先程、夏の草花の本を於いて、
テッポウユリの白い花が掲載されているのを見ていて、幼年期の頃が想い出された。
小学二年生の初夏の頃、昭和27年だった。
祖父と父が亡くなる1年前だった。
農家であったので、宅地の外れの畑との境界に草花を十坪ほど植えてあった。
この頃のある程度の農家は、仏壇、お墓に飾る花は、殆どその家の草花でまかなわれていた。
この夏の季節になると、ダリヤ、グラジオラス、カンナ、ホウセンカ、ケイトウ、ヒマワリ等があり、
そして橙色のスカシユリと白のテッポウユリがあった。
東京の郊外でどの家でも咲く花であった。
私は花の好きな叔母に教えられて、球根を並べてたりした。
ユリに関しては、橙色の花は何となく野暮ったい感じがして、
白い花は上品な感じがしていた。
小学四年を過ぎた頃、祖父、父が亡くなった後、
男手を失った農家は衰退となり、子供でも貧乏になったと実感し、何かと屈折したりしていた。
母方の実家の叔母が来宅した時、
都会の裕福なお方の人であったので、子供の私さえ、気後れしていた。
このお方は、未婚の女子大の四年生だった。
レースのついた日傘、水色のツーピース、ハイヒール・・私には眩(まぶ)しかった。
私は母の許しを貰らった後、
このお方のお土産として白いユリを五本切って、
母に包んでもらった。
この花だったら、都会の上品に通用する、と私は思っていた・・。
私は二十歳を迎えるまで、都会に対しては羨望と気後れが何かとあった。
テッポウユリの白い花が掲載されているのを見ていて、幼年期の頃が想い出された。
小学二年生の初夏の頃、昭和27年だった。
祖父と父が亡くなる1年前だった。
農家であったので、宅地の外れの畑との境界に草花を十坪ほど植えてあった。
この頃のある程度の農家は、仏壇、お墓に飾る花は、殆どその家の草花でまかなわれていた。
この夏の季節になると、ダリヤ、グラジオラス、カンナ、ホウセンカ、ケイトウ、ヒマワリ等があり、
そして橙色のスカシユリと白のテッポウユリがあった。
東京の郊外でどの家でも咲く花であった。
私は花の好きな叔母に教えられて、球根を並べてたりした。
ユリに関しては、橙色の花は何となく野暮ったい感じがして、
白い花は上品な感じがしていた。
小学四年を過ぎた頃、祖父、父が亡くなった後、
男手を失った農家は衰退となり、子供でも貧乏になったと実感し、何かと屈折したりしていた。
母方の実家の叔母が来宅した時、
都会の裕福なお方の人であったので、子供の私さえ、気後れしていた。
このお方は、未婚の女子大の四年生だった。
レースのついた日傘、水色のツーピース、ハイヒール・・私には眩(まぶ)しかった。
私は母の許しを貰らった後、
このお方のお土産として白いユリを五本切って、
母に包んでもらった。
この花だったら、都会の上品に通用する、と私は思っていた・・。
私は二十歳を迎えるまで、都会に対しては羨望と気後れが何かとあった。