今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

山根キクの紹介

2024年03月08日 | 身内

※このページは、2024年3月で閉鎖される山根一郎のサイト内の内容の一部を転載したもの。

青森の「キリストの墓」の話題で必ず登場する「山根キク」(菊子)は私の祖母だ。

青森キリスト墓訪問記

いわゆる”超古代史モノ”は門外漢の私だが、この手の話題(「と」(とんでも)の世界)には祖母が登場するので、
近親者として情報提供できればと思った。

祖母の話を親族の中では直接一番多く聞いていたという父・克己(キクの三男)が亡くなって、
父から聞いた祖母の話も私自身はうろ覚えにすぎない。
私の周辺に残る情報をここに残しておく。
※私はWikipediaの「山根キク」の項の作成には、まったく関与していない


●生い立ち

明治26年(1893)6月1日 山口県萩の醤油造り屋の長女に生まれる.
父方は萩沖の櫃島,母は萩沖の大島出身.
父猪之助の影響で三味線をたしなむ。

8歳の時,実母ウメが死亡し,以来父は生きる気力をなくし,数年後に祖父母より先に病死する.

14歳の時,キリスト教に触れ,惹かれるが,祖父の猛反対にあう.

修繕女学校卒業後,自らの意思で横浜の共立女子神学校に入学.
しかし,卒業式(大正4年)での儀式中にイエスの生涯・復活への疑義を発して式を混乱さす.
この疑問は後に竹内文献によってキクにとっては氷解する.

封建的風土の萩には戻らず,上京して四谷と牛込に日曜学校を開設.
キリスト教(プロテスタント)の伝道に従事.

男兄弟なしの長女であるため,大正9年2歳下の寺島某氏※と入夫結婚.
※某氏の父鎌田造酒之助(みきのすけ)は旗本幕臣として,函館五稜郭まで行って最後まで新政府軍と戦った。その後は駿府(静岡市)に住み、臨済寺に東軍(幕軍)を顕彰する碑(現存)を立てた(→造酒之助の記事)。私には幕臣の血も流れている。

私の父を含む四男をもうけるが,長州人と幕臣の家系とでは合うはずもなく,
喧嘩をすれば幕臣が刀を抜き,長州が薙刀をかまえるというすさまじさ.
やがて離婚して,4子とも引き取って育てる(妹たちも東京に呼び寄せる).

この体験のためか,後に寡婦の窮状を打開するため,「日本婦人相愛会」の名のもとに派出婦会(家政婦紹介)を設立.

「萬朝報」の婦人部長となる.

そして宗教よりもまずは政治によって,実社会での女性の救済をすべきとの考えに到り,政治活動に転換.

その頃世情を動かしていた「普通選挙」運動そのものを、男だけに選挙権を与える不平等として,
「婦人参政同盟」に参加。
また「婦人参政協会」を設立して,婦人参政権運動に加わる
「女性の時代」という月刊誌を発刊.
革新倶楽部に入会.

この一連の女性運動こそ、祖母の活動として私が最も評価したいもの。


女性運動参加記録:「日本女性運動資料集成」(1-3巻)不二出版より

女子参政協会を主催

1923(大12)
2 /17:婦人参政同盟の政談演説会(神田中央仏教会館)にて飛び入り演説
「皆さま,お待ちなさい.私の言うことも聞いて,相携えて世論政治の第一線に入ろうじゃありませんか」
3 /31:夫婦で婦人参政問題演説会を牛込会館にて主催
7 / 2:日露婦人交驩会の発起人または賛成者の一人となる
11/10: 関東罹災者救護会として,「病者と失職の婦人の為に」震災被害者の救援活動

1924(大13)
4月:第一回総選挙にて,長野県の井手氏に応援演説の遊説.好評なるも落選.
6 /27:婦人参政同盟の理事に当選
12/ 6:婦人参政権獲得期成同盟創立委員となる
12/21:民衆公論社主催の擬国会(芝協調会館).「文部大臣」「拓植大臣」に.夫が議長.

1925(大14)
2 /14:婦人参政同盟第五回大演説会(築地同志会館)にて演説
4 / 4 : 同第六回大演説会(横浜市キリスト教青年会館)にて演説
5 / 6:着任したソ連のコップ大使を訪問
9 /27:同盟の大阪支部発会を兼ねた演説会(天王寺公会堂)にて演説
11/13:三男(一郎父)を出産
12/16:婦人参政同盟第八回演説会(神田中央仏教会館)にて演説

1926(大15)
3 /9:婦人参政同盟第九回演説会(芝協調会館)にて演説
3/22:議会に婦人案提出に応じて,ビラを配付用意するも警察の禁止によって不可
    婦人案(治安警察法改正案,婦人参政に関する建議案,市制町村制中改正法律案)

1927(昭2)
1/5:主催する日本婦人共愛会の四谷寺町の本部でクリスマス児童慰安会を開く(朝日新聞記事)
11/20:女子参政協会(山根菊子代表)は婦人参政同盟から脱会
このあたりのいきさつは不明.
4人の子をかかえての離婚という最大の辛苦の時期でもある.

1928(昭3)
2/12:西岡竹次郎氏の選挙応援で演説(朝日新聞記事。掲載日)


転機

昭和に入って,青森北津軽の小泊に滞在中,日本の悠久の歴史を感得
(ちなみに小泊は徐福伝説や東日流外三郡誌とも無縁でない)。
そして政治運動から再び宗教への還帰が始まるのだが,戻る先はキリスト教ではなかった.

1935(昭10)
天津教の竹内巨麿氏及び「竹内文献」に出会い,長年のイエスの生涯についての疑問が氷解.
この文献を信じた結果,ウルトラ天皇主義になる.
青森戸来村(現:新郷村)の「キリストの墓」近辺を調査して,1937年にその存在を世に出す
(地元ではさっそく観光資源としてアピール.現在に至る).

1943(昭18):長野県豊野に滞在中,不敬罪のかどで群馬県特高によって逮捕
当時は「太古研究会」代表.
婦人運動の同志(同罪逮捕)から,昭和天皇の出生にまつわる噂話を聞き,それを元海軍中尉に話したため.
さらに,熱田神宮のご神体に関する噂,および伊勢神宮のご神体にある文字の噂
(『世界の正史』に記述)を豊橋で数名に話したかど.
こんな噂話を私的に話しただけで不敬罪で逮捕されるのだから恐ろしい時代だった.

戦後は,東京一区から第一回普選に国民協同党から立候補するも,落選.
新宿戸山町に居を構え,新宿区議を三期勤める.

1965(昭40) 4月23日狭心症発作のため,自宅で急死.享年71歳.

キクは孫の私にとっては優しかったが,直情的で男まさりの性格で,
萩では「真西風(まじにし)」とあだ名されていたという.
幼少よりの深遠なる真理へのあこがれと信念を貫く姿勢(親族とさえも妥協しない)はさすがだ,が….


著作

1.「光は東方より」(日本と世界社)昭和12(1937):「キリストの墓」探訪記

2.上の分冊版「キリストの巻」「釈迦の巻」(日本と世界社)昭和15(1940)

3.「天津祝詞ノ太祝詞事新解」(日本と世界社)昭和17(1942)

4.「キリストは日本で死んでいる」(平和世界社)昭和35(1958):「キリストの墓」再訪記

5.「世界の正史」(世界平和社)昭和39(1964):葺不合(ふきあえず)朝などの歴代天皇の系譜

著書からわかるとおり,キクは「考古学・地質学」とは無縁.
キクを「地質学者」と誤って紹介したのは,私の記憶では,かの寺山修司氏の旅行雑誌上の記事(キクはキリスト塚を発掘したわけではない)
アカデミックな世界とは無縁.あえて肩書きをつけるなら「民間研究家」かなぁ.

著書の最初の1-3は,電子復刻版「古史古伝」(八幡書店)にて入手可能.4「キリストは日本で死んでいる」は「たま書房」より刊行中.5「世界の正史」は現在流通してない。

※なお、キクの著作や写真については、法人・個人を問わず、当方からの貸し出し・譲渡などは一切おことわりしている。
また私はキクの著作権を継承してはいない。


竹内文献とは

竹内文献とは,いわゆる「竹内文書」(偽書とみなす側の表現)のことで、
ウチでは仰々しくも「竹ノ内古文献」と称していた。

茨城県磯原の竹内家には 私の父(キク三男)も子供の時、夏に遊びに行って、
そこの秀才の息子に宿題を全部やってもらっていたという。
そこで熱湯に手を入れる盟神探湯(くがたち)の行をやったという.
また父も信州の戸隠神社にあった神代文字を読めたという.
父は酒が入ると「ヒフミヨイムナヤコト」の唄(歌詞は繰り返し,メロディも単純)を歌った.

キクはどうやらこの文献のみに頼っていたらしい。
その全貌(戦災で消失)は知るよしもないが、なんでも今の太陽は7つ目だという
(人類の祖先が今の地球に着いたのが7つ目の星だったのか??)。

竹内文献を信じたい人は,ちきんとそれ(八幡書房から刊行)を読んでみること.
高校程度の世界史の知識で読むとガクッと力が抜ける箇所があちこちに出てくる.
たとえば,東京が1億年前から「とうきょう」と呼ばれていたという説があったら信じるか(恐竜が名づけた)?
辻褄が合うことが命の「お話」は辻褄の破綻は致命的.
小学校程度の素朴な頭なら信じることができるかも.
作者にも世界史の知識がほしかった(古生物学の知識までは期待しない).

竹内文献私見

竹内文献は,荒唐無稽すぎて,その思想的危険性さえ忘れられがちな書であるが,
まずはその点をきちんと吟味する必要がある.

私見では,日本の軍部が大陸進出の野望をもっている丁度その頃に,
天皇が日本に君臨する論理(+儒教的家父長論理)を拡大して世界統治を正当化する「神話」の提供として,
希代の大ボラ吹きによって創作されたものである(戦前の日本人の倫理感そのまま).

東条英機なんかも竹内家を訪れていたという.
でもさすがに竹内文献の論理は軍部も使えなかった.
むしろ天皇家の系譜を荒唐無稽化するとして,政府から危険思想とみなされ弾圧された.

その大ボラ(悪意のない嘘)吹きは,キクからのキリストの疑問に,
辻褄合わせのストーリーを作って回答したとうかがわれる。
疑問内容を詳しく聞けば,辻褄合わせの回答がしやすくなる.
顕示性性格者のホラとはそういうもの.

ちなみにホラを吹くことは,性格的行動習慣であるため,その人の人格の一部として認めるしかない.
そのような性格傾向の人が存在することをまずは理解しよう.

だから,そんなホラ(非現実だが辻褄は合っている)を信じる人の頭の方が純朴すぎるのだ
(現実を多元的に評価せずに単線的な論理=辻褄を信じるタイプ,
しかも信じられるからではなく,信じたいから信じてしまう).

しかし素朴な当時の国民レベルでは,「五族協和・大東亜共栄圏」という言葉が,
欧米の植民地主義から亜細亜を解放するスローガンとして支持されたように,
竹内文献の神話論理もキクにとっては,世界の民族・宗教対立の無意味さを「論証」できる天啓の書にうつった.

キクはイエスの生涯の記述に根本的疑問を抱いたという点では,かの聖書を批判的に読める距離感をもっていた.
しかし同じ態度で竹内文献に接することができなかった.

世界平和を願う心があまりに素朴で強かったため,学的批判の目が閉じてしまったといえる
(”発掘された”考古学的資料を盲信してはならないということは,今の日本人なら肝に銘じているはず).
私自身は竹内文献の世界観にはまったく興味がないが
(ワタシ的には,ユダヤの失われた支族が青森にやって来たという話にした方が面白い,
そうすればユダヤと当地の習俗の類似点などキクの傍証も活きてくる),

キクという,現実界で辛苦を重ねた明治女性がどのようにその夢想の世界に心を奪われていったか,
個人の精神史には関心がある.

女性の解放(男女平等)という価値観を持ち、現実に男に頼らない生き方を実践しながら、
超越(絶対)的な父性を希求していたのだから。

ある意味、”神の前の平等”を謳うキリスト教と天皇崇拝の合体とも言える(天皇の一神教化)。
言い換えれば、キクの実父も夫も、理想的な父性にはほど遠かった。

参考文献:長峯波山「竹内巨麿伝」八幡書店


信じる人と信じさせる人

私がキクと竹内文献との関係を醒めた目で見れるのには理由がある。

実は私の母方に,10代で統合失調症(精神分裂病)を発症した女性がいた。
親族の間でも困った存在だった(キツネが憑いていると言われていた)。
そして中年になって,明確な妄想を持ちはじめ,「われは神であるぞよ」と言いだした。
※:思春期に発症し重症化する破瓜型ではなく、一定の妄想レベルにとどまる妄想型だったようだ。
親族の間では更に困った存在となったが,本人は堂々と予言などをするようになった。

するとなんと,信者がついたのである(もちろん普通の人たち)。
予言が当るためか,信者が増えていき,寄進も増えて,親族の中で一番裕福な暮しとなった
(私もその広い家に遊びに行った)。
以来、親族の間でも「神様」と呼称されるようになった(私は本名を知らない)。

「神様」はだいぶ前亡くなったが,葬儀は信者達が丁重に行なったという。
信じさせる人は特異な人格で,信じる人は素朴な健常者というわけだ。

ちなみに、キクもこの「神様」と一度対面したが、それ以上の関わりはなかった。


実はキクは、宗教に熱心ではあったものの、スピリチュアルなレベルの感性に乏しいことを自覚していたという。
結局、キクの心はシステム2が限度で、システム3以上の真に宗教的な境地とは無縁だった。
そのため、システム2の欠点である”物語化”の罠にはまって、抜け出せなくなったわけだ
(普通の信者にも多いタイプ)。
この問題については右記事で一般化して論じている→心理現象としての宗教:システム2

そういうことが透けて見えるので、私はキクの宗教思想には興味がない。