私は東京郊外の調布市の片隅みに住む68歳の身であるが、
今朝5時半過ぎに目覚めて、玄関の軒下に下り立ったが日の出前の薄暗い朝を迎え、
少し寒いじゃないの、と心の中で呟くながら、早々と退散した。
その後、布団のぬくもりが恋しくなり、再び寝室の布団の中にもぐりこんで、
やがてまどろみながら、結果として二度寝してしまった。
目覚めると朝の7時半過ぎとなり、やがて煎茶を飲みながら、
居間の片隅みに飾っているカレンダーを見ると、
『小寒(しょうかん)』と明示され、思わず微苦笑をしたりしていた。
そして私は、『寒の入り』を迎えたのか、とぼんやりと思ったりした。
もとより本日の5日の『小寒(しょうかん)』となれば寒さの始まり、
そして寒中見舞いの便(たよ)り始まったりしながら、
1月20日には『大寒(だいかん)】となり、やがて2月4日の『立春(りっしゅん)』まで30日間を
1年で最も寒い時期を『寒の内』と古来より伝えられている。
この後、地元の天気情報を見たら、朝の6時はマイナス3度、昼下がりは5度前後、夜の6時は3度前後で、
朝より冬晴れとなりますが、午後3時過ぎより曇り、と明示されていた。
昨年の12月20日頃から寒気が襲来し、平年より数度寒い年末年始を迎えたが、
冬晴れの日が多く、ときおり北風が吹くと、私は寒いじゃないの、と感じたりしてきた。
しかし日本海沿いの多くの街は、寒気団が襲来し烈風の中で大雪が降る、ニュースを視聴したりすると、
関東地方の南部地域は恵まれている、と思ったりしてきた。
やがて私は、いつものように買物をして帰宅した後、
遠い昔の方が、私の住む地域でも寒かった、とぼんやりと思い馳せたりした・・。
私は1944〈昭和19〉年に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
この当時、祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
この地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
この当時は、徒歩15分ぐらいの京王線の最寄駅まで、
殆ど田畑が広がり、雑木林、竹林なども観られた田園風景であった。
私の幼年期は、毎年、冬の時節になると、雪が30センチ前後が数回降った。
1951〈昭和26〉年の春に私は地元の小学校に入学したが、
初めての冬に雪が降り、登校した時が想いだされる・・。
ゴムの長靴の中に、母か叔母の手助けで藁(わら)を敷き、赤くなった唐辛子を少し入れ、
番傘を差して、家を出た。
家、周辺は雪が降り積もり、空からは雪が絶えず舞い降り、ときおり風が吹き、
長靴は雪の中で埋もれてしまったので、30センチは越えていた、と思われる。
そして駅の最寄の小学校までの通いなれた通学路は、この時は無視し、
祖父、父の知人の畑も雪に埋もれていたので、この中を吹雪いていたが一直線で登校した。
小学校は木造の二階建てであり、教室の片隅にあった木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)があり、
この当時のこの地域の村立小学校に於いては、コークスはもとより、石炭も使用される前の時代であったので、
正方形の中心に簡易に造ったブリキの中で、炭を熾(おこ)してあるか、薪(まき)が燃やされていた。
私たち学童は、この木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)を囲みながら、衣服に雪がまといついたのを払いながら、
雪深く、吹雪いた中をよく無事に学校に着いたと、子供心にお互いに健闘し合ったりした。
そして、学級のクラスの中で10数人欠席したので、
あいつ、こんな雪で休むなんて・・と互いに悪口を言い合っていたりした。
下校のひととき、私も番傘でチャンバラの真似事をし、番傘の数箇所が破れ、帰宅後に母に怒られたりした。
このように毎年、冬の時節は、少なくとも数回は降り積もった。
その後、1955〈昭和30〉年の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957〈昭和32〉年であるが、この頃になるまでベットタウンの住宅街に大きく変貌した。
1964〈昭和39〉年に東京オリンピックが開催された時代になると、
数年に一回程度、15センチぐらいが降るが、この間は殆ど数センチ前後の小雪となっている。
こうした幼年、少年期を体験した私は、この時節の寒い時期を迎えると、心の奥底に雪恋しとなり、
私が40歳を過ぎた頃から、家内と共に毎年、この時節になると北の地域に旅行し、
雪の情景を享受してきている。
このように私たち夫婦は、国内旅行が共通の趣味のひとつであるが、
なぜかしら東京郊外の田舎者の私は、冬の時節になると北に旅をしてしまうのである。
たまたま一昨年の12月は、20日より北海道の帯広市の郊外にある十勝川温泉に2泊し、
そして未知の糠平〈ぬかひら〉温泉に2泊し訪れた。
私の心の奥底には、この十勝地方の帯広の冬のイメージは、
郊外の果てしなく拡がる大雪原の中、蒼穹(そうきゅう)の情景である。
厳冬の晴れ間の中、大地は凛とし、果てしなく青空が観えるのが、
蒼穹(そうきゅう)の言葉に何よりも相応しい、と思ったりしている。
私が今でも敬愛している亡き作家・立原正秋〈たちはら・まさあき〉氏の随筆から、
私が若き30代のなかばの昭和55年(1980年)10月の初旬に遅ればせながら
蒼穹(そうきゅう)という言葉を学んだ。
この中の随筆のひとつとして、知人が古美術店を開き、命名を頼まれ『蒼穹』と氏は名付けられた。
氏の発想の根源は、もとより氏は朝鮮半島で生を受けられたので、
大陸性の気候の中、冬の晴れ間の凛とした情景を思い浮かべて、
蒼穹(そうきゅう)という言葉を思い重ねただろう、と私なりに解釈した。
このような蒼穹(そうきゅう)の情景、そして中島みゆきさんが一時時期過ごされた地域を
私なりに少しでも学びたく、郊外を2時間ばかり歩いたりした。
この後は、いつに日か訪れることを夢にみていた山奥の糠平〈ぬかぴら〉温泉の厳冬地に行き、
やはり付近を散策した。
このようなささやかな初冬の旅をし、昨年の1月15日から3泊4日で、
福島県の裏磐梯の檜原湖の湖岸に近いリゾートホテルのひとつの『裏磐梯猫魔ホテル』に滞在して、
五色沼の遊歩道は少なくとも積雪は50センチ前後であり、不慣れな私たち夫婦は遊歩道か沼地か解らなく、
檜原湖の湖畔に近い雑木林、歩道を散策しょうと思ったのであった。

滞在しているホテルの私たちの部屋の窓辺から、氷結した檜原湖。

湖畔、雑木林、雪をいだいている山なみが観えたりした。
そして冬の積雪のある中を歩くので、登山靴などを含めた防寒着のセータ、スポーツシャツなどを
今回の旅も宅配便を利用して、このホテル宛に送っていた。
私は厚手の冬のフィールド・コートとマイナス15度ぐらいの耐久のマインドルの登山靴、
家内はマイナス30度に耐えられるアクの登山靴で、
靴下、長ズボン、スポーツ・シャツなども含めて、アウトドアの専門店の石井スポーツで買い求めたりしてきた。
そして帽子は、私は山岳用を愛用し、家内のはロシア婦人がかぶる様な形のを気にいっている。
このような容姿で私たち夫婦は、厳冬の中の雑木林の道、山里、そして街中を歩き廻ったりしてきた。
どんよりとした曇り空に変貌した中、ときおり粉雪が舞ふ中、
雑木林の片隅みの積雪は30センチぐらいの歩道を歩いたりした後、
その後は国道の歩道を除雪された10センチほどの雪道を10分ばかり歩いたりしていると、
土産店が数軒ならぶ湖岸に着いた。
そして店前から湖岸、そして氷結された湖上を少し歩いたが、
無念ながら氷結の厚さに不安を感じたりしたので、店前にスノー・モービルが置いてある店先に行った。
そして私はスノー・モービルに近寄り眺めていると、
50代ぐらいの男性が店内から現れて、
『よろしかったら・・このスノー・モービルで湖上めぐりしませんか』
と私たち夫婦に言った。
『私はスノー・モービルも運転したこともないし・・』
と私は50代ぐらいの男性に言った。
『若い店の人に運転はさせますので・・お客さん二人は後部座席に座っていれば・・
20分ぐらい湖上から湖畔や山なみを見物ができますょ』
と50代ぐらいの男性が明るく大きな声で私に言った。
そして店内の一面に手書きで、
《 スノーモービル氷上遊覧
氷結した桧原湖の上を、スノーモービルの後ろに乗って周遊します。
当店直営のわかさぎ釣りの見学をしたり、磐梯山をバックに写真撮影をしたりできます。
2名限定20分ほどの遊覧体験です。
開催期間・・・1月中旬~3月中旬.
時 間・・・9:00 ~ 15:00
料 金・・・1組2名:3,000円 》
確かこのような意味合いのことが記載されていた。
『XXちゃんさぁ・・ホテルでも確か同じようなこと18日から施行するポスターを見たりしたが・・
こちらのお店の方が早く実施しているし・・
私たちは幸運に恵まれているよねぇ・・』
と私は家内に言いながら、乗車に誘った。
そして若い25歳前後の感じの良い青年のドライバー兼案内人の基で、
私は初めて乗るスノーモービルの後部座席に座り、この後ろに家内が座り乗車した。

この間、家内は乗車記念に撮って、としぐさをしたので私は撮った一葉。
まもなく湖畔から氷結した湖上を疾走すると、私たちは小声で歓声を上げて、
前方のわかさぎ釣りの幾重かの小屋を観たり、湖畔の雑木林、遠方の山なみの情景を眺めたりした。
そして幾たびか青年のドライバー兼案内人は停車して、
私は周辺の情景をデジカメで撮ったり、スノーモービルの運転席に座った家内の記念写真を撮ったり、
或いはわかさぎ釣りをしている小屋に案内してもらったりした・・。
そして走破している湖上は氷結20センチと教示してもらったりし、
私たち夫婦は30分ぐらい案内して頂いた。
この後、店先に戻ると、
家内はコーヒーでも頂こうかしら、と言ったりした。
そして、展望の良い所の二階の食事処に私たちは移動した。
窓辺の席からは、氷結した湖上、雪の湖畔の雑木林、里山、そして遠望の幾重かの山脈の雪の情景を展望でき、
店内の客は私たちだけであり、
家内はコーヒー、私はわかさぎの天ぷら、地酒を注文した。
私は地酒の300mlの小瓶の生酒を呑みながら、わかさぎを頂き、
初めてスノーモービルに同乗でき、氷結した湖上からの周辺の情景を観ることが出来、
良かったよねぇ、と私は高揚しながら家内に言ったりした。
私は40代の初めの頃、スノーモービルに関しての本を、あこがれのような心情で買い求めたことがあった。
漠然として少年のようなあこがれであったが、いつの日にか里山の中を運転してみたい、
と気持ちであったりした。
その後、私は定年退職した2004(平成16)年の秋の後、
自動車の普通免許証の更新時を取りやめたので、もとより夢の世界となった。
たまたま今回、初めてスノーモービルに同乗できたので、
齢を重ねた67歳の私としては、これも人生の良き成り行きと微苦笑をしたりした。
このような旅路の思いが今でも心の片隅に残っていて、
その後も1月28日より6泊7日で札幌市の郊外のリゾートホテルに滞在して、
札幌市の周辺を行楽したりしたが、投稿文は長くなるので、今回は省略する。
尚、豪雪地域にお住いの人は、日常の生活に於いては多事苦難は少し解っているつもりであり、
江戸後期の商人、随筆家として、鈴木牧之が遺(のこ)された『北越雪譜』、
磯部定治・著の『鈴木牧之の生涯』(野島出版)を読んだりしてきたが、
あくまで旅人として、みゆき舞い降る圧倒的な情景、積雪の山里、街並みに魅了されているひとりの思いからである。
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今朝5時半過ぎに目覚めて、玄関の軒下に下り立ったが日の出前の薄暗い朝を迎え、
少し寒いじゃないの、と心の中で呟くながら、早々と退散した。
その後、布団のぬくもりが恋しくなり、再び寝室の布団の中にもぐりこんで、
やがてまどろみながら、結果として二度寝してしまった。
目覚めると朝の7時半過ぎとなり、やがて煎茶を飲みながら、
居間の片隅みに飾っているカレンダーを見ると、
『小寒(しょうかん)』と明示され、思わず微苦笑をしたりしていた。
そして私は、『寒の入り』を迎えたのか、とぼんやりと思ったりした。
もとより本日の5日の『小寒(しょうかん)』となれば寒さの始まり、
そして寒中見舞いの便(たよ)り始まったりしながら、
1月20日には『大寒(だいかん)】となり、やがて2月4日の『立春(りっしゅん)』まで30日間を
1年で最も寒い時期を『寒の内』と古来より伝えられている。
この後、地元の天気情報を見たら、朝の6時はマイナス3度、昼下がりは5度前後、夜の6時は3度前後で、
朝より冬晴れとなりますが、午後3時過ぎより曇り、と明示されていた。
昨年の12月20日頃から寒気が襲来し、平年より数度寒い年末年始を迎えたが、
冬晴れの日が多く、ときおり北風が吹くと、私は寒いじゃないの、と感じたりしてきた。
しかし日本海沿いの多くの街は、寒気団が襲来し烈風の中で大雪が降る、ニュースを視聴したりすると、
関東地方の南部地域は恵まれている、と思ったりしてきた。
やがて私は、いつものように買物をして帰宅した後、
遠い昔の方が、私の住む地域でも寒かった、とぼんやりと思い馳せたりした・・。
私は1944〈昭和19〉年に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
この当時、祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
この地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。
この当時は、徒歩15分ぐらいの京王線の最寄駅まで、
殆ど田畑が広がり、雑木林、竹林なども観られた田園風景であった。
私の幼年期は、毎年、冬の時節になると、雪が30センチ前後が数回降った。
1951〈昭和26〉年の春に私は地元の小学校に入学したが、
初めての冬に雪が降り、登校した時が想いだされる・・。
ゴムの長靴の中に、母か叔母の手助けで藁(わら)を敷き、赤くなった唐辛子を少し入れ、
番傘を差して、家を出た。
家、周辺は雪が降り積もり、空からは雪が絶えず舞い降り、ときおり風が吹き、
長靴は雪の中で埋もれてしまったので、30センチは越えていた、と思われる。
そして駅の最寄の小学校までの通いなれた通学路は、この時は無視し、
祖父、父の知人の畑も雪に埋もれていたので、この中を吹雪いていたが一直線で登校した。
小学校は木造の二階建てであり、教室の片隅にあった木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)があり、
この当時のこの地域の村立小学校に於いては、コークスはもとより、石炭も使用される前の時代であったので、
正方形の中心に簡易に造ったブリキの中で、炭を熾(おこ)してあるか、薪(まき)が燃やされていた。
私たち学童は、この木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)を囲みながら、衣服に雪がまといついたのを払いながら、
雪深く、吹雪いた中をよく無事に学校に着いたと、子供心にお互いに健闘し合ったりした。
そして、学級のクラスの中で10数人欠席したので、
あいつ、こんな雪で休むなんて・・と互いに悪口を言い合っていたりした。
下校のひととき、私も番傘でチャンバラの真似事をし、番傘の数箇所が破れ、帰宅後に母に怒られたりした。
このように毎年、冬の時節は、少なくとも数回は降り積もった。
その後、1955〈昭和30〉年の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957〈昭和32〉年であるが、この頃になるまでベットタウンの住宅街に大きく変貌した。
1964〈昭和39〉年に東京オリンピックが開催された時代になると、
数年に一回程度、15センチぐらいが降るが、この間は殆ど数センチ前後の小雪となっている。
こうした幼年、少年期を体験した私は、この時節の寒い時期を迎えると、心の奥底に雪恋しとなり、
私が40歳を過ぎた頃から、家内と共に毎年、この時節になると北の地域に旅行し、
雪の情景を享受してきている。
このように私たち夫婦は、国内旅行が共通の趣味のひとつであるが、
なぜかしら東京郊外の田舎者の私は、冬の時節になると北に旅をしてしまうのである。
たまたま一昨年の12月は、20日より北海道の帯広市の郊外にある十勝川温泉に2泊し、
そして未知の糠平〈ぬかひら〉温泉に2泊し訪れた。
私の心の奥底には、この十勝地方の帯広の冬のイメージは、
郊外の果てしなく拡がる大雪原の中、蒼穹(そうきゅう)の情景である。
厳冬の晴れ間の中、大地は凛とし、果てしなく青空が観えるのが、
蒼穹(そうきゅう)の言葉に何よりも相応しい、と思ったりしている。
私が今でも敬愛している亡き作家・立原正秋〈たちはら・まさあき〉氏の随筆から、
私が若き30代のなかばの昭和55年(1980年)10月の初旬に遅ればせながら
蒼穹(そうきゅう)という言葉を学んだ。
この中の随筆のひとつとして、知人が古美術店を開き、命名を頼まれ『蒼穹』と氏は名付けられた。
氏の発想の根源は、もとより氏は朝鮮半島で生を受けられたので、
大陸性の気候の中、冬の晴れ間の凛とした情景を思い浮かべて、
蒼穹(そうきゅう)という言葉を思い重ねただろう、と私なりに解釈した。
このような蒼穹(そうきゅう)の情景、そして中島みゆきさんが一時時期過ごされた地域を
私なりに少しでも学びたく、郊外を2時間ばかり歩いたりした。


この後は、いつに日か訪れることを夢にみていた山奥の糠平〈ぬかぴら〉温泉の厳冬地に行き、
やはり付近を散策した。


このようなささやかな初冬の旅をし、昨年の1月15日から3泊4日で、
福島県の裏磐梯の檜原湖の湖岸に近いリゾートホテルのひとつの『裏磐梯猫魔ホテル』に滞在して、
五色沼の遊歩道は少なくとも積雪は50センチ前後であり、不慣れな私たち夫婦は遊歩道か沼地か解らなく、
檜原湖の湖畔に近い雑木林、歩道を散策しょうと思ったのであった。


滞在しているホテルの私たちの部屋の窓辺から、氷結した檜原湖。


湖畔、雑木林、雪をいだいている山なみが観えたりした。
そして冬の積雪のある中を歩くので、登山靴などを含めた防寒着のセータ、スポーツシャツなどを
今回の旅も宅配便を利用して、このホテル宛に送っていた。
私は厚手の冬のフィールド・コートとマイナス15度ぐらいの耐久のマインドルの登山靴、
家内はマイナス30度に耐えられるアクの登山靴で、
靴下、長ズボン、スポーツ・シャツなども含めて、アウトドアの専門店の石井スポーツで買い求めたりしてきた。
そして帽子は、私は山岳用を愛用し、家内のはロシア婦人がかぶる様な形のを気にいっている。
このような容姿で私たち夫婦は、厳冬の中の雑木林の道、山里、そして街中を歩き廻ったりしてきた。
どんよりとした曇り空に変貌した中、ときおり粉雪が舞ふ中、
雑木林の片隅みの積雪は30センチぐらいの歩道を歩いたりした後、
その後は国道の歩道を除雪された10センチほどの雪道を10分ばかり歩いたりしていると、
土産店が数軒ならぶ湖岸に着いた。


そして店前から湖岸、そして氷結された湖上を少し歩いたが、
無念ながら氷結の厚さに不安を感じたりしたので、店前にスノー・モービルが置いてある店先に行った。
そして私はスノー・モービルに近寄り眺めていると、
50代ぐらいの男性が店内から現れて、
『よろしかったら・・このスノー・モービルで湖上めぐりしませんか』
と私たち夫婦に言った。
『私はスノー・モービルも運転したこともないし・・』
と私は50代ぐらいの男性に言った。
『若い店の人に運転はさせますので・・お客さん二人は後部座席に座っていれば・・
20分ぐらい湖上から湖畔や山なみを見物ができますょ』
と50代ぐらいの男性が明るく大きな声で私に言った。
そして店内の一面に手書きで、
《 スノーモービル氷上遊覧
氷結した桧原湖の上を、スノーモービルの後ろに乗って周遊します。
当店直営のわかさぎ釣りの見学をしたり、磐梯山をバックに写真撮影をしたりできます。
2名限定20分ほどの遊覧体験です。
開催期間・・・1月中旬~3月中旬.
時 間・・・9:00 ~ 15:00
料 金・・・1組2名:3,000円 》
確かこのような意味合いのことが記載されていた。
『XXちゃんさぁ・・ホテルでも確か同じようなこと18日から施行するポスターを見たりしたが・・
こちらのお店の方が早く実施しているし・・
私たちは幸運に恵まれているよねぇ・・』
と私は家内に言いながら、乗車に誘った。
そして若い25歳前後の感じの良い青年のドライバー兼案内人の基で、
私は初めて乗るスノーモービルの後部座席に座り、この後ろに家内が座り乗車した。

この間、家内は乗車記念に撮って、としぐさをしたので私は撮った一葉。
まもなく湖畔から氷結した湖上を疾走すると、私たちは小声で歓声を上げて、
前方のわかさぎ釣りの幾重かの小屋を観たり、湖畔の雑木林、遠方の山なみの情景を眺めたりした。
そして幾たびか青年のドライバー兼案内人は停車して、
私は周辺の情景をデジカメで撮ったり、スノーモービルの運転席に座った家内の記念写真を撮ったり、
或いはわかさぎ釣りをしている小屋に案内してもらったりした・・。

そして走破している湖上は氷結20センチと教示してもらったりし、
私たち夫婦は30分ぐらい案内して頂いた。
この後、店先に戻ると、
家内はコーヒーでも頂こうかしら、と言ったりした。
そして、展望の良い所の二階の食事処に私たちは移動した。
窓辺の席からは、氷結した湖上、雪の湖畔の雑木林、里山、そして遠望の幾重かの山脈の雪の情景を展望でき、
店内の客は私たちだけであり、
家内はコーヒー、私はわかさぎの天ぷら、地酒を注文した。
私は地酒の300mlの小瓶の生酒を呑みながら、わかさぎを頂き、
初めてスノーモービルに同乗でき、氷結した湖上からの周辺の情景を観ることが出来、
良かったよねぇ、と私は高揚しながら家内に言ったりした。
私は40代の初めの頃、スノーモービルに関しての本を、あこがれのような心情で買い求めたことがあった。
漠然として少年のようなあこがれであったが、いつの日にか里山の中を運転してみたい、
と気持ちであったりした。
その後、私は定年退職した2004(平成16)年の秋の後、
自動車の普通免許証の更新時を取りやめたので、もとより夢の世界となった。
たまたま今回、初めてスノーモービルに同乗できたので、
齢を重ねた67歳の私としては、これも人生の良き成り行きと微苦笑をしたりした。
このような旅路の思いが今でも心の片隅に残っていて、
その後も1月28日より6泊7日で札幌市の郊外のリゾートホテルに滞在して、
札幌市の周辺を行楽したりしたが、投稿文は長くなるので、今回は省略する。
尚、豪雪地域にお住いの人は、日常の生活に於いては多事苦難は少し解っているつもりであり、
江戸後期の商人、随筆家として、鈴木牧之が遺(のこ)された『北越雪譜』、
磯部定治・著の『鈴木牧之の生涯』(野島出版)を読んだりしてきたが、
あくまで旅人として、みゆき舞い降る圧倒的な情景、積雪の山里、街並みに魅了されているひとりの思いからである。
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