私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨夜、NHKのBS2でアカデミー受賞作品特集として、『ローマの休日』が放映されると、
夕食の前に知り、どうしょうかしら、と考えたりしたのであった。
私は小学生の頃から映画が好きで、洋画だけでも少なくとも6000作品は鑑賞しているが、
あえて、『ローマの休日』は避けていたのである・・。
もとよりこの映画は、製作は1953(昭和28)年に製作されて、日本で公開上映されたのは翌年の1954(昭和29)年であったので、
私が小学3年生の時であり、この頃は東映の時代劇の三本立てに夢中な時であり、
幼年のせいもあり、観てはいない。
その後、高校2年の1961(昭和36)年頃には、リバイバル上映として、
この『ローマの休日』をはじめ、ジョン・フォード監督の『駅馬車』(1940年=日本初公開)、
ビクター・フレミング監督の『風と共に去りぬ』(1952年=日本初公開)、ルネ・クレマン監督の『禁じられた遊び』(1953年=日本初公開)、
チャールズ・チャプリン監督の『街の灯』(1934年=日本初公開)等が日比谷の映画館で上映されて、
私は殆ど観ていたが、『ローマの休日』だけは予告編を観た時、
王女と新聞記者のコメディ・ラブロマンスで余りにもおとぎ話なので、高校生から二十歳までの若い女性向き、
と直感して見送ったりしていたのである。
その後、東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年に私は大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をした後、挫折をし民間会社に入社し、
35年間ばかりあるレコード会社に勤めて、定年退職した身である。
この間、映画館で映画を観るのは激変したが、ときおり映画の雑誌、文庫本を買い求めたりした。
そして日本の映画好きな著名人の歴代洋画作品に於いて、
ベストテンの上位に『ローマの休日』が選定されることが多く、
私はおとぎ話のような作品が選ばれるのは、程度の低い人たちと思っていたのである。
その後、専門雑誌のキネマ旬報の中で、『オールタイム・ベスト・テン』に於いて、
アメリカ映画協会(AFI)の選定に寄れば、『ローマの休日』の選定されておらず、
私は安堵しながらも、何故日本はあのようなおとぎ話しが好感するのか、
と不思議に思い続けていたのである。
私は監督のウィリアム•ワイラーの作品に関しては、
『ミニヴァー夫人』(1941年)、『我等の生涯の最良の年』(1946年)、『必死の逃亡者』(1955年)、
『大いなる西部』(1956年)、『ベン・ハー』(1959年)、『噂の二人』(1961年)ぐらいしか観賞した記憶がなく、
巨匠として名高い戦前の作品は観た事がないので、批評の資格はない。
そして、問題のオードリー・ヘップバーンの主演した作品は、
『戦争と平和』(1956年)、『緑の館』(1959年)、『噂の二人』(1961年)、
『ティファニーで朝食を』(1961年)、『シャレード』(1963年)、『マイ・フェア・レディ』(1964年)・・
現在、思い出されるのはこの程度の作品だけで、
私は性の匂いが感じることがない女優は、高校生の青春映画ならともかく、苦手なのである。
このような思いで、苦手意識を秘めた『ローマの休日』でも、思い切って昨夜、
テレビ画面であるが、視聴したのである。
おとぎ話でも、良く出来た脚本であり、やはりW.ワイラーは一流と云われた監督であると、
納得させられたのである。
この映画は少なくとも2つの功績がある。
この製作された1953年の当時の欧米の状況を考慮すれば、
ローマの名所を作品で数々登場させて、この後のローマを中心としたヨーロッパ観光旅行を誘発させた点である。
このことはデビット・リーンの名作のひとつ『旅情』(1955年)に於いて、
アメリカの平凡なオールト・ミスが、あこがれのローマでの出来事を描いた作品でもあり、
アメリカからも多くの方がヨーロッパ観光旅行をされたことである。
そして、監督から主演に抜擢されたオードリー・ヘップバーンの存在である。
これまでのアメリカ女優にないファニー・フェイスとして、確固たる存在感を示した上、
ショートカットのヘアー、そして衣服のファションまで数多くの人たちに影響をもたらした稀な女優である。
オードリー・ヘップバーンは私は苦手な女優のひとりであるが、
数多くの女性から敵視されない稀な存在であることは、私も認める女優である。
このようなことを観終わった後、感じたのである。
しかし映画の作品の評価としては、私の今まで観た洋画の中では、
1000位にもならない作品である。
この後、私は深夜にもかかわらず『20世紀の映画監督名鑑』(共同通信社)に於いて、
長谷川正のW.ワイラーの解説を、改めて読んだりした。
氏の解説の一部には、
《・・
戦後、メジャーの力に左右されず監督の立場を強化しょうと、リバティ・プロを創設する。
これは武士の商法で失敗に終わったが、終始リベラルな立場を明確にして、
あの米ソ対立の時代、アメリカ下院の行った〔赤狩り〕にも批判の目を向け、
共産主義者として追放された脚本家ドルトン・トランボを、
あえて『ローマの休日』に変名で起用するなど、気骨あるところもみせた。
・・》
このようなことを読んだりして、今まで観たW.ワイラーの作品を思い馳せたりした。
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昨夜、NHKのBS2でアカデミー受賞作品特集として、『ローマの休日』が放映されると、
夕食の前に知り、どうしょうかしら、と考えたりしたのであった。
私は小学生の頃から映画が好きで、洋画だけでも少なくとも6000作品は鑑賞しているが、
あえて、『ローマの休日』は避けていたのである・・。
もとよりこの映画は、製作は1953(昭和28)年に製作されて、日本で公開上映されたのは翌年の1954(昭和29)年であったので、
私が小学3年生の時であり、この頃は東映の時代劇の三本立てに夢中な時であり、
幼年のせいもあり、観てはいない。
その後、高校2年の1961(昭和36)年頃には、リバイバル上映として、
この『ローマの休日』をはじめ、ジョン・フォード監督の『駅馬車』(1940年=日本初公開)、
ビクター・フレミング監督の『風と共に去りぬ』(1952年=日本初公開)、ルネ・クレマン監督の『禁じられた遊び』(1953年=日本初公開)、
チャールズ・チャプリン監督の『街の灯』(1934年=日本初公開)等が日比谷の映画館で上映されて、
私は殆ど観ていたが、『ローマの休日』だけは予告編を観た時、
王女と新聞記者のコメディ・ラブロマンスで余りにもおとぎ話なので、高校生から二十歳までの若い女性向き、
と直感して見送ったりしていたのである。
その後、東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年に私は大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をした後、挫折をし民間会社に入社し、
35年間ばかりあるレコード会社に勤めて、定年退職した身である。
この間、映画館で映画を観るのは激変したが、ときおり映画の雑誌、文庫本を買い求めたりした。
そして日本の映画好きな著名人の歴代洋画作品に於いて、
ベストテンの上位に『ローマの休日』が選定されることが多く、
私はおとぎ話のような作品が選ばれるのは、程度の低い人たちと思っていたのである。
その後、専門雑誌のキネマ旬報の中で、『オールタイム・ベスト・テン』に於いて、
アメリカ映画協会(AFI)の選定に寄れば、『ローマの休日』の選定されておらず、
私は安堵しながらも、何故日本はあのようなおとぎ話しが好感するのか、
と不思議に思い続けていたのである。
私は監督のウィリアム•ワイラーの作品に関しては、
『ミニヴァー夫人』(1941年)、『我等の生涯の最良の年』(1946年)、『必死の逃亡者』(1955年)、
『大いなる西部』(1956年)、『ベン・ハー』(1959年)、『噂の二人』(1961年)ぐらいしか観賞した記憶がなく、
巨匠として名高い戦前の作品は観た事がないので、批評の資格はない。
そして、問題のオードリー・ヘップバーンの主演した作品は、
『戦争と平和』(1956年)、『緑の館』(1959年)、『噂の二人』(1961年)、
『ティファニーで朝食を』(1961年)、『シャレード』(1963年)、『マイ・フェア・レディ』(1964年)・・
現在、思い出されるのはこの程度の作品だけで、
私は性の匂いが感じることがない女優は、高校生の青春映画ならともかく、苦手なのである。
このような思いで、苦手意識を秘めた『ローマの休日』でも、思い切って昨夜、
テレビ画面であるが、視聴したのである。
おとぎ話でも、良く出来た脚本であり、やはりW.ワイラーは一流と云われた監督であると、
納得させられたのである。
この映画は少なくとも2つの功績がある。
この製作された1953年の当時の欧米の状況を考慮すれば、
ローマの名所を作品で数々登場させて、この後のローマを中心としたヨーロッパ観光旅行を誘発させた点である。
このことはデビット・リーンの名作のひとつ『旅情』(1955年)に於いて、
アメリカの平凡なオールト・ミスが、あこがれのローマでの出来事を描いた作品でもあり、
アメリカからも多くの方がヨーロッパ観光旅行をされたことである。
そして、監督から主演に抜擢されたオードリー・ヘップバーンの存在である。
これまでのアメリカ女優にないファニー・フェイスとして、確固たる存在感を示した上、
ショートカットのヘアー、そして衣服のファションまで数多くの人たちに影響をもたらした稀な女優である。
オードリー・ヘップバーンは私は苦手な女優のひとりであるが、
数多くの女性から敵視されない稀な存在であることは、私も認める女優である。
このようなことを観終わった後、感じたのである。
しかし映画の作品の評価としては、私の今まで観た洋画の中では、
1000位にもならない作品である。
この後、私は深夜にもかかわらず『20世紀の映画監督名鑑』(共同通信社)に於いて、
長谷川正のW.ワイラーの解説を、改めて読んだりした。
氏の解説の一部には、
《・・
戦後、メジャーの力に左右されず監督の立場を強化しょうと、リバティ・プロを創設する。
これは武士の商法で失敗に終わったが、終始リベラルな立場を明確にして、
あの米ソ対立の時代、アメリカ下院の行った〔赤狩り〕にも批判の目を向け、
共産主義者として追放された脚本家ドルトン・トランボを、
あえて『ローマの休日』に変名で起用するなど、気骨あるところもみせた。
・・》
このようなことを読んだりして、今まで観たW.ワイラーの作品を思い馳せたりした。
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