夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

お地蔵(じぞう)さま、わが心のふるさとの原景を思い馳せながら、心を寄せて・・。

2012-02-23 11:03:03 | 定年後の思い
今朝、ぼんやりと古い暦(こよみ)を見ていたら、
毎月の24日は、『地蔵の縁日』と明記されていた・・。

私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の67歳の身であるが、
近所を散策したりすると、稲荷神社を見かけ、入り口の近くにお地蔵さまを見かけたり、
道しるべとして、お地蔵さまを見ることがある。。

こうした時、私は立ち止まり何気なくに手を合わせて、黙礼をしてしまう。
或いは、ときおり国内の各地を訪れた時、多くのお地蔵さまを見かけたり、
道祖神を見たり、或いは賽の河原に幾たびかで手を合わせてきた。

このような心情の私は、年金生活を始めた7年前の頃、
恥ずかしながら『お地蔵(じぞう)さん』について、こっそりと由来などを調べたりしたことがあった。

知識人の藤野邦夫(ふじの・のりお)氏の『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)が、
私にとって一番解りやすく、明確に述べられ、私は微笑んだりしたりしていた。

無断であるが、引用させて頂く。

《・・
お地蔵さんとは、正しくは『地蔵菩薩』のことであり、
『地蔵』とは【大地を母胎とするもの】という意味の古代インドのサンスクリット語『クシティ・ガルバ』に由来する。
また『菩薩』とは、最高の悟(さと)りを開いた仏になろうと修行している女性のことで、
地蔵の場合は、仏につぐ高い地位にある存在とされている。

つまり、お地蔵さんは生命を生みだして育てる大地のような菩薩であり、
日本に地蔵信仰が導入されたのは、はるか奈良時代(8世紀)のことだった。

しかし、広く庶民の間に地蔵信仰が広がって、民間信仰となったのは、
平安時代(9~12世紀)から中世(13~15世紀)にかけてのこと。
それに反映して、日本には100種類以上の地蔵がある。

出産と子育てだけでみても『子育て地蔵』『子安地蔵』『夜泣き地蔵』『乳もらい地蔵』があり、
このほか『いぼとり地蔵』『とげぬき地蔵』『雨降り地蔵』や、
農村部にある『田植え地蔵』などが知られている。

道端や橋のたもとに、今も残る石の地蔵をみると、
かっての日本人にとって、いかに苦しみを救ってくれる存在だったかが解かる。
・・》

このように解説を読んだ私は、確か1955〈昭和30〉年の頃まで、
日本の各地では、日々の生活に貧困と飢えあえいでいた多くの人々がいた。
日照りの時は雨乞い、わが乳児が無事に育つような願いなどを託して、
心の救済として、その地なりにお地蔵さんが祭られただろう、
と思いをめぐりあわせた・・。


遥か遠い昔の60年前の頃、私は地元の小学校に入学したのは昭和26(1951)年の春であり、
この当時は祖父と父が中心となり、程々の広さの田畑を耕し
多忙期には小作人だった人たちの助けも借り、農業を営(いとな)んでいた。

敗戦の1945〈昭和20〉年の後、まもなくして農地改革で田畑は減少したが、
幼児の私には、それなりの田んぼの一角に湧き水があり、田んぼの中に小川がながれ、
蓮(ハス)専用の田んぼもあり、、
池もあり、防空壕などの数多くの情景が鮮明に残っている・・。

通学を始めた私は、駅までの15分ばかりの町道を歩いたり、
旧家の宅地の外れの小路、或いはあぜ道のような畑の小道の角地で、
ときおり『お地蔵(じぞう)さま』を見たりしていた。

どうしてこのような所にあるの、と思いながら、
お地蔵さまの像を洗い清められ、お地蔵の像に赤、白色の前垂れが着せられ、
お地蔵さまの足元の近くに、数々の里花が飾られていた。

その後、父が病死し、まもなく祖父も死去したので、
私の生家は衰退し、貧乏な生活も余儀なくされたが、今でも私の心の片隅には、
このような情景が残っている。


私が旅先で今でも鮮烈に心の片隅みに残っているのは、
2006〈平成18〉年の12下旬に長野県の白馬村に滞在旅行をしていた時であった。

前日の二日間は小雪が降っている中、私たち夫婦は散策したりしたが、
当日が、冬晴れとなり、暖かな陽射しを受け、冬枯れの田んぼが広がり、のどかな景観となった。
山峰の中腹まで雪の白さが陽射しを受けているので、
まばゆい情景となっている・・。

田んぼのあぜ道の脇に小川が活きよいよく流れ、
水の豊富な地域だと実感できたりした。

村道に出ると、雑木林があり、その外れに道祖神があった。
人の訪れもなく、歳月を見守っているようにも感じられ、
柔らかな冬の陽射しを受けていた。

私の日常の年金生活は、ともすれば身過ぎ世過ぎの生活実感なので、
こうした道祖神に心を寄せ、浄化を求めたりした。

やすらぎ・・使い古るされた言葉であるが、
このような周辺の情景を見つめると、
齢ばかり重ねた私は、それなりに深く心に沁みてくる。

人それぞれ、旅先の思いはさまざまであるが、
私は何気ないこうした光景がまぎれもなく心に残っている。

飢餓がなくなったと称せられる現在、
お地蔵さんは日本人から少しづつ忘れていくのだろうか、
と帰路のあぜ道を歩きながら私は思ったりした。

このようなことを思い馳せたし、後年に旅先で賽の河原で見た時、
小さなお地蔵の像の前垂れの赤は女の子、白は男の子だった、と私は学んだりした。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする