夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

東京郊外の田舎者、小笠原諸島の『父島』滞在旅行に伴い、投稿中止・・。

2010-02-23 14:34:00 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
24日から3月7日まで11泊12日で小笠原諸島の中のひとつの『父島』に滞在旅行をするので、
投稿文は中止とさせて頂く。

私は定年退職後、まもなくしてブログの世界を知り、
旅行とかパソコンの故障などしない限り、日々数通を投稿し6年目となっている。

私の投稿文は原則として自宅の居間でパソコンに向いながら綴って折、
携帯電話が使えないので携帯電話も所有していない数少ない人であり、モバイル情報といっても無知なのである。

ひとときはミニ・ノートパソコンを購入して、旅先などで日々の投稿の持続を考えたりしたことはあったが、
ときおり国内旅行をする身であるので、旅先の情景や情感の魅力に専念した方が、
のちの思いが深まると確信している古い人であり、
せめて旅先で魅せられたことをノートを持ちながら、メモ程度に書き込んだりしている。

このような古い世代のひとりなので、3月7日までは投稿文は休止する。

帰宅後、つたないなりに初めて訪れた小笠原諸島の『父島』滞在で、
感じたこと、思い込んだことなどを綴る予定である。
そして、秘かに願っていることは、父島の夜空に満天のたわわな星を観られれば、
私はこれ以上の幸福のひとときはない、と思ったりしている。



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愛(いと)しき光と風、そして波打ち寄せる『新島』 【2009.5.10.~.5.11.】  再掲載

2010-02-23 13:17:08 | 
    序章 旅のはじまりは、超高速船『セブンアイランド』

私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
家内と共に東海汽船の謝恩企画により、破格に廉(やす)い1泊2日の短かき旅で、
伊豆七島のひとつの新島に初めて訪れた・・。

このことは、旅に立つ前に、
【 明日より、初めて訪れる伊豆七島の『新島』に思いを馳せれば・・。 】と題し、
投稿している。

【・・
4月の初めの頃、読売新聞の朝刊で、
旅行会社の広告が掲載され、この中のひとつに微笑んでしまったのである。

もとより伊豆七島は大島・利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島と東京都の地域に所属し、
太平洋に浮かぶ諸島であるが、
私は高校一年の時に大島、50代のなかばに家内を伴い訪れただけであり、
これ以外は私達夫婦は未知の世界であった。

この東海汽船の謝恩企画としては、新島、そして付近の式根島、神津島が企画プランであり、
高速ジエット船の『セブンアイランド』も乗船したことがなく、
ネットでこの三島を検索したのである。

この中の新島が、
【 白い砂浜に降り立てば、
        そこはまさに異国の楽園。】
と大きく明示されていたのである。

宿が民宿なので少しためらいがあるが、
《 大人 お一人様 25500円  二名様以上 》
と明記されていたので、
東京の竹芝桟橋から新島までの往復の船旅が楽しめた上、
新鮮な魚介類の食べ物を頂き、新島近辺のショート・クリージングも乗船でき、破格な料金に驚いたのである。

そして、こうした機会でなければ中々行けない、と私達は決意して、申し込んだのである・・。

5月10日より1泊2日の短かな旅行であるが、
初めて訪れる『新島』に於いて、島の情景はもとより、
エビネ、ハマユウの草花を見たり、夜のひとときに夜空を眺め、満天の星にめぐり逢えたならば、
これ以上の贅沢なことはない、と私は思ったりしている。
・・】


このように思いを秘めて、10日(日曜日)の澄み切った快晴の朝6時に、
自宅を出て、『浜松町』の駅に下り立ったのは、7時であった。

私達は『竹芝桟橋』のターミナルビルを目指し歩いて7分前後であるが、
遠い昔、私が高校一年の昭和35(1960)年の夏に伊豆七島のひとつの大島に訪れる時、
確か『日の出桟橋』の船旅の出港だったと思ったりしているので、私達夫婦は初めての『竹芝桟橋』でもあった。

http://www.tptc.co.jp/terminal/takesiba/index.html

伊豆七島、小笠原諸島の玄関口のターミナルビルは、広々とし、
周辺はたわな新緑の樹木があり、
私は『浜松町』の駅に下り立った反対側は、首都の最前線のビジネス街が広がっているので、
たった10分足らず閑散としたターミナルビルの前のベンチに座り、
煙草を喫いながら、戸惑いを覚えていた。


私達は予定通り、東海汽船の超高速ジエット船の『セブンアイランド』に乗船し、
出港したのは、8時15分であった。

http://www.tokaikisen.co.jp/

東京湾のレインボー・ブリッジの下をゆるやかに通り抜けた後、
営業スビードの時速80キロに加速すると、東京を船から眺める景色かしら、
と私は微苦笑したりした。
そして、羽田空港の沖にさしかかると、数多くの飛行機が行儀良く並んでいるのが観え、
初めて観た情景に私は思わず微笑んだ・・。

その後、三浦半島の最先端に近い『久里浜』な寄港した後、
外洋のおだやかな2メートル前後の波浪であったが、
この超高速船『セブンアイランド』は揺れることなく、海上を走破した。

そして、『大島』の岡田港に10時15分に着岸すると、
『出港まで10分ほどありますので・・
休息したいお客様は下船して下さっても・・結構です・・』
とこのようなアナウンスが聴こえたので、
私は小躍りしながら、下船し、喫煙場所に行ったのである。

私は今回の旅は、この船は禁煙で新島までの3時間、
そして民宿に泊まる、このふたつがためらいがあったのが本音であった。

私は灰皿の於いてある喫煙場所に行くと、
私と同じ思いの愛煙家の人たちと談笑をしながら、煙草を喫ったりしたのである。
そして私は、周辺には岡田港の情景をデジカメ、或いは携帯電話で撮られる人達を眺めたり、
港の周囲の緑豊かな情景に心を寄せたりした。


この後、岡田港を出港した後は、蒼き海原を眺めていたのであるが、
この『セブンアイランド』は時速時速80キロ前後であり、
私は心身に心地よかったのである。

私はかってJRが国鉄時代に於いて、
山口百恵ちゃんの『いい日旅立ち』の歌が街に流れていた前後、
列車のひとつとして『L特急』があり、私は好感していたひとりである。
線路が曲線になると時速50キロになったり、直線は100キロ前後に走破し、
車窓からはその地の情景を眺めのが、好きであった。

鈍行列車だと、緩やか過ぎで、昨今の新幹線は早過ぎて、
まして飛行機などは論外である。
このような思いになると、バス旅行で高速道路を走破すると、
不思議なことに時速80キロ戦後の車窓から旅先の情景に深く心に残るのである。

こうした思いが齢を重ねるたびに深くなっていたので、
私は思わず『セブンアイランド』の移ろう情景に微笑んだのである。


『利島』に寄港した後、初めての『新島』に到着したのは,11時25分であった。

私の住んでいる調布市と同様に東京都の地域であるが、
竹芝桟橋からは160キロの海上に存在する島であり、
たまたま私が乗船した船で3時間、大型フェリーの客船で10時間を要し、
私の心情としては、沖縄本島から石垣島に訪れたと同様な気持ちになった・・。

そして、船着場の駐車場は、品川ナンバーの車が数多く観られたので、
確かに東京都だょねと心の片隅に思いながらも、
燦燦の陽射しの快晴の中、異国の神秘のような島に下船したのであった。
                           

     第1章 新鮮な海の恵みの魚介と島内の素朴なアシタバは

『セブンアイランド』を下船し、東海汽船の添乗員に誘導され、
船着場の駐車場には今宵宿泊する民宿の方たちが、ワゴン車、軽自動車で待機されていた・・。

私はTシャツに長袖のスポーツシャツ、そしてトレッキング用の長ズボン、
ウォーキング・シューズの容姿で、そして軽登山のザックを背負い、
家内もほぼ同様な姿で、ハンドバックひとつ歩きはじめた。

自動車に乗る寸前に、私達が参加したグループは18名と判明したが、
私が秘かに予測した通り私達の世代から、70代前半までのご夫婦が圧倒的に多かった。
やはり大型連休後の日曜日と月曜日を利用した旅行は、
格安な旅費もさることながら、機会がなければ、こうした新島の小旅行も
中々ままならぬというのが実態と思っていたのである。


私達のグループは、分乗した自動車で港から民宿に向かったが、
白っぽい灰色のコーガ石の彫刻した人の高さほどの彫り物が道路の端に数多く観られ、
左側は海から押し寄る波間が昼の燦燦とした陽射しで光を帯びて、きらめいていた・・。

島内の中心部の街並みの一角に、今宵宿泊する民宿があり、
私達夫婦は指定された部屋に入り、こじんまりとした六畳間の片隅にザックなどの荷物を置いた。

http://www.niijima.or.jp/jigohei/

この後、港の前にある観光協会の前で、
昼食用の海鮮バーベキューということなので、再び港の前に民宿の方の自動車に分乗して戻った。

観光協会の前の広場で、会議用の長机が並び、その前で炭火で焼いている魚介を、
民宿の若き奥様、観光協会の方達、そして観光支援をして下さる方たちが、
バーベキューの世話をして下さった・・。

私は魚介類を頂くには少なくともビールと思い、
観光協会の周囲の自動販売機を探していたら、
隣接したお土産と雑貨の販売店を教えられ、缶ビールは確保できた。

イカ、サザエが焼かれたり、ポリバケツにはアワビを小さくした貝のトコブシが数多くあり、
テーブルにはたたき汁と称されたこの付近で獲れたアオムロアジ、ムロアジなどをすり身に調味料を加味した汁物、
さつまあげのような形はすり身をしたのを油で揚げたりしてあった。
そして、明日葉(アシタバ)を天麩羅を頂いたりしていた。

http://www.kanko-kyokai-niijima.net/guide/foods.htm

私はビールを呑みながら、サザエとかイカの焼き物を頂いたりしていたが、
『おにいさん・・クサヤ・・食べてないじゃ・・ないの・・』
と40代の支援している女性の方から云われ、
私はクサヤの香りが苦手であるので、逃げまくったりしていた。

そして、最後におにぎりを頂く時、明日葉の胡麻和えをつつみ込んで賞味したが、
想像以上に絶品で、私は小声で家内に絶賛した。


この晩、民宿の夕食の際、イサキ、カンパチ、アジなどの刺身も加わり、
充二分に頂いたりした。

そして、翌日の朝食は観光協会の前で、
小さめの金目鯛の焼きあがったのを頂いたのであるが、
旅先の伊豆半島で幾度も食べた食事処の一品料理の金目鯛より遥かに美味しく、
私はたたき汁を頂いたり、おにぎりを食べたのであるが、驚くほど奥深い確かな味で、
私は驚いたのである。
そして、もうひつとのおにぎりは、私が魅了させられた明日葉の胡麻和えをつつみ込んで頂いたのである。

私は辞する時、思わず協会の男性の方に、
『確かな味を・・たびたび頂きました・・美味しゅうございました』
と感謝しながら、云ったりした。


     第2章 新島の素朴な情景は

初日、観光協会の前で海鮮バーベキューの昼食を頂いた後、
『景勝地を巡るバス観光』と称せられた特別企画コースがあり、新島村役場の所有のマイクロバスに乗車した。
私達グループ18名と東海汽船の添乗員、ドライバーは村役場の職員の若い男性がされ、
案内されるガイドは観光協会の若き女性であった。

http://www.kanko-kyokai-niijima.net/map/map.htm

丘陵の低い所に白い三角屋根が観えたのは、
『新島村博物館』であり、この島の形成された推移、
島内で人々の営みの暮らしなどが映像、模型を含めてわかりやすく展示されている。
そして、館外の近くに茅葺きの民家が復元されて折、
どなたでも理解できるかっての生活状況となっている。

天上の梁が太く、私は若きガイドさんに問い合わせれば、
平均的な民家を想定して復元した、と云うので、
私の住む調布市のかっての時代より、この地は裕福ですよ、と私は微苦笑しながら云ったりした。


この後、山すその高台にある『富士見峠展望台』で下車したが、
周辺は霧につつまれて、遥か下界に島内で一番の人が多い本村の街並みたりしたが、
無念ながら、解説にあるように、
式根島はもとより、神津島、三宅島は霧の彼方につつまれ、
まして晴れた日には伊豆半島、富士山も一望できることもあると書かれていたが、
お互いに、無理よねぇ、と苦笑しながら乗車した。

そして、マイクロバスは山すその道路を下ったら、視界がひらけ晴れ渡っていた。
その後、島の北方を目指し、真新しい大きなトンネルに入った。
ガイドさんに寄れば、
平成12年に北方にある若郷の集落が大地震に遭い、多大な災害に遭われ、
従来の山すその道も分断されたので、このトンネルが新設された、とのこと。

トンネルを抜けると、『渡浮根展望台』があり、眼下には若郷の漁港や住居の街並みが観えたが、
この新島の全てでも2千人程であり、まして小さな集落の若郷は小さな街並みに感じられたのである。

私達の乗ったマイクロバスは、若郷前浜に行き、
護岸工事が完璧になされた所、そして黒い砂浜の広がる浜辺を散策した。
人影は私たちのグループしか見当たらず、私は少しため息をしながら、
波間を見たり、黒い砂浜を歩いたりし、少し寂しいんじゃないの、と心の中で呟(つぶや)いていた・・。


この後は、再びトンネルを通り、東の海岸に向かった。
白い砂浜が遥か彼方まで続くような海岸で、『羽伏浦海岸』と大きく看板もあり、
太平洋の海上から幾重にも大きな波間が観え、若い男女の20名前後がサーフィンに挑んでいた・・。
私はサーフィンをしている人をまじかな前方200メートル先で初めて見たのであるが、
健気にも幾度も挑む姿には、若さの活力はもとより、好感しながらも私の心を元気づけてくれた。

そして、私達夫婦は白い砂浜を散策したりした。


民宿に戻り、夕食を頂いた後、
家内は『貝細工』の講習を受け、初めての試作品を作り、部屋に帰り、私に見せて、お互いに微笑んだりした。

そして、近くの『まました温泉』に民宿の自動車で東海汽船の添乗員が送迎をして下さると云うので、
私は露天風呂から満天の星空が眺められるかしら、と淡い期待をしていたが、
平素のだらけた生活を過ごしているのが、天上の神々に知れたらしく、かすかに星が観える程度であった。

私達は民宿に戻ると、ロビーの脇でビールを買い求め、
こじんまりとした六畳間で私は布団の上であぐらをかき、少し疲れたねぇ、と家内に云ったりした・・。


     第3章 海上から新島を眺めれば

民宿に泊まった翌朝、朝食を海上観光協会の前で頂いた後、
新島を海から眺めましょう、というショートクルーズの特別企画コースがあり、
私達グループは新島港の近くにある黒根港に徒歩で10分足らずに移動した。

平素は新島と式根島の定期航路と使用されている船で、
観光協会の特別のご好意により、私達は新島の南部を海上から眺める特例の航路に乗船できた。

私達は、定期船の展望席の椅子に座ったりしながら、
澄み切った快晴の中、蒼い海原の波間を眺め、潮の香りと匂いを感じ、そして海風を受けながら、
新島港に近い地内島を観たり、かっては陸続きであった式根島を眺め,
蒼い海原をまじかに見ながら、新島の南部の断崖を見つめたりした。

そして、新島の最南端を通り過ぎると、
低い断崖からそびえるように高い絶壁が幾重にも観え、
このすべてが真っ白に彩(いろど)られた断層が果てしないように続き、
私達のグループの数多くの人たちは、思わず歓声をあげながら見惚(みと)れていた・・。
観光協会の若き女性も、
『白ママの断層・・いつ観てもすごい・・』
と小声で呟(つぶや)いていた。

http://www.niijima.com/cgi-local/news/news.cgi?mode=event1

そして私達のグルーフの多くは、デジカメでこの美景を撮ったり、
或いは記念写真として、白ママ断層を背景に微笑みながら、
お互いに撮りあったりしていた。

船はゆったくと10分ぐらい白ママ断層を航路した後、
帰路に向かったが、私は、
『良かったねぇ・・船から眺めると・・蒼い海原を通して・・真っ白な断層が観られる・・
たとえ空から眺めても・・こうした美景は観られないょ・・』
と家内に云いながら、私は白ママ断層の美景を褒めたたえていた。

家内は、そうよねぇ、と云いながら、
遠ざかる白ママ断層を名残りおさそうに見つめていた。


     最終章 光と風、そして打ち寄せる波

私は新島の南部の特例のクルージングを終え、黒根港で下船した時、
乗船させて下さった船を眺めたりしていた・・。

澄み切った快晴の中、蒼い海原の波間を眺め、潮の香りと匂いを感じ、そして海風を受けながら、
愛(いと)おしいような島々の情景に心を寄せたり、
真っ白に彩(いろど)られた断層が果てしないように続く白ママ断層の光景に見惚(みと)れていたひとときに、
思いを馳せたりし、改めて深く心に残っていたことに気付かされたりした。


この後、昼食の前の2時間を私達夫婦は、付近を散策した。
新島港の前から少し南に歩き出すと、
岩山の上に神殿のような円柱がそびえいる『湯の浜露天温泉』に少し驚いたりしたが、
昨今流行(はやり)の水着着用なので、私は苦笑したりした。

私は少なくとも日本男児のひとりであるので、
素肌で大浴場、露天風呂に入浴するように、厳しく育てられたので、
こればかりは水着着用などと柔な精神に反するので、断念したのである。

この後、『湯の浜露天温泉』の足湯の傍にたたずんでいると、
脱衣場から石段をあがると露天風呂らしく、
若き奥様がビキニの水着の容姿で、三歳ぐらいの男の子を連れていた。
男の子も可愛い水着のパンズ姿には微笑んだりしたが、
やはり若き奥様のビキニの水着姿は、私は齢を重ねてもまぶしすぎるのであった。

そして南へ道路に面した歩道を少し歩くと、
岩山が観えたので、道路の脇の石段を下りると、砂浜が少し続き、
海岸の水際に近づくと小岩の状景となり、水際には大きな岩があり、
岩間の間から波が打ち寄せていた。
私はこの一帯に大きな露天風呂にすれば、素晴らしい光景になる、と余計なことを思ったりした。


この後、港に戻り途中、コーガ石の高い塔が観え、
そばを通り過ぎる時、バーベキューが出来る施設があった。

そして私は石段を下りる時、草花が生い茂る中に、
『光と』 『風と』 『波』 『の』 『塔』と五つばかりの小さなコーガ岩が斜面にあり、
私は草花で少し覆われていたので、
『光』、『風』、そして『波』、と解釈したのである。


この後は港の前を過ぎて、白い砂浜が水際まで広がっている砂浜に、私達は下り立った。
里村のエビネの花は散った後の時節、砂浜の外れにハマユウの小さな花がたわわに咲き、
この付近に私は座り、携帯灰皿を取り出して、煙草を喫ったりした。
そして、快晴の中、前方の波間を観たり、そして彼方の海原を見つめていたりした。

家内は水際を歩き、貝殻を拾い集めたりしていた。

私はぼんやりと、観光協会で頂いた観光ガイドのパンフレットを開き、
昨夜に読み込んだ最後のページを読んだりした・・。

中腹の山すそと思われる雑木林の中に、少し拓けた土の小道があり、
この周辺に海辺の方からの明るい陽射しが射し込み、
前方は蒼い海が彼方まで広がり、そして空は青い空となっている情景の一葉の写真であった。

この写真を背景として、
【・・
日常の暮らしから遠く、空と海をへだてた世界。
 でもどこか懐かしい、そして心躍る、島への旅。
       東京から南へ約150キロの新島。
島に下り立った瞬間に聞こえてくる胸の高鳴り。
  白いコーガ石に囲まれた家々を通り抜けて、
              海岸へと続く道。
木々のあいだ、その先にある水平線の彼方からやってくる。
         潮風と心を通わせ、白い砂浜に一歩足を
                踏み入れてみてください。
   きっと「おかえり」と波の音が答えてくれるでしょう。

          あなたの心に残る感動を。思い出を。
・・】

このように綴られた観光ガイドであり、
新島村役場の産業観光課が発行されたひとつであった。


この詩のようなひとつの散文を深く読み返していたのである。


昼食のお弁当も観光協会の前で頂き、
私達夫婦は付近の長椅子に座り、私はビールを呑みながら食べたりした。
そして、新島港の出港時間の午後1時45分の少し前の集合時間まで、
石段、椅子に腰かけて、燦燦と照る中、海上の蒼い海原を眺めたり、
打ち寄せる光る波間を見つめながら、ビールを呑み続けたりした。

帰路の『セブンアイランド』の船内で、
私は陽射しを久々に浴びて疲れたのか、ビールを呑み過ぎたのか解からないが、眠りこけたのである。
そして、眠りの中でも、
東海汽船の謝恩企画により、添乗員となった社員の奮闘はもとより、
新島の観光協会、民宿の方たち、村役場の多大なお陰で、
格安な支払い旅費で、たった実質滞在一日の旅であったが、深く心に残る旅だった、と感謝致します、
と寝言で云ったかは、私には記憶にはかったのである。

                            (終わり)


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沖縄本島滞在記  【2007.10.29.~ 11.6.】   再掲載

2010-02-23 12:01:09 | 
   序章  お洒落な半袖とフィールド・ジャケット

私達夫婦は、家内の母と3人で、本日より沖縄本島を8泊9日で訪れるが、
二週間前頃から、服装を決めたした・・。

(略)

   第1章  機中、ひとり涙をながせば

10月29日(月)
羽田空港を20分ばかり遅れて、那覇行きの航空便は離陸した。

私は2時間半ばかりの機中の時間は、煙草も喫えず、退屈きわまりない時であったので、
過日知った『ずゐせん学徒隊』のことを思い浮かべてた・・。

そして、このことを私は別ブログに綴って投稿し、
この私の掲示板に、沖縄の男性より、
『友の碑~白梅学徒の沖縄戦~』のサイトを教示して下さり、
私は初めてこのことも知り、感銘を受けた後、資料として印刷した。

この資料を今回の旅に持参し、機中で再読した。

http://www11.ocn.ne.jp/~cr21/tomo/friends.html

改めて、監督のメッセージ、企画制作意図を精読し、あの時代に思い馳せると、
心は高まり、そして瞼(まぶた)が熱く、やがて涙があふれてきた・・。

航空便の機長より、着陸のアナンサーがあり、機は下降し、雲の中を通り過ぎると、
眩(まぶ)しい陽射しの中、那覇空港が観えた。


   第2章  琉球文化の一端として

那覇市のビジネスホテル風の『アパホテル』にチェックイン後、玉陵、首里城を観て廻った。

私達夫婦は15年前に来ていたので、
歴史館、陸墓は彼方の時代の時の再現を確認する為であり、
沖縄の明治以前の歴史を書物で学んできたが、王朝の興亡には私は余り興味がなく、
ただ中国、朝鮮、薩摩との交流は、改めて考えたりしいた。

琉球の置かれた状況をそれぞれの時代には、
どのような形態であったのかしら、と思いを馳せたりした。

牧志市場で魚介類を1階で買い求め、
2階が食堂風で食べさせてくれる所で、ヤシ蟹(カニ)とイカサミ等の周辺で獲れるのを賞味した。

家内たちは色々と賞味していたが、
私はオリオンビールを呑みながら、ヤシ蟹の味噌を味わえば、充分である。


   第3章  クファデーサーの樹の下で

『ひめゆりの塔』を行く前に、『ずゐせんの塔』に花をささげたいと、
私は家内たちに云った・・。

家内たちには、ずゐせん学徒隊に関しては、旅行の合間に話していたのである。

『ずゐせんの塔』は、午前の陽射しを受け、さわやかな風が吹いていた。

私達は花をささげて、両手を合わした後、しばらく黙祷をした・・。

この後、『ひめゆりの塔』の資料館を見いていたが、
私は早めに出て、庭園を散策し、庭の手入れをされている年配の男性に、
『クファデーサー・・樹・・
この庭園に有りましたなら・・教えて下さいますか・・』
と尋ねた・・。

男性の庭の周辺を歩きながら、
大きな樹木で空まで伸ばすかのように枝葉を広げた大木を指して、
『この樹が・・クファデーサーですよ・・』
と私に云った。

古来から沖縄に於いては、墓地の付近に植えて、さんさんと照り続ける中、
大きなクファデーサーは周囲に日陰をつくりだすので、長年人々にいとしまれている樹である。

かの沖縄戦で民衆、少年少女、そして幼児まで巻き込まれた悲惨な地上戦を思い馳せながら、
私はクファデーサーの樹の下で煙草を喫ったりした。

このクファデーサーに関しては、
両陛下が終戦50年の慰霊の旅として沖縄に訪れた折、
『平和の礎(いしじ)』をご覧になった後、
皇后陛下は平成七年にひとつの歌を詠まれた・・。

   クファデーサーの苗木添ひ立つ
           幾千の礎(いしじ)は重く死者の名を負(お)ふ
                                作者・皇后陛下

この一句に導かれて、この樹木を知り、私なりに沖縄戦の過酷な戦場と思いを重ねた。

この後、『平和の礎』のある『平和祈念公園』に、私たち三人は行った。


     第4章  風光明媚なリゾート地

10月31日
那覇の快晴の中、タクシーで名護を目指して北上した・・。

周辺の情景を眺めていると、
東京の田舎者としては、沖縄の住民の方達には申し訳ないが、過酷な沖縄戦を忘れさせるかのような心持となった。

かりゆしビーチの付近のリゾート・ホテルに到着した。
『沖縄かりゆしビーチリゾート オーシャン スパ』であるが、
家内が中部観光には何かと利便性があり、大浴場もあり、6連泊滞在には最適と決めたホテルであった。

この後、『ブセナ海中公園』に行き、
空は青く、明るい陽射し、そしてさわやかな風を身体で受けると、
沖縄の風光明媚を心身感じ、リゾート気分を満喫できた。

遅い昼食を名護市の近くの『名護曲レストラン』で頂いたが、
素朴な沖縄料理を私達三人は、オリオンビールを呑みながら、色々と食べ比べをしたりした。

店内からは沖縄の名曲が流れていた・・。


   第5章 『あなたに』・・♪

店内に沖縄の名曲が流れ、私はひとつの歌に耳をかたむけた・・。

♪人にやさしくされた時 自分の小ささを知りました
 あなた疑う心恥じて 信じましょう心から

【『あなたに』 作詞・Kiyosaku Uezu】

沖縄地方出身のグループの【モンゴル800】の歌のひとつである。

私は沖縄の歌に関しては、『さとうきび畑』を最初に知り、
『芭蕉布』、『花』、『涙そうそう』を聴いている程度である。

モンゴル800の方達は、一ヶ月前頃に偶然テレビで、
沖縄列島の島々でコンサートしながら、南下する二時間のライブ版を観た。

私は齢を重ねた63歳の身であるので、好感できる若者である程度しか、
さほど印象には残らなかったが、
この名護の付近の素朴なレストランで聴いた時、少しふるえ、そしてなごみを感じながら、魅了された・・。


♪流れゆく日々その中で 変わりゆく物多すぎて
 揺るがないものただ一つ あなたへの思いは変わらない

【『あなたに』 作詞・Kiyosaku Uezu】


私はこの時以降、リゾート・ホテルの部屋のベランダで海を見つめながら、
或いは散策をしている時、鼻歌を唄ったり、心の中で唄ったりしている。


   第6章  『島らっきょう』は、美味のひとつ

家内が名護のお土産屋さんで購入したひとつに『島らっきょう』がある。
塩で浅漬けをしたもので、醤油が添付されていた。

エシャロットを細めにしたような形で、かじると歯ごたえがあり、口いっぱいに香りが広がる。
溜り醤油に付けても美味しいが、私は何も付けず、そのまま頂いた方が素朴な特有の香りがあり好きである。

私は北海道に訪れた時は、『行者にんにく』を頂き、
サッポロのクラシック・ビールを呑みながら誉(ほ)めている。

自宅の東京の郊外にいる日常は、
純米酒の辛口で、エシャロットに味噌を付けながら、賞味している。

今回の沖縄に滞在している時は、
泡盛の呑めない私として、せめてオリオン・ビールを呑みながら、
島らっきょうをたびたび頂こうとしている。

ウィスキー、ビールの友としては、最良のつけだし品かしら、と私は微笑んでいる。


   第7章  『美ら海(ちゅらうみ)桔梗(ききょう)』に魅了され

11月3日
私達3人は、『海洋博公園』に行き、
家内達は『美ら海水族館』やイルカを観に行くので、私は予定通り別れた。

私は日頃から中年女性のしぐさ、言葉が好きである上、
植物を愛するひとりとして、樹木、草花を観るので、園内の遊歩道を歩きはじめた・・。

国営沖縄記念公園の別称に相応しく、園内は小奇麗に整備がゆきとどいている。
いかにも沖縄の風土に適した樹木、草花が適度に配置されて折、
私の目を楽しませてくれた。

遊歩道の所々、海が目の前に観える展望台に行ったり、
或いは海岸の歩道を歩(あゆ)めば、険しい岩の崖に波が押し寄せている・・。

空は雲がわずかに浮かび、青一色で無限のような拡がり、
そして海は蒼く、果てることのないように彼方まで望み、風は爽やかに私の身体を通り過ぎていく・・。

このような光景を眺めたりしていると、
古来より沖縄の人々から、『美ら海(ちゅらうみ)』として慕われているのが、
私なりに理解ができた。

植物園に戻ると、つる植物園の中で、蔦(ツタ)のように緑色の葉が生い茂って折、
この中で数多くの薄紫色の花が、ひっそりと咲いていた。

私の住む東京の郊外では見かけることのできない花であり、
あえて表現すれば、アサガオの満開の花びらのようでも思え、
色合いは桔梗に似ているかしら、と感じたりしたのである。
いずれにしても、私のつたない感性であるが、
まぎれなく奥行きのあり品性がただよう、数少ない花のひとつである。

私は、この薄紫色の花を、
文化の日に伴い、秘かに『美ら海桔梗』と名付けた。

園内を辞する時、植物に詳しい係員の方から、
『その花は・・ベンガル・ヤハズ・カズラ・・と思いますよ・・』
と私に教えてくれた。

今回、本島を8泊9日で旅をしている身であるが、私はこの薄紫色の花に最も魅了され、
のちの想いとしても、深く私の心に残った花である。


     第8章  旅先で投稿するには

私はこのサイトで、10月31日~11月4日に於いて、
第1章から第7章まで投稿した場所は、りゾート・ホテルの一角からであった。

http://www.kariyushi.co.jp/beach/☆ 沖縄かりゆしビーチリゾート・オーシャンスパ  ☆

昨夜、沖縄本島から帰宅し、今こうして自宅で綴っているが、
滞在先のホテルのインフォーメション・センターと称された観光遊覧の相談所で投稿していた。

この相談所は20代の女性が3人いて、常時2名で対応している。
机上にはパソコン等があり、ある程度はお客様の相談事を笑顔で応じている。

このルームは15坪前後の広さがあり、
壁際にインターネットが対応されたパソコンが2台あった。
お客様自身が観光先などを検索されるのに設置されていると思われる。

私はこの中で1台を使わして貰い、ホテル内の滞在客の多い中、ときおり投稿したのであった。

この相談所の女性たちと、私は良くお話をした・・。

こぼれ話のひとつとしては、
モンゴル800の『あなたに』のことで、
『・・モンパチの『あなたに』に魅了され・・ベランダで鼻歌を唄ったり・・していますよ』
と私は云ったりしていた。

『好い歌ですよね・・私が中学3年の時・・大ヒットし・・私も大好きな歌のひとつです・・』
と微笑みながら答えてくれたりしていた。

私は齢を重ねた63歳のお客の身であるので、、
相手のお方は私よりは40歳以上確実にお若い20代の沖縄美人は、さりげなく応じてくれる。

この後、私は沖縄出身のモンパチの件で、お互いに微笑みながら話し合ったりしていた。

http://www.youtube.com/watch?v=G2mRUU8WI8w
【『あなたに』 作詞・Kiyosaku Uezu、作曲・モンゴル800】


   第9章  乙女たちのエメラルド・ビーチ

『海洋博公園』で私が散策した樹木、草花園のもう一方の反対側には、エメラルド・ビーチがある。

白いペンキの大きな休憩所が二つほど並びあり、
その先端には憩いの浜、眺めの浜、そして遊びの浜と称された浜は、
白い砂浜が拡がり、椰子(やし)の樹木、空の青さ、海は蒼く、彼方の海上は解けてしまうような光景である。

こうした中で、波が白い砂浜に押し寄せ、
数多くの白いサンデッキが並び、そして色鮮やかなパラソルがある・・。


今回の旅の初め頃から、首里の王陵、首里城、南部のひめゆりの塔、平和祈念公園、玉泉洞を私達3人は観て廻ったが、
幾つかの高校の修学旅行の生徒と出会ったりした。

タクシーのドライバーの方から教えて頂いた話であるが、
生徒たちの3、4人でタクシーで好きな場所を周遊するのが昨今の傾向となっている、とのこと。
事前に先生の了解を得て、各観光の周遊プランをタクシー・ドライバーと再調整しながら、
あちらこちらに観たりしているのが多い、と教えてくれた。


エメラルド・ビーチを私は散策していると、
高校生の女学生の4人は歓声をあげて、お互いに携帯電話で写真を撮ったりしていた・・。

『よかったら・・小父さん・・みんなの記念写真・・撮ってあげるよ・・』
と私は女学生のひとりに大声で云った・・。

ひとりの女学生が、もじもじと家内と同様の写ルンを取り出して、
『嬉しい・・小父さん・・お願い・・』
と私に簡易カメラを手渡した。

4人の女学生は、それぞれのポーズを取りながら、右手はVサインであり、
私は微苦笑しながら、シャッターを押した・・。

『小父さん・・有難うございました・・』
と2人の女学生が大声で云われ、私は照れた。

その後、4人の女学生は波打ち際に歩き出して行き、微風の吹く中、スカートの裾が揺れていた。

私は南国の白い砂浜と陽射しのまぶしさ、そして海の蒼さの光景は、
乙女たちの夢のひとつ、あこがれが、目の前に拡がっていることを了解できた。


 第10章  夕陽を眺める時は、バーボン・ウィスキー

リゾート・ホテルのベランダで簡素なテーブル、椅子があり、
6連泊の早朝、昼過ぎ、夜のひととき、深夜に海を眺めたりしていた。

雨の日もあれば、どんよりとした曇り、風の強い日もあり、或いは快晴に恵まれた日もあった。

日常生活の私は、日本酒の山形県の純米酒を呑み、ときにはビールを呑んでいる。

今回の沖縄本島の8泊9日は、
地酒の泡盛が呑めない私は、オリオン・ビールに徹し、夕陽の時にはバーボン・ウィスキーと秘かに希望していた。

那覇市内に於いては、泡盛ばかり目立つが、
肝心のバーボンは宿泊先の最寄のコンビニで小瓶の200mlを見つけ、
その横に大手の日本酒の辛口もあり、この二品を購入した。

リゾート・ホテルに於いては、
館内のコンビニでオリオン・ビールの350mlの6セットを何度も購入し、
ときには大手の味に欠ける日本酒を呑んだりしていた。

外出、館内の食事処の場合は、やはりオリオン・ビールとしていた。


5日目の時は、風もなく陽差し弱まりかけたベランダで、
海上の夕陽を眺めながら、私はバーボン・ウィスキーの小瓶の封を切った。

グラスに氷を五つばかり入れ、バーボンをそそぐだけのオンザ・ロックである。

私は南国のサンセットの情景には、バーボンのオンザ・ロックが相応しいと、
ここ20年ばかり夢をみていたのである。

濃厚な香り、むせかえる喉越しのバーボンを呑み、煙草を喫いながら、夕陽を眺めたりした。

至福のひととき、私は鼻歌を唄ったりした・・。


♪流れゆく日々その中で 変わりゆく物多すぎて
 揺るがないものただ一つ あなたへの思いは変わらない

【 モンゴル800の『あなたに』 作詞・Kiyosaku Uezu 】


私は3杯ほど呑むと陶然とし、
沖縄の復帰後の激動、リゾート観光地への変貌期の住民の労苦に思いを重ね、
胸が熱くなり、4杯目を注(つ)いだ・・。


   第11章 『またん めんそ~れ・・』

私達夫婦は、15年前頃に沖縄列島を観光周遊をした。
私が現役時代であったので、4泊5日でジャル・ツアーズの旅行会社を利用し、
JAL直営のホテルに宿泊した。

石垣島に連泊し、西表島の周辺の島々を周遊し、
本島に来て、恩納村のリゾート・ホテルに宿泊し中北部の観光を楽しみ、
首里のシティ・ホテルに宿泊した後、南部観光をしたりした。
観光周遊の移動としては、JALライナーのバスでホテルからホテルの間を観光周遊、オプションをまじえて、周遊した。


定年退職後の四年生の今は、
家内の母が『ひめゆりの塔を観てみたいわ・・』と、
娘の家内に話したことから、私達夫婦は高齢者の為のプランを設定した。

那覇のビジネス・ホテル『アパホテル那覇』に連泊し、南部観光をめぐり、
恩納村のリゾート・ホテル『沖縄かりゆしビーチリゾート オーシャン・スパ』に6連泊して、中北部の観光を周遊した。
今回は家内が殆ど選定し、東急の旅行会社を通して、予約した。

移動の交通は、初日に『ゆいレール』を那覇から首里に一度ばかり利用し、
最終日のリゾート・ホテルの各所から那覇空港へのリムジン・バス以外は、タクシーで移動した。

食事に関しては、朝食はホテルのバイキングの和・洋食を頂き、
昼食は出先の観光地で簡素なおにぎりなどを中心に、
夕食は日常住民の方たちが利用されている沖縄料理の食事処、居酒屋に、
滞在先から15キロ以内の処にタクシーで往復した。

私達3人は、それぞれ美味しそうと思われる料理を賞味し、
お互いに分け合って、夜のひとときを甘受した。

地魚の平アジの煮付け、地魚の刺身の盛り合わせ、刺身のニンニク刻み、
豚の豚足、耳の刻み、島ラッキョウ、ダイコンのわさび漬け、ヘチマ煮、
ヤシ蟹、マングローブ蟹(ガザミ)などが、私としては沖縄らしい味として賞味した。

最後の宿泊の夜には、ホテル館内の『かりゆし料理』に頂いたが、
上質でどなたでも賞味できる和食コースであった。

そして、家内達はトロピカル・カクテルのような
泡盛をベースに南国のフルーツ入りのカクテルを呑んだりしていた。
私はオリオン・ビールを呑みながら、
家内達に『またん めんそ~れ・・』
と笑いながら、云った・・。

家内と家内の母は小首を傾げたので、
『俺も観光先で見かけたのであるが・・
See you agan・・とペンキで書かれた看板があったよ・・
この中で、youというのが、ouになっているの・・おかしいなぁ、と思っていたら《y》が欠けていたの・・

いずれにしても、
ふたたび・・沖縄でお逢いしたいですね・・という意味だよね・・
こちらの沖縄の言葉だと・・またん めんそ~れ・・』
と説明したら、家内達は笑いころげたりした。


      最終章  昭和の初期に生を受けた人々は

家内の母は、昭和5年生まれで、3年前に死去した家内の父は昭和2年生まれである。

家内の父は、大学を繰り上げ卒業で召集され、
初年兵として仙台の郊外、浜松の郊外で軍事訓練に明け暮れ、
古参兵の洗礼を受けている中、敗戦時を向えた・・。

家内の母は、新潟県の高田の女学校の時代に、軍事工場の支援に強制従事させられた身である。

家内の母は、今回の沖縄の旅として、
特にひめゆりの塔、そして平和祈念公園の中で、
沖縄戦で亡くなれた新潟県の墓地に花をささげたい、という要望であった。


那覇に着いた翌朝、朝8時過ぎにタクシーで『ひめゆりの塔』を目指して、
最初は私の熱い思いの『ずゐせんの塔』に花をささげ、しばらく黙祷をした。

この後、徒歩5分の『ひめゆりの塔』に行き、
『ひめゆり平和祈念資料館』の中で私は別れ、独りで早めに庭に出て、
クファデーサーの樹木を探したり、
資料館の中で厚い一冊の本を買い求めたのをベンチで読んだりしていた。

1時間半前後して、家内達がベンチに座っている私の所に来た・・。
家内の母は、
『XXさん・・ご免なさい・・遅くなってしまって・・
ひめゆり学徒の方たち・・私と同じぐらい齢なの・・』
と私に云った。

私は家内の母の顔を見ると、目に涙を浮かべていた・・。


この後、タクシーで『平和祈念公園』に移動し、
私達3人は、無名者の墓地、新潟県の墓地に花をささげ、黙祷をした。

私は敗戦の一年前に生を受けた身で、戦争を知らないひとりである。
あくまで、親族から教えて貰ったり、教科書、歴史書、小説、随筆などの書物、
そして映画などで観る限りである。

つたない身の私は、戦時で亡くなわれた数多くの墓石、
平和の礎に無数の刻まれた戦死者名を見ると、言葉を失い、呆然と戦争の残酷さを痛感させられた。


昭和の初期に生を受けた人々は、余りにも若くして、戦いのさなかで亡くなわれた人、
特攻隊で散った人、戦地に向かう折、米軍の攻撃で亡くなった方、
或いは沖縄の地上戦で戦死された方・・原爆、空襲で亡くなった住民の方、
それぞれの立場の人々が、戦争という旗の下で、命を落とされている。

そして、日本の各地で強制支援として、軍事工場、病院などで従事させられたりした・・。


平和祈念公園を辞する時、家内の母は私にぽっりと云った。
『私も・・ひとつ早く生まれていたら・・
戦地の病院などで行かされたかも知れないし・・どうなったか・・わからないわ・・

父さんも・・よく云ってた・・俺より・・たったひとつ齢の上ひと・・
多く戦死された・・と』

                               《終わり》



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東京郊外の田舎者、明日より小笠原諸島の父島に・・。

2010-02-23 08:43:05 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
一昨日の21日に於いて、【東京から南下し、遥か彼方に無垢なる小笠原諸島があり・・。】と題して投稿した通り、
明日の24日から3月7日まで11泊12日で小笠原諸島の中のひとつの『父島』に滞在旅行をする。

私達夫婦は国内旅行が共通趣味であるが、未知の『父島』に訪ねることは、
昨年の9月が終る頃、家内が海上で遊泳している鯨(クジラ)を観てみたいわ、と私に云ったことが起因であった。

私達夫婦の島めぐりは、沖縄本島、石垣島などの諸島、伊豆の大島、新島、そして佐渡島ぐらいであり、
特に今回訪れる『父島』は東京都であるが、航空便がなく船便だけであり、都心から1000キロばかり南下した処にある。

ここ2週間ぐらいで、旅行の準備をしてきたが、私の住む地域よりほぼ10度を加算したぐらい気候なので、
衣服などに戸惑いながら、旅行の準備などをしてきた。

そして、私は旅先でも鼻歌を唄ったりしているので、小笠原諸島の『父島』にふさわしい歌は・・、
と思案したりしている。

いずれにしても東京郊外の田舎者が家内を伴って滞在するのであるが、
果たして石を投げられで追われる身となるか、
或いは呑兵衛の私が少しばかり貢献し、歓迎されるかは、私の言動にかかっている、
ことは明記するまでもないことである。

このようにぼんやりと思ったりしてきたが、
同じような南洋の位置にある沖縄本島、或いは伊豆の新島の旅行したことを読み返したりしている。

次回は、沖縄本島、そして伊豆の新島の滞在記を再掲載をする。




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