◇ この季節、たとえばこの短編を・・・・
目をつぶると、いつも雨に濡れた紫陽花が見える。悲しいときもそうだけれど、嬉しいときにもその思い出の中の紫陽花は雨に打たれていた。どこかで見た花の記憶には違いなかったが、それがいつどこだったかは全く心当りがないのだった。
海の見える高台の私の家の芝生の庭の端に紫陽花は並んで美しい花をつける
が、心の中の紫陽花はもっとたくさんあって、そこらじゅうが花なのである。
私は紫陽花のことをなぜか母に訊くことができなかった。それは私の空想の
花かもしれなかったからだ。
紫陽花好きの母は、私の持ち物すべてを紫陽花の花で飾った。夏のゆかたに
は紫陽花が藍に染めだされ、団扇にも紫陽花が描かれていた。革のランドセ
ルにも紫陽花が空捺しされ、筆入れにも薄紅の紫陽花が描かれていた。
紫陽花について母に訊ねられなかったもう一つの理由は、その花陰に誰か男
の人がいるように感じられたからだった。定かではないが、そこに誰かがい
たことは疑いようがなかった。
私がその人影を実在の人物ではないかと思うようになったのは、小学校の終わりの頃、家に帰る道で、誰かがじっと私を見ているのを感じたからだ。私がどきっとしてそちらを見ると誰もいない。そんなことが何回かあった。そしてそれが自然と紫陽花の花影の人物と結びついていたのだった。
母は茶の湯と華道を家で教えており、物静かな人だった。ただ紫陽花の咲く
季節になると、青に、薄紅に、色を変えてゆく花を座敷から障子をいっぱい
に開けて終日見ていることがあった。紫陽花の向こうは海が青い背景になっ
ていた。
女子高校に入ってからも、男の人が家の近くにいたことがあり、一度はその
姿をはっきり見たが、その日は雨が降っていた。私の空想はそそり立っては
いたが、静謐な母の暮らしを掻き乱したくなかったので、黙っていた。
私が心にある紫陽花に出会ったのは、東京の大学に入ってから何年かして、研究室の仲間と、紫陽花で有名な鎌倉の寺にいった時であった。その日は雨がしとど降って人気がなかった。気がつくと、私は庭園の奥にまぎれこみ、おびただしい紫陽花の花に取り巻かれていた。私は思わず「あっ」と声をあげた。その紫陽花の花の群れこそ、私の心に住みついていたまさしくあの紫陽花だった。
「これだわ。これだわ」私はそう叫んだ。
私はその寺に来たことはなく、庭園を見たこともなかったから、心理学でい
う既視感(デジャヴュ)というものに違いない。そこには常に黒い影が見えて
おり、この紫陽花にもそれは見えるのだろうか。
私はおそるおそるそこに立っている黒い人影のほうへ眼をやった。そこには、本当に誰かが立っているのだった。私が長いこと怯え、憧れていた黒い影がそこに立っていたのである。私は思い切ってその人のほうに眼をやった。研究室の先輩が立っていた。その瞬間、私は突然胸がいっぱいになって激しく泣き出した。泣いても泣いても足りないような悲しみが胸の中から溢れてきたのだった。
それがその人に対する恋の告白となり、それからまもなく彼と結婚した。
私には何の迷いもなかった。紫陽花がはじめから見えていたように、すべて
ははじめから決まっているように思えたのだった。
辻邦生 花のレクイエム
◇ 今日は入梅。
この季節、小雨の中、傘の花の間を縫って、
紫陽花の咲く小径を歩いてみたいものです。