夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

改めて、 『花の金曜日』の想いで・・♪   

2008-09-12 18:52:20 | 現役サラリーマン時代の想いで
先ほど、読売新聞の夕刊を玄関脇から取り込んで、
カレンダーを眺めていたら、明日から3連休の方も多いのかしら、
と思ったりしていた。

そして、私の現役時代の連休前の金曜日の頃を思い出したりしていた・・。


私は、このサイトに、
【 『花の金曜日』の想いで・・♪】と題し、
昨年の9月7日に投稿した文を読み返したりした・・



私は定年退職後の3年生の身であるが、最近はとみに曜日の感覚が薄らいでいる。
カレンダーを眺めると、金曜日だったと教えられる程度となったのである。

私の現役時代は数多くのサラリーマンと同様に、
月曜日の早朝から業務に精進し、睡眠時間を削り、
金曜日の夜になると、やっと安息が得られる、といった心情であった。


私は大学を中退し、映画青年、文学青年の真似事をしたりした後、
昭和45年の春、ある民間企業に中途入社し、遅ればせながら社会人となった。
この頃の勤務形態は、隔週の土曜日が午前中勤務となっていた。

その後、何時ごろか完全5日制となって、金曜日の勤務が終わると、何かしらほっとした・・。

どなたが名付けたのかは知らないけれど、
連休前の金曜日を花の金曜日と称して、『花金』と省略し、
社内で花金だから・・と歓送迎会や懇親会を開催されたり、
仲良しグループで呑みに通ったりしていた。

業務が立て込んで夜の9時過ぎに会社にいると、
『忙しいのだったら・・明日の土曜日に会社に来て、じっくりと仕事をすればよいじゃない・・
ともかく・・いつものメンバーで待っているょ・・』
と気のおけない友人が電話を掛けたりしてきたので、
私は仕事を切り上げて、その場所に駆けつけたりした・・。

どなたも同じと思われるが人事異動のたびに、
歓送迎会が部課間で盛んに行われ、私も異動の折には開催してくれた。

50歳を迎えた頃から、人付き合いと体力も疲れ果てて、ある程度のつきあいとし、
私は自宅の最寄り駅の付近の居酒屋で、
毎週の金曜日の10時過ぎに、定期便のように独りでボケッと呑んだりした。

私は弐合徳利のその時に思いついた地酒を2本呑みながら、
板長の進めの単品を3品を食べたりした。
そして絣(かすり)を召した女将や仲居さん達にからかわれながら、
1時間半ばかり心の憩(いこ)いとしていた。

その後、55歳になると出向となってしまい、
勤務先が遠方の上、始業も早くなり、心身疲れきったので、
居酒屋に寄れる余裕もなくなった。
帰宅後、風呂に入った後、11時過ぎに家内と話し合いながら、
弐合徳利の純米酒を呑んだりした。


どの時代でもサラリーマンの方達は、
どなたも多忙な業務な勤務実態で成果を問われているが、
私は花金の夜のひとときは、秘かな息抜きで過ごしてきた。

退職後の今としては、遠い昔の出来事だった、と改めて感じている。



今こうして読み返していたのであるが、
昨今は民間会社で成果主義の影響で、
部署間はもとより、仲間うちでも競争が激しくなり、
ノミニケーションが薄らいでいる、
と新聞、雑誌などで読んだりしたことがある。

私は料理を頂きながら、お酒を呑み、
最近の出来事を公私含めて他愛なく、話し合ったりするのが、
職場上の交流として、憩(いこ)いのひととき、
と長年思ったりしてきたので、少し寂しくない、
と現役の諸兄姉を思ったりしている。



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『こっぺパン』の想いで・・♪

2008-09-12 10:17:01 | 幼年・少年時代の想いで
過日、スーパーのパン・コーナーで、
紡錘形で底の平たいパンを見かけ、
近づくと『なつかしきのコッペパン』と明記されていた。

私は昭和19年に生を受けた身なので、懐かしさの余り、ひとつ購入した。


東京郊外の私の実家から歩いて、一キロ前後の駅付近に小学校がある。
昭和26年の春に私は小学校に入学し、
3年生の頃だったと思われる。

小学校の校門の近くに文房具屋さんがあり、
私達は鉛筆、ノートなどを親から買って貰ったりしていた。
この文房具屋さんが、ある日、店の一角にパンを置きはじめたのである。

『こっぺパン』と命名され、紡錘形で底の平たいパンで、
厚みを半分に切って、バター・ピーナッ(通称・バターピー)、
或いは(イチゴ・・?)ジャムが塗られていたのである。


この頃の私の実家は、祖父と父が中心となって農業をし、
ある程度の広さで田畑を耕し、
殆ど毎日、米の白いご飯、ときには小麦を混ぜて頂いていた。
そして、ときおり小麦を精米した後に粉にした『うどん』を
家族そろって頂いていた。

父が2年の3学期に死去され、
祖父もまななく他界されて、成人は女手ばかりとなり、
我家は没落しはじめた。


このような時、文房具屋さんで、
『こっぺパン』のバターピー、確か15円だった、
とおぼろげに脳裏に残っている。

私としては、初めて見たパンでもあり、
香(かぐわ)しいバターピーに魅了され、
親がサラリーマン、商店の店主している同級生が購入しているのを見かけたりしていた。

やむえず私は誘惑に負けて、涙を浮べ、
母親にねだって、お金を貰い、文房具屋さんに行ったが、
売り切れで失望し、とぼとぼと自宅に向かい歩いたりした。

翌日、早めに文房具屋に行き、待望の『こっぺパン』のバターピーが買えて、
私は食べながら、この世にこのような美味しい食べ物があったか、
とほうばりながら、実感したのである。

その後、色々な菓子パンが店内の一角に置かれ、
私が小学校を昭和32年3月に卒業した頃は、
『こっぺパン』は消え、多彩な菓子パンで占領されていた・・。


後年、私はこの『こっぺパン』が、
太平洋戦争中は主食が配給制度だった時に考案され、
ひとつのこっぺパンが一人一食相当分と知ったりした。

そして、都心の1部の小学校の給食に於いては、
昭和25年から開始されたと知り、
世田谷区に隣接した実家の地域は、今より遙かに格差があった、
と農家に生を受けた私は苦笑したりした。


尚、過日、『こっぺパン』を購入し、自宅で家内と半分づつ頂いたが、
『今としては・・余り美味しくないね・・
思いでばかりかしら・・
過ぎ去った過去は・・美しく感じることが多いもんねぇ・・』
と私は苦笑しながら、
5歳ばかり齢下の都心育ちの家内に云ったりしていた。

あの頃は、今のように世界中から小麦の種類、
パンにそなえる素材はもとより、技術も1部の地域を除き、なかったし、
何よりも私も含め多くの人は貧しかったのである。


今の我家に於いては、スーパーのパン・コーナーで食パンを一斤を購入し、
家内はトーストで焼き、マーガリンを付けて愛食し、
ときおり私も頂き、贅沢な食べ物のひとつ、
と感じたりしている。
そして、私は時折アンパンを食べたりしている。



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