私は東京郊外の調布市の片隅みに住む67歳の身であるが、
いつものように夜の7時半過ぎに風呂から出た後、
パジャマを着た後、居間に戻った。
そして家内が入浴するので、ぼんやりと私はガウンを羽織った後、
居間にあるラジオのスイッチを何気なしに入れた・・。
そしてラジオからは、暖かな南国のように空気につつまれて、
ひとつの歌が流れてきた・・。
♪流れゆく日々その中で 変わりゆく物多すぎて
揺るがないものただ一つ あなたへの思いは変わらない
【モンゴル800『あなたに』 作詞・Kiyosaku Uezu、作曲 ・MONGOL800 、唄・モンゴル800 】
モンパチ(モンゴル800の略称)の『あなたに』の歌だ、
と私は心の中で呟(つぶや)き、しばらく聴き入った・・。
そして私はモンゴル800の『あなたに』の歌を心の中で唄いながら、
この歌を初めて唄った頃のことを思いだし、独り微笑みを重ねたりした。
過ぎし2007〈平成19〉年の夏が過ぎた頃の夜、
家内は独り住まいの家内の母と定例的な電話連絡を終えた後、
『お母さん・・死ぬまでに一度は沖縄の《ひめゆり塔》を参拝したいって・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言った。
『やはりお義母(かあさん)さんは・・昭和5年生まれだったし、
戦時中は(新潟県)高田の女学校で、軍事工場の支援に強制従事させられた、
と聞いたことがあったし・・』
と私は家内に言ったりした。
『そうなのよねぇ・・何か平和祈念公園の中で、
沖縄戦で亡くなれた新潟県の墓地に花をささげたい、言っていたし・・』
と家内は私に言ったりした。
この頃の私たち夫婦は、私が定年退職する直前の2004〈平成16〉年の秋、
家内の父は病死した後、
独り住まいとなった家内の母を誘い、幾たびか温泉滞在旅行を重ねたり、
家内の母の要望で、飛行機に初めて乗って、初めての北海道の旅を叶(かな)えさせたりしてきた。
『お義母(かあさん)さんの・・死ぬまでに一度は・・
俺たちにとっては、何よりも弱い言葉だし・・』
と私は微苦笑しながら家内に言ったりした。
結果的には、この年の2007年10月下旬から、私たち夫婦が高齢者の家内の体調を配慮して、
沖縄本島の一部を8泊9日で訪れた。
私の沖縄に関しての思いは、1964(昭和39)年の秋に東京オリンピックが開催された時、
大学2年で中退し、映画、文学青年の真似事をしていた時、
中野好夫、新崎盛輝、両氏による共著の『沖縄問題二十年』(岩波新書)を読んだりした。
高校時代以来、時事に興味を抱き、
ベトナム問題と同様にまとまりつかない沖縄問題に思考が整理できず、
深く悩んでいた・・。
そしてこの本に出会ったのは、21歳の時だった。
若き私は感受性が豊かであったので、年長者の確かなアドバイスを頂いたようになり、
この言葉に導かれて、私は沖縄に対しての理論整然と見方として教示され、
基軸となったのである。
それ以降、社会人となり、やがて定年退職後の生活を送っている今でも、
沖縄、オキナワ・・ことばを読んだり聴くたびに、
何かしら今だに後ろめたい気持ちを引き摺(ず)っている。
私はこの一冊の本に寄り、安易な沖縄観光気分で訪れる避け、
この後30年後の50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、
更に思いを深めたりした・・。
そして今回の沖縄の旅する10日前の頃に、総合月刊誌の『文藝春秋』に於いて、
ノンフィクション作家の梯久美子(かけはし・くみこ)さんの寄稿文で、
主題が『美智子さまと昭和天皇』、副題は『沖縄の悲劇を胸に』と題され、
『ずゐせん学徒隊』のことを学び、多々教示を受けたりした。
私たち3人は、那覇市のビジネスホテル風の『アパホテル』に連泊した日中、
『ずゐせんの塔』に花をささげながら私は涙を浮かべて黙祷をしたり、
この後、『ひめゆりの塔』の資料館を見たりし、塔の前で花をささげて黙祷をしたりした。
そして、私は近くにあった大きなクファデーサーの樹の下で、煙草を喫いながら、
皇后陛下が詠まれた歌に思い浮かべたりした。
クファデーサーの苗木添ひ立つ
幾千の礎(いしじ)は重く死者の名を負(お)ふ
作者・皇后陛下
両陛下が終戦50年の慰霊の旅として沖縄に訪れた時、
『平和の礎(いしじ)』をご覧になった後、
皇后陛下は1995(平成七)年にひとつの歌を詠まれた・・。
この一句に導かれて、この樹木を知り、私なりに沖縄戦の過酷な戦場と思いを重ねた。
この後、『平和の礎』のある『平和祈念公園』に、私たち三人は行った。
那覇市に2日滞在した後、私たちは快晴の中、風光明媚なリゾート地 を目指して、
タクシーで北上した・・。
私は周辺の情景を眺めていると、沖縄の住民の方達には申し訳ないが、
過酷な沖縄戦を忘れさせるかのような心持となった。
やがて、かりゆしビーチの付近のリゾート・ホテルに到着した。
『沖縄かりゆしビーチリゾート オーシャン スパ』であるが、
家内が中部観光には何かと利便性があり、大浴場もあり、6連泊滞在には最適と決めたホテルであった。
この後、『ブセナ海中公園』に行き、
空は青く、明るい陽射し、そしてさわやかな風を身体で受けると、
沖縄の風光明媚を心身感じ、リゾート気分を満喫できた。
遅い昼食を名護市の近くの『名護曲レストラン』で頂いたが、
素朴な沖縄料理を私たち三人は、オリオンビールを呑みながら、色々と食べ比べをしたりした。
店内からは沖縄の名曲が流れていた・・。
そして、私はひとつの歌に耳をかたむけた・・。
♪人にやさしくされた時 自分の小ささを知りました
あなた疑う心恥じて 信じましょう心から
【モンゴル800『あなたに』 作詞・Kiyosaku Uezu、作曲 ・MONGOL800 、唄・モンゴル800 】
私は沖縄の歌に関しては、『さとうきび畑』を最初に知り、
『芭蕉布』、『花』、『涙そうそう』を聴いている程度であった。
たまたまモンゴル800の方達は、一ヶ月前頃に偶然テレビで、
沖縄列島の島々でコンサートしながら、南下する二時間のライブ版を観た。
この当時の私は齢ばかり重ねた63歳の身であったが、
好感できる若者である程度しか、さほど印象には残らなかったが、
この名護の付近の素朴なレストランで聴いた時、少しふるえ、そして和(なご)みを感じながら、
瞬時に魅了された・・。
私はこの時以降、リゾート・ホテルの部屋のベランダで海を見つめながら、
或いは散策をしている時、鼻歌を唄ったり、心の中で唄ったりしている。
♪流れゆく日々その中で 変わりゆく物多すぎて
揺るがないものただ一つ あなたへの思いは変わらない
【モンゴル800『あなたに』 作詞・Kiyosaku Uezu、作曲 ・MONGOL800 、唄・モンゴル800 】
その後、11月3日に私たち3人は、『海洋博公園』に行き、
家内達は『美ら海水族館』やイルカを観に行くので、私は予定通り別れた。
私は日頃から中年女性のしぐさ、言葉に魅了されることがあるが、
植物も愛するひとりとして、樹木、草花を観るので、園内の遊歩道を歩きはじめた・・。
国営沖縄記念公園の別称に相応しく、園内は小奇麗に整備がゆきとどいている。
いかにも沖縄の風土に適した樹木、草花が適度に配置されて折、
私の目を楽しませてくれた。
遊歩道の所々、海が目の前に観える展望台に行ったり、
或いは海岸の歩道を歩(あゆ)めば、険しい岩の崖に波が押し寄せている・・。
空は雲がわずかに浮かび、青一色で無限のような拡がり、
そして海は蒼く、果てることのないように彼方まで望み、風は爽やかに私の身体を通り過ぎていく・・。
このような光景を眺めたりしていると、
古来より沖縄の人々から、『美ら海(ちゅらうみ)』として慕われているのが、
私なりに理解ができた。
植物園に戻ると、つる植物園の中で、蔦(ツタ)のように緑色の葉が生い茂って折、
この中で数多くの薄紫色の花が、ひっそりと咲いていた。
私の住む東京の郊外では見かけることのできない花であり、
あえて表現すれば、アサガオの満開の花びらのようでも思え、
色合いは桔梗に似ているかしら、と感じたりしたのである。
いずれにしても、私のつたない感性であるが、
まぎれなく奥行きのあり品性がただよう、数少ない花のひとつである。
私は、この薄紫色の花を、
文化の日に伴い、秘かに『美ら海桔梗』と名付けた。
園内を辞する時、植物に詳しい係員の方から、
『その花は・・ベンガル・ヤハズ・カズラ・・と思いますよ・・』
と私に教えてくれた。
今回、本島を8泊9日で旅をしている身であるが、私はこの薄紫色の花に最も魅了され、
のちの想いとしても、深く私の心に残った花である。
滞在先のホテルのインフォーメション・センターと称された観光遊覧の相談所で、
ときおりブログ投稿していた。
この相談所は20代の女性が3人いて、常時2名で対応している。
机上にはパソコン等があり、ある程度はお客様の相談事を笑顔で応じている。
このルームは15坪前後の広さがあり、
壁際にインターネットが対応されたパソコンが2台あった。
お客様自身が観光先などを検索されるのに設置されていると思われる。
私はこの中で1台を使わして貰い、ホテル内の滞在客の多い中、ときおり投稿したのであった。
この相談所の女性たちと、私は幾たびか談笑を重ねたりした・・。
こぼれ話のひとつとしては、モンゴル800の『あなたに』のことで、
『・・モンパチの『あなたに』に魅了され・・ベランダで鼻歌を唄ったり・・していますよ』
と私は言ったりしていた。
『好い歌ですよね・・私が中学3年の時・・大ヒットし・・私も大好きな歌のひとつです・・』
と微笑みながら答えてくれたりしていた。
私は齢を重ねた63歳のお客の身であるので、、
相手のお方は私よりは40歳以上確実にお若い20代の沖縄美人は、さりげなく応じてくれる。
この後、私は沖縄出身のモンパチの件で、お互いに微笑みながら話し合ったりしていた。
たまたま今宵は、ラジオから偶然にモンゴル800の『あなたに』の歌を聴き、
このような過ぎし沖縄の旅を思い重ねて、
私はモンパチの『あなたに』を小声で唄ったりしたのが、夜の8時少し前であった。
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いつものように夜の7時半過ぎに風呂から出た後、
パジャマを着た後、居間に戻った。
そして家内が入浴するので、ぼんやりと私はガウンを羽織った後、
居間にあるラジオのスイッチを何気なしに入れた・・。
そしてラジオからは、暖かな南国のように空気につつまれて、
ひとつの歌が流れてきた・・。
♪流れゆく日々その中で 変わりゆく物多すぎて
揺るがないものただ一つ あなたへの思いは変わらない
【モンゴル800『あなたに』 作詞・Kiyosaku Uezu、作曲 ・MONGOL800 、唄・モンゴル800 】
モンパチ(モンゴル800の略称)の『あなたに』の歌だ、
と私は心の中で呟(つぶや)き、しばらく聴き入った・・。
そして私はモンゴル800の『あなたに』の歌を心の中で唄いながら、
この歌を初めて唄った頃のことを思いだし、独り微笑みを重ねたりした。
過ぎし2007〈平成19〉年の夏が過ぎた頃の夜、
家内は独り住まいの家内の母と定例的な電話連絡を終えた後、
『お母さん・・死ぬまでに一度は沖縄の《ひめゆり塔》を参拝したいって・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言った。
『やはりお義母(かあさん)さんは・・昭和5年生まれだったし、
戦時中は(新潟県)高田の女学校で、軍事工場の支援に強制従事させられた、
と聞いたことがあったし・・』
と私は家内に言ったりした。
『そうなのよねぇ・・何か平和祈念公園の中で、
沖縄戦で亡くなれた新潟県の墓地に花をささげたい、言っていたし・・』
と家内は私に言ったりした。
この頃の私たち夫婦は、私が定年退職する直前の2004〈平成16〉年の秋、
家内の父は病死した後、
独り住まいとなった家内の母を誘い、幾たびか温泉滞在旅行を重ねたり、
家内の母の要望で、飛行機に初めて乗って、初めての北海道の旅を叶(かな)えさせたりしてきた。
『お義母(かあさん)さんの・・死ぬまでに一度は・・
俺たちにとっては、何よりも弱い言葉だし・・』
と私は微苦笑しながら家内に言ったりした。
結果的には、この年の2007年10月下旬から、私たち夫婦が高齢者の家内の体調を配慮して、
沖縄本島の一部を8泊9日で訪れた。
私の沖縄に関しての思いは、1964(昭和39)年の秋に東京オリンピックが開催された時、
大学2年で中退し、映画、文学青年の真似事をしていた時、
中野好夫、新崎盛輝、両氏による共著の『沖縄問題二十年』(岩波新書)を読んだりした。
高校時代以来、時事に興味を抱き、
ベトナム問題と同様にまとまりつかない沖縄問題に思考が整理できず、
深く悩んでいた・・。
そしてこの本に出会ったのは、21歳の時だった。
若き私は感受性が豊かであったので、年長者の確かなアドバイスを頂いたようになり、
この言葉に導かれて、私は沖縄に対しての理論整然と見方として教示され、
基軸となったのである。
それ以降、社会人となり、やがて定年退職後の生活を送っている今でも、
沖縄、オキナワ・・ことばを読んだり聴くたびに、
何かしら今だに後ろめたい気持ちを引き摺(ず)っている。
私はこの一冊の本に寄り、安易な沖縄観光気分で訪れる避け、
この後30年後の50代に初めに、家内と共に初めて沖縄諸島の土を踏み、
更に思いを深めたりした・・。
そして今回の沖縄の旅する10日前の頃に、総合月刊誌の『文藝春秋』に於いて、
ノンフィクション作家の梯久美子(かけはし・くみこ)さんの寄稿文で、
主題が『美智子さまと昭和天皇』、副題は『沖縄の悲劇を胸に』と題され、
『ずゐせん学徒隊』のことを学び、多々教示を受けたりした。
私たち3人は、那覇市のビジネスホテル風の『アパホテル』に連泊した日中、
『ずゐせんの塔』に花をささげながら私は涙を浮かべて黙祷をしたり、
この後、『ひめゆりの塔』の資料館を見たりし、塔の前で花をささげて黙祷をしたりした。
そして、私は近くにあった大きなクファデーサーの樹の下で、煙草を喫いながら、
皇后陛下が詠まれた歌に思い浮かべたりした。
クファデーサーの苗木添ひ立つ
幾千の礎(いしじ)は重く死者の名を負(お)ふ
作者・皇后陛下
両陛下が終戦50年の慰霊の旅として沖縄に訪れた時、
『平和の礎(いしじ)』をご覧になった後、
皇后陛下は1995(平成七)年にひとつの歌を詠まれた・・。
この一句に導かれて、この樹木を知り、私なりに沖縄戦の過酷な戦場と思いを重ねた。
この後、『平和の礎』のある『平和祈念公園』に、私たち三人は行った。
那覇市に2日滞在した後、私たちは快晴の中、風光明媚なリゾート地 を目指して、
タクシーで北上した・・。
私は周辺の情景を眺めていると、沖縄の住民の方達には申し訳ないが、
過酷な沖縄戦を忘れさせるかのような心持となった。
やがて、かりゆしビーチの付近のリゾート・ホテルに到着した。
『沖縄かりゆしビーチリゾート オーシャン スパ』であるが、
家内が中部観光には何かと利便性があり、大浴場もあり、6連泊滞在には最適と決めたホテルであった。
この後、『ブセナ海中公園』に行き、
空は青く、明るい陽射し、そしてさわやかな風を身体で受けると、
沖縄の風光明媚を心身感じ、リゾート気分を満喫できた。
遅い昼食を名護市の近くの『名護曲レストラン』で頂いたが、
素朴な沖縄料理を私たち三人は、オリオンビールを呑みながら、色々と食べ比べをしたりした。
店内からは沖縄の名曲が流れていた・・。
そして、私はひとつの歌に耳をかたむけた・・。
♪人にやさしくされた時 自分の小ささを知りました
あなた疑う心恥じて 信じましょう心から
【モンゴル800『あなたに』 作詞・Kiyosaku Uezu、作曲 ・MONGOL800 、唄・モンゴル800 】
私は沖縄の歌に関しては、『さとうきび畑』を最初に知り、
『芭蕉布』、『花』、『涙そうそう』を聴いている程度であった。
たまたまモンゴル800の方達は、一ヶ月前頃に偶然テレビで、
沖縄列島の島々でコンサートしながら、南下する二時間のライブ版を観た。
この当時の私は齢ばかり重ねた63歳の身であったが、
好感できる若者である程度しか、さほど印象には残らなかったが、
この名護の付近の素朴なレストランで聴いた時、少しふるえ、そして和(なご)みを感じながら、
瞬時に魅了された・・。
私はこの時以降、リゾート・ホテルの部屋のベランダで海を見つめながら、
或いは散策をしている時、鼻歌を唄ったり、心の中で唄ったりしている。
♪流れゆく日々その中で 変わりゆく物多すぎて
揺るがないものただ一つ あなたへの思いは変わらない
【モンゴル800『あなたに』 作詞・Kiyosaku Uezu、作曲 ・MONGOL800 、唄・モンゴル800 】
その後、11月3日に私たち3人は、『海洋博公園』に行き、
家内達は『美ら海水族館』やイルカを観に行くので、私は予定通り別れた。
私は日頃から中年女性のしぐさ、言葉に魅了されることがあるが、
植物も愛するひとりとして、樹木、草花を観るので、園内の遊歩道を歩きはじめた・・。
国営沖縄記念公園の別称に相応しく、園内は小奇麗に整備がゆきとどいている。
いかにも沖縄の風土に適した樹木、草花が適度に配置されて折、
私の目を楽しませてくれた。
遊歩道の所々、海が目の前に観える展望台に行ったり、
或いは海岸の歩道を歩(あゆ)めば、険しい岩の崖に波が押し寄せている・・。
空は雲がわずかに浮かび、青一色で無限のような拡がり、
そして海は蒼く、果てることのないように彼方まで望み、風は爽やかに私の身体を通り過ぎていく・・。
このような光景を眺めたりしていると、
古来より沖縄の人々から、『美ら海(ちゅらうみ)』として慕われているのが、
私なりに理解ができた。
植物園に戻ると、つる植物園の中で、蔦(ツタ)のように緑色の葉が生い茂って折、
この中で数多くの薄紫色の花が、ひっそりと咲いていた。
私の住む東京の郊外では見かけることのできない花であり、
あえて表現すれば、アサガオの満開の花びらのようでも思え、
色合いは桔梗に似ているかしら、と感じたりしたのである。
いずれにしても、私のつたない感性であるが、
まぎれなく奥行きのあり品性がただよう、数少ない花のひとつである。
私は、この薄紫色の花を、
文化の日に伴い、秘かに『美ら海桔梗』と名付けた。
園内を辞する時、植物に詳しい係員の方から、
『その花は・・ベンガル・ヤハズ・カズラ・・と思いますよ・・』
と私に教えてくれた。
今回、本島を8泊9日で旅をしている身であるが、私はこの薄紫色の花に最も魅了され、
のちの想いとしても、深く私の心に残った花である。
滞在先のホテルのインフォーメション・センターと称された観光遊覧の相談所で、
ときおりブログ投稿していた。
この相談所は20代の女性が3人いて、常時2名で対応している。
机上にはパソコン等があり、ある程度はお客様の相談事を笑顔で応じている。
このルームは15坪前後の広さがあり、
壁際にインターネットが対応されたパソコンが2台あった。
お客様自身が観光先などを検索されるのに設置されていると思われる。
私はこの中で1台を使わして貰い、ホテル内の滞在客の多い中、ときおり投稿したのであった。
この相談所の女性たちと、私は幾たびか談笑を重ねたりした・・。
こぼれ話のひとつとしては、モンゴル800の『あなたに』のことで、
『・・モンパチの『あなたに』に魅了され・・ベランダで鼻歌を唄ったり・・していますよ』
と私は言ったりしていた。
『好い歌ですよね・・私が中学3年の時・・大ヒットし・・私も大好きな歌のひとつです・・』
と微笑みながら答えてくれたりしていた。
私は齢を重ねた63歳のお客の身であるので、、
相手のお方は私よりは40歳以上確実にお若い20代の沖縄美人は、さりげなく応じてくれる。
この後、私は沖縄出身のモンパチの件で、お互いに微笑みながら話し合ったりしていた。
たまたま今宵は、ラジオから偶然にモンゴル800の『あなたに』の歌を聴き、
このような過ぎし沖縄の旅を思い重ねて、
私はモンパチの『あなたに』を小声で唄ったりしたのが、夜の8時少し前であった。
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