正月は屠蘇・お節以外は、仕事もせず、テレビも見ず、読書に宛てる。
しかも対象は関東戦国史に限定。
私は高校時代に所属していた地歴部以来、いわゆる”戦国時代”に先立つ足利成氏(しげうじ)が中心となって展開される関東動乱に魅せられていた。
その動乱は、今では「享徳の乱」と名がついている。
最近やっとこの名称が広まってきた。
そして戦国時代の幕開けは「応仁・文明の乱」(1467年から)ではなく、それに先立つこの「享徳の乱」(1454〜1482)であることも。
その命名者は峰岸純夫という歴史学者。
今年の正月は、その本人による書、『享徳の乱:中世東国の「三十年戦争」』(講談社、2017年)の電子版を読んだ。
享徳の乱は、足利成氏(古河公方)と対抗する関東管領上杉氏との関東を二分する対立による(和睦で終結)。
この乱において、旧来の守護領国体制が崩壊し、所領を武力で糾合した「戦国領主」が形成されたというのが氏の主張。
戦国領主が、さらに国レベルに拡大したのが戦国大名である。
すなわち従来の”国衆”と”戦国大名”とを繋ぐ概念である。
言い換えれば、この乱には戦国大名はまだ登場しない。
氏の主張は、戦国時代の先駆けは、この享徳の乱であり、しかも応仁・文明の乱はこの享徳の乱が波及したものであるという。
この本でもそれがテーマとなっている。
ちなみにこの時代は、「下克上」以前に、主君が家臣を誅殺する「上克下」が見られた(これも氏の造語)。
この乱の発端は成氏が補佐役である管領の上杉憲忠を殺害したことであり、また乱の終結後、大活躍した太田道灌も主君である上杉定正に殺された。
そしてこの混乱からは戦国大名が出現せず、関東はやがて隣接する戦国大名(伊豆の伊勢盛時、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄)たちの草刈り場になる。
並み居る戦国領主の中で、突出した力を持ち彼らの上に立つ者が出現しなかったためだ。
この乱が和睦で終ったのもそのため。
足利成氏や管領上杉氏はその者(戦国大名の卵)出現を阻止する側で、長尾景春や太田道灌は芽を摘まれた側だ(道灌は元は阻止する側であった)。
この消化不良感が、かえって私に汲めども尽きない興味をかき立てた。
ただ残念なのは、史料不足のため、道灌を唯一の例外として人間的エピソードに乏しい点。
これでは大河ドラマにはなりにくいな。