村大作は,本物の映像へのこだわりという点では,師匠を凌ぐ執念を随所に見せる。
その執念は,測量隊のライバルとなる山岳会が持つ「未踏峰を征服したい」というある種の欲求や目標と言えるものとは異なり,果たすべき仕事としてひたすら「測量成果が得られていない場所」としての劔岳に挑む,測量隊の姿勢に近いものがある。おそらくそうした想いと姿勢は,過酷な(と一言で表現してしまうのも憚られるようなものだったろう)撮影行為を通じて,役者を含む撮影クルー全体に感染していったはずだ。重装備に喘ぎつつ,一歩一歩前進を続ける測量隊の姿は「為すべきことを為すまで」という自然体の使命感が持つ迫力で,光り輝いている。

そうした姿勢から予想されるとおり,冒険譚に付きものの高揚感や達成感,登頂の過程で描かれる陸軍本部との葛藤,更には家族愛や挫折と再起などに関する幾つかのエピソードは,自然に正対する時に人間が取るべき姿を模して,あくまで淡々と描かれる。
本来なら物語に陰影を与える役割を果たすはずの,最新装備を身に着けた山岳会との初登頂争いも,ドラマティックな要素を排除した形で,控えめに描かれるだけだ。

そういった作りが最も顕著に出ているのは,クライマックスの登頂シーンだろう。最後のアタックに向かうところでストップモーションになり,次にディゾルブで写るカットは,頂に立つ男たちを引いて捉えたロング気味のショットなのだ。
カットの繋ぎも,ぶっきらぼうな程にシンプルで,感動を煽るようなテクニックは一切用いられていないと言っても良い。その潔さこそは,測量隊が歴史に刻んだ偉業の物言わぬ重さと,見えないザイルで繋がっているようだ。

浅野忠信は,装飾を排除した台詞回しと調子っぱずれの歌が,朴訥で太い幹のような主人公にぴったりだったが,その妻役の宮崎あおいにまで歌わせる必要があったかどうかは良く分からない。
終盤で物語の舵を切る行者役の夏八木勲と,主人公の精神的な支柱となる役所広司が,良い意味でチェンジアップの役割を果たして,高い貢献度を見せている。

2作目があるのかどうかは分からないが,少なくともこの1作だけでも「監督木村大作」の名は,後世のクリエイター達にとって,欠かすことの出来ない羅針盤の一つになったことは間違いない。
雪を背負って,雪に挑む。その先に開けた眺望は,かつて観たことのないものだった。
★★★★☆


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