夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

東京の郊外は、きまぐれな三寒四温(さんかんしおん)を迎え・・!?

2010-02-10 17:36:30 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨日は朝の6時は3度の暖かな朝を迎え、昼下がりは19度の4月中旬のような陽気となり、
私は買物、散策をしていると冬のスポーツシャツにスリーシーズンのフィールド・ジャケットを着ていたら、
熱く感じて、思わずフィールド・ジャケットを脱いだりした。
そして夜の6時でも15度で、夜半の雨も降らず、朝のひとときだけ暖房する稀(まれ)な一日となった。

そして、今朝の6時も10度ばかりあり、暖かく戸惑ったりした。
しかし、曇り空で昼下がりは9度ばかり、夜の6時過ぎには7度前後が予測され、
おかしな一日となる。

明日の11日は朝の6時過ぎは3度前後で午前中は曇り空となり、
昼下がりは4度前後、夜の6時は5度前後が予測され、
午後より小雨が降りはじめて、翌日の午前中まで降る、と報じられている。

何より驚いたのは、翌日の12日の午前中の小雨であるが、処によりと雪が降る、
と雪だるまのマークが微笑んでいるのである・・。

古来より、この時節は三寒四温と称して、寒い日が三日ほど続くと、
その後は四日ほど温暖な日が続き、また寒くなる7日周期で寒暖が繰り返されるが、
私の住む地域は、天上の気候の神々はこの鉄則を無視して、
きまぐれな采配をされる、と私は急激な天候にため息をしている。

やむえず私は、程々になだらかに三寒四温の時節を過ごせますように、
と私は空を見つめながら祈願している。



href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふたたび、私なりの歴代の洋画のベストテンは・・。

2010-02-10 12:53:10 | 映画・テレビ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
一昨日の8日に、W.ワイラーの『ローマの休日』をテレビで視聴したのであるが、
この映画に喚起させられ、
昨日に【恥ずかしながら、初めてW.ワイラーの『ローマの休日』を視聴し・・。】、
その後【W.ワイラーの『ローマの休日』、なぜ日本では評価が高いのか・・!?】をこのサイトに於いて、投稿してきた・・。

そして、この中の一部として、
【・・
私は小学生の頃から映画が好きで、洋画だけでも少なくとも6000作品は鑑賞しているが、
あえて、『ローマの休日』は避けていたのである・・。
・・(略)・・
しかし映画の作品の評価としては、私の今まで観た洋画の中では、
1000位にもならない作品である。
・・】

このように広言したのであるが、それだったならば私の洋画を観賞した中で、
最良の作品はどうなのよ、と問われる前に、
私なりの歴代のベストテンを公開する義務があるので、あるサイトに掲載したことがあるが、
あえて再掲載をする。

【 私なりの歴代の洋画のベストテンは・・。 】

映画専門雑誌の『キネマ旬報』による映画人が選んだオールタイム・ベスト100の外国映画編に対応し、
私なりに選定した。

『キネマ旬報』のベストテン《参考》1999年10上旬特別号

①『第三の男』キャロル・リード監督 (1949年)

②『2001年宇宙の旅』スタンリー・キューブリック 監督(1968年)

③『ローマの休日』ウィリアム・ワイラー監督 (1953年)

④『アラビアのロレンス』 デイヴィッド・リーン監督(1962年)

⑤『風と共に去りぬ』ヴィクター・フレミング監督(1939年)

⑥『市民ケーン』オーソン・ウェルズ監督(1941年)

⑦『駅馬車』ジョン・フォード監督(1939年)

⑦『禁じられた遊び』ルネ・クレマン監督(1952年)

⑦『ゴットファーザー(三部作)』フランシス・F・コツポラ監督(1972・1974・1990年)

⑦『道』フェデリコ・フェリーニ監督(1954年)

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

私の選定は、

①『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』セルジオ・レオーネ監督(1984年)

②『ディア・ハンター』マイケル・チミノ監督(1979年)

③『イングリュシュ・ペイシェント』アンソニー・ミンゲラ監督(1979年)

④『ピアノ・レッスン』ジェーン・カンピオン監督(1993年)

⑤『かくも長き不在』アンリ・コルピ監督(1961年)

⑥『街の灯』チャールズ・チャップリン監督(1931年)

⑦『ゴットファーザー(三部作)』フランシス・F・コツポラ監督(1972・1974・1990年)

⑧『自転車泥棒』ヴィットリオ・デ・シーカ監督(1948年)

⑨『ジョニーは戦場へ行った』ドルトン・トランボ監督(1973年)

⑩『逢びき』 デイヴィッド・リーン監督(1945年)

数多(あまた)の感動をもたらしてくれた作品の中より選定するのが、酷な作業でした・・。

『時』が人生にもたらす影響をヒントに選定しましたが、上記のいずれがベストワンになっても良い作品です。

尚、選定の際に於いて、
『第三の男』キャロル・リード監督 (1949年)、
『市民ケーン』オーソン・ウェルズ監督(1941年)、
『アラビアのロレンス』 デイヴィッド・リーン監督(1962年)、
『許されざる』クリント・イーストウッド監督(1992年)
『カサブランカ』マイケル・カーチス監督(1943年)等は最後まで検討した作品です。

《1999年9月29日、私の日記より》

小説、映画、音楽などの選定の結果、その人の性格、人格、思想までを表わす、
と改めて思った次第です。


このように投稿しているが、ここ10年の公開された作品は殆ど観賞しておらず、
1999年9月29日に書き込んだ上記のベストテンの改定はなく、
その人の情念、深淵まで描いた作品が好みかしら、と私は微苦笑している。


尚、私が中学を卒業する1960(昭和35)年の3月までには、
『大いなる西部』ウィリアム・ワイラー監督 (1958年)に感動しながらも、
ジーン・シモンズに魅了され、こうした女(ひと)と結婚できたらと夢を見た純粋無垢な少年であったことを付記しておく。



href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

W.ワイラーの『ローマの休日』、なぜ日本では評価が高いのか・・!?

2010-02-10 00:09:03 | 映画・テレビ
私は遅ればせなから、W.ワイラーの『ローマの休日』の映画を観た、
と前記のこのサイトで【恥ずかしながら、初めてW.ワイラーの『ローマの休日』を視聴し・・。】と題して投稿した。

この中に於いて、
【・・
日本の映画好きな著名人の歴代洋画作品に於いて、
ベストテンの上位に『ローマの休日』が選定されることが多く、
私はおとぎ話のような作品が選ばれるのは、程度の低い人たちと思っていたのである。
・・】
このように私は広言したが、私は映画をテレビで観終わった後、考え込んだのである。


この映画が日本で公開されたのは1954(昭和29)年であり、
この当時の日本の多くの人は、娯楽はテレビはもとよりなく、ラジオ、映画などが主役であった。
大手の新聞の映画の広告欄は現代より多く、上映されている作品が映画館別の一覧表も常設され、
映画の作品批評、紹介欄もあったのである。

映画専門の評論家、そして新聞社の芸能全般の記者も折、
各映画会社は試写会などでこのような専門家を招き、少しでも良い批評、紹介を書いて頂くのもひとつの宣伝の業務であった、
と感じたりしている。

そして、この『ローマの休日』の場合は、もとよりある王女と新聞記者のコメディ・ラブロマスであり、
特に新聞社の記者たちは何らかの親近感があったろうし、
この映画を観た結果、記者になりたて新聞社に入社を志望された方もいる、
と私は何かの雑誌で読んだ記憶がある。

このような上映公開前の好評も得た上、日本の興行も大成功であった。
この年の興行の外国映画の上位には、
①『ローマの休日』     配給 2億8404万円
②『砂漠は生きている』  配給 2億2107万円
③『グレン・ミラー物語』  配給 1億8202万円
であった。
②の『砂漠は生きている』は、私は小学生で学校として3年生以上ほぼ全員が映画館に行って観たので、
個人の動員数の視点から、『ローマの休日』は突出した首位とでいえよう。

もとより上映されてから、オードリー・ヘップバーンの魅力とローマの情景に話題を重ねた結果が主因と想像する。

その後のオードリー・ヘップバーンも映画主演のたびに、
これまでのアメリカ女優にないファニー・フェイスとして、確固たる存在感を示した上、
衣服などを含めたトータル・ファションまで数多くの人たちに魅了させ、影響をもたらした稀な女優となった。


そして幾10数年過ぎた時、歴代の洋画作品を選定する時、
それぞれの観客者はオードリーの原点である鮮烈な『ローマの休日』に思い浮かべ、
自身の過ぎ去った軌跡に思いを重ねて、この作品を選ばれたのだろう。


このようなことを私は深夜に深く思ったりしたのである。

そして、偶然であるが、猪木武徳・著の『戦後世界経済史 ~自由と平等の視点から~』(中公新書) を読んでいた時、
この『ローマの休日』の作品の製作資金などのことを教示されたのである。

戦後、アメリカは疲弊した西ヨーロッパの諸国を救済するひとつとしてマーシャル・プランは多くの方に知られた通りであるが、
《・・
マーシャル・プランはこの他にも、「技術援助プログラム」としてヨーロッパの技師や経営者を米国に招き、
米国の産業事情を直接観察してもらうというプロジェクトを実施した。

また、米国の映画産業に関しても興味深いエピソードがある。
マーシャル・プラン以前は、米国政府の政治的な力で、
経済的な援助の代わりに(フランスの映画産業には迷惑なことだが)アメリカ映画を上映するというよう政策を採っていた。

しかし、マーシャル・プラン以降50年代に入ると、
米国の映画産業は国内ではテレビの普及に押されて、次第に興行成績が低下し始める。

テレビに対抗するために大型スクリーンが導入され、独立プロの時代に入った。
独立プロの映画製作資金は、メジャー各社が海外に持つ「凍結ドル」であった。

これはマーシャル・プランによって米国では使えないドルである。
名画『ローマの休日』はパラマントがこの「凍結ドル」を利用して作った映画なのである。
オープニングの字幕に、
「この映画はすべてイタリア・ローマで撮影され、録音された」
と大きく出てくるのはそのことを示すためである。
・・》
引用:68ページ
注)原文にあえて改行をした。

このような製作資金の秘話があるが、こうした制約の基で、
W.ワイラーは製作と監督の立場で、名作『ローマの休日』を完成させ、
多くの功績を残したことには、作品の優劣に関わらず、私は思わず脱帽したのである。




href="http://www.blogmura.com/">ブログランキング・にほんブログ村へ




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする