この1週間、瀬戸内寂聴・著の『秘色』(新潮社)を読み終えた後、
世阿弥、観阿弥、足利義満などの軌跡を学んだりしていた。
そして、世阿弥の『風姿家伝』を初めとし、
吉田兼好の『徒然草』、鴨 長明の『方丈記』を思いかえしたりしていた。
そして最後には、紫 式部は何故『源氏物語』は書けたのか、
と思索し、ある程度了解出来たりした・・。
私は学生時代に国文学を残念ながら専攻した身ではなく、
ただ近現代文学と称される明治時代から昨今までの小説、随筆に関心がある。
そして、深く読めば読むほど、ある作家たちの作品は、
やはり中世に遺(のこ)された作品に到達することが多いのである。
その上、作品の背景には、当然として人々の営みがあり、
この頃の政治、文化、風土、日常生活、風習などを思考したりしている。
このような思いを東京オリンピックの頃から思い、
私の拙(つたな)い脳裏で苦楽を友とし、今日に至っている。
私の師は、数多くの書物を頼りに独学で学んでいるが、
サラリーマンの多忙な期間を35年ばかりしてきたので、
断片的で、一貫性がなく、残念ながらほころびが多いのである。
若き40代の頃、私は人生は2度あれば、
大学で国文学を専攻し、やがて教授になり、
確固たる国文学の上で足跡を残す、
と苦笑しながら夢想することもあった。
しかし、古今東西の数多くの人が願うように、
無念ながら人生は2度なく、
今の自分を自苦自楽しながら、向上させるしかないのである。
この一週間の私なりの師は、
谷山 茂・編の『日本文学史辞典』(京都書房)である。
この辞典は、昭和56年の秋に、偶然に本屋で見かけ、
年に数回程度、私の本棚から取り出して学んでいる。
戦後の作家の解説などは、幼い解釈もあるが、
貴重な師となっている。
このように私は、現世の社会の混迷を離れ、
ひたすら中世などを思索しながら、
ときには午前中のひととき買物・散策に出かけたりしている。
世阿弥、観阿弥、足利義満などの軌跡を学んだりしていた。
そして、世阿弥の『風姿家伝』を初めとし、
吉田兼好の『徒然草』、鴨 長明の『方丈記』を思いかえしたりしていた。
そして最後には、紫 式部は何故『源氏物語』は書けたのか、
と思索し、ある程度了解出来たりした・・。
私は学生時代に国文学を残念ながら専攻した身ではなく、
ただ近現代文学と称される明治時代から昨今までの小説、随筆に関心がある。
そして、深く読めば読むほど、ある作家たちの作品は、
やはり中世に遺(のこ)された作品に到達することが多いのである。
その上、作品の背景には、当然として人々の営みがあり、
この頃の政治、文化、風土、日常生活、風習などを思考したりしている。
このような思いを東京オリンピックの頃から思い、
私の拙(つたな)い脳裏で苦楽を友とし、今日に至っている。
私の師は、数多くの書物を頼りに独学で学んでいるが、
サラリーマンの多忙な期間を35年ばかりしてきたので、
断片的で、一貫性がなく、残念ながらほころびが多いのである。
若き40代の頃、私は人生は2度あれば、
大学で国文学を専攻し、やがて教授になり、
確固たる国文学の上で足跡を残す、
と苦笑しながら夢想することもあった。
しかし、古今東西の数多くの人が願うように、
無念ながら人生は2度なく、
今の自分を自苦自楽しながら、向上させるしかないのである。
この一週間の私なりの師は、
谷山 茂・編の『日本文学史辞典』(京都書房)である。
この辞典は、昭和56年の秋に、偶然に本屋で見かけ、
年に数回程度、私の本棚から取り出して学んでいる。
戦後の作家の解説などは、幼い解釈もあるが、
貴重な師となっている。
このように私は、現世の社会の混迷を離れ、
ひたすら中世などを思索しながら、
ときには午前中のひととき買物・散策に出かけたりしている。
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