夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

この冬の時節の昨年は、札幌に滞在して付近の名所を周遊【2012.1.28.~2.3.】 《3》

2013-01-21 15:46:47 | 旅のあれこれ
         第3章  北海道大学の構内を散策して

30日の朝、私たちは札幌の郊外のリゾートホテルの窓辺から、
          
積雪50センチの中、冬晴れのまばゆい街並みを眺めていたら、館内で休息日の予定を取りやめて、
          
             滞在しているホテルの正面口からの冬晴れの情景

午前中は初めて訪れる北海道大学の構内を散策、
午後は大倉山、藻岩〈もえい〉山の展望台から市内の街並みを一望したい、と予定を変更した。

突然に初めて北海道大学の構内を訪れる理由は、ふたつの私の秘めたることであった。
ひとつは、今の67歳の身としては、せんなきことであるが、
私が読書に目覚めたりは遅ればせながら高校一年からであり、せめて3年早く熱愛していたならば、
北海道大学、或いは京都大学で、文学部国文科に学んでいただろう、と自責の念があった。

もとより人生は誰しもやり直しはなく、
20代の前半に映画・文学青年の真似事をした私の体験時期に、
やりきれない後悔をしたことがあったのである。


残りのひとつは北海道大学の学生食堂を観てみたいことであった。
私の敬愛するシンガーソングライターの中島みゆきさんは、帯広の高校を卒業された後、
札幌の藤女子大学で文学部国文科を学ばれている。
確か高校時代の頃から、歌で自己表現を学ばれていた、と何かの本で私は読んでいた。

中島みゆきさんは1952年に生を受けられたのであるから、
藤女子大学で入学したのは1970年と推測する。
この当時の少し前は、大学の学園紛争時期であり、硝煙が残っていた頃でもある。

こうした時代に、近くにある北海道大学の学生と歌の勉学の交流をしていた、
と私は推測してしまう。
このことに関連して、読売新聞の2011年11月9日の夕刊に於いて、
中島みゆきさんは、インタビューに応えている。
《・・シンガー・ソングライター、そして人としての在り方に影響を与えたのは、
1970年代前半の学生時代の体験。
学生運動が挫折し、「先輩らが掲げた理想が矛盾し、内部分裂していった」
と、真剣な口調で振り返る。

「そうするとね。思想だけのために純粋に突っ走ることは、もはやできなかったんだよね。
しらけ世代なんて言われたけど、自分で考えたかったの。
そこからずうっと引っ張ってきて、今言えることは、愛でなら走るよ、
私はってことです」
・・》
こうしたインタビューされた記事が、私は読み、深く理解を重ねたので、
一度は大学で出入りがしやすい学生の食堂を見たかったのである。

私は1963年春に、東京の私立大学に入学して、
翌年の1964年の東京オリンピックが開催された秋に大学を中退し、
映画青年の真似事をした時代であった。
もとより学生運動の思想に無縁で、彼らを遠くから眺め、必死に名画を鑑賞したり、
読書に熱中し、原稿用紙に向っていた・・。

やがて映画、そして文学青年の真似事も挫折し、やむなくコンピュータの専門学校で一年ばかり学び、
1970年の春に、何とか大手の民間会社に中途入社した。

私たちは学生の食堂内の片隅で、私はコーヒーを飲みながら、
若き学生諸兄諸姉を見たり、食堂の建物を見たりし、
1970年・・40数年過ぎて、風化してしまった時の流れを受け止めたりした。

このようなことを思い馳せた後、家内と共に広大な構内の路を歩いた・・。
        
冬場れの中、雪道は殆ど除雪され、歩道は脇は50センチぐらいの積雪を見たり、
未知の各学部の建物を眺めたりした後、 地下鉄の南北線の『北12条』駅を目指して歩いた。

                              《つづく》

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この冬の時節の昨年は、札幌に滞在して付近の名所を周遊【2012.1.28.~2.3.】 《2》

2013-01-21 08:29:23 | 旅のあれこれ
         第2章  初めて支笏(しこつ)湖の『氷濤(ひょうとう)まつり』

私たちは札幌の郊外のリゾートホテルに滞在する間、
いつの日にか札幌市からほど近い支笏(しこつ)湖の訪れたいと念願していたので、
今回、この時節に冬の祭典のひとつ『千歳・支笏湖氷濤まつり』を観ようとした。

そして『氷濤まつり』の開催中、土日、祭日に限り、花火大会が行われる学び、
私たち夫婦は、北海道中央バスの定期観光周遊プランのひとつで、
『ライトアップ 支笏湖氷濤まつり』コースがあり、私たちは参加した。

札幌南口の駅前バスターミナルを観光バスは午後3時過ぎに出発し、そして街中を通り過ぎ、
高速の道央自動車の輪厚SAで少し休憩した後、
粉雪舞い降る雪ぐれの中、森林、山里を切り拓いた支笏湖スカイロードを走り抜けると、
やがて支笏湖の湖畔が観えたのが、5時過ぎであった。

そして私たち一行は、バスガイドさんに誘導されて、『支笏湖氷濤まつり』の会場に着いた。

まもなく暗い夜の湖畔の会場に、ライトアップされた数多くの氷像が、
淡き青い色合い、蒼い色、紫色、温かそうな淡いピンク色、オレンジ色もとより白き色合いが輝き、
多彩な色合いで林立していた。
        
会場は付近の道民の家族の人たち、若き男女の方たち、私たちのような観光客でにぎわい、
休憩所も熱気あふれていた。

家内は暖房のある休憩所で花火の揚がる時を待ちわび、
私は粉雪舞い降る会場で、高台の氷像の滑り台から、小学低学年の少女3人が歓声を上げながら、
滑り落ちてくる情景、
或いは小学高学年の少年が果敢に滑りおちてくる状況を微笑ましく観たりしていた・・。
そして道民と思われる愛らしい防寒着、防寒靴、帽子、手袋に見惚れたりしていた。

この情景を観ていた5歳ぐらいの少女が、
『ママ・・あたしも滑りたい・・』
と母親に懇願している状況をたまたま私は見たりし、思わず微笑みを頂いたりした。

この後、花火が打ち上げられ、多くの観衆は冬の夜空を彩(いろど)る情景に、
歓声を上げたり、ため息を重ねたりしていた。

こうした稀〈まれ〉な情感のひとときを過ごした後、私たち一行は7時過ぎ会場を後にした。

そし宿泊先のホテルに私たち夫婦は帰館したのは、夜の10時少し前となり、
そしてスパの大浴場に入浴した後、このホテルの食事処のひとつには屋台『ラーメン』があり、
ゴマ風味の効いた醤油味のチャーシュメンが美味で、私は家内に絶賛したりした。

                                《つづく》

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