私は都心の郊外の調布市の片隅に住み年金生活をしている72歳の身であるが、
小雨降りしきる朝、いつもように配達された読売新聞の朝刊を読んだりした。
こうした中で、17面には新たな『ミドルらいふ』と特集が新設されて、
何かしら50歳前後の時代を著名人に語ってもらうコーナーで、勤め人なら、そろそろ先が見えてくる頃。
豊かな収穫期を迎えるためのヒントを探ります。
初回は、漫画家の弘兼憲史(ひろかね・けんし)さん(69歳)に、
ミドル時代が人生の後半戦のカギを握る理由や心得を聞く内容で、
社会保障部・小沼聖実さんが弘兼憲史さんにインタビューされて、纏(まと)められた記事であった。
私は青年期から漫画に興味は失くしてきたが、散髪屋(理容店)の待合室で、
弘兼憲史さんが創作された『島耕作』シリーズを長らく見かけたりした。
そして1947年、山口県生まれ、早稲田大卒業後、松下電器産業(現パナソニック)を3年で退社し、
翌年、漫画家デビューされて、漫画界で成功されて、やがて栄達された御方と知っているぐらいであった。
このような私でも、弘兼憲史さんが創作された漫画は読んだことがないが、
やはり人生の後半戦のカギを握る理由や心得を学びたく、記事を精読してしまった。
読売新聞45年以上、購読してきたよしみに甘え、記事を転記させて頂く。
《・・50歳代は、第二の人生のスタートを切るための準備期間だと、かねて言い続けてきました。
サラリーマンであれば、60歳で定年を迎え、突然、会社を離れた新しい人生が始まることが多い。
いま50歳の男性なら、平均余命は約32年。
定年を迎えてからも、22年あります。
有効に使えばじっくり味わえますが、無駄に過ごせばあっという間。
定年後もあわてないよう、第二の人生をどう生きたいか、早いうちに考え、その準備を始める必要があります。
では、どう生きるか。
会社では、50歳を過ぎてからも出世していく人は、一握りです。
大半の人は、「ここまでかな」という打ち止め感があるのではないでしょうか。
そこで、人と自分を比べても意味はありません。
仕事観や幸せの尺度は、人それぞれですし、仕事をやめれば、肩書も関係なくなります。
50歳からの人生は、自分自身のなかに「生き方のものさし」を持つことが大切なのです。
僕が大切にしてきた「ものさし」は、楽しさを追求すること。
会社員生活をやめたのも、「これは俺の仕事じゃない、やっぱり漫画を描きたい」と思ったからです。
昼過ぎから未明まで原稿を描き、4時間ほど眠り、午前中は近所のファミレスで漫画のアイデアを練る・・。
仕事のスタイルは、その頃からほとんど変わりません。
毎日、締め切りに追われて自転車をこぎ続け、気づけばここまで来たという感じ。
でも、振り返ればいつでも、人生の満足度は100%です。
それは、自分がおもしろいと思うことを続けてこられたからです。
40歳代頃から、テレビに出演したり、大学で講演したりと、漫画を通じて、仕事の幅が広がりました。
それはおもしろかったんですが、仕事が増えすぎて、本業を圧迫するようになってしまった。
僕にとって楽しいのは、やはり漫画を描くこと。
あるときから、テレビの仕事はすべて断るようにしています。
☆人生、楽しんだもの勝ち
これから60歳を迎える世代には、「人生、楽しんだもの勝ち」と伝えたい。
これまで家族のために、頑張って働いてきた人も、60歳になれば、子どもも独立し、お役目が終わる頃でしょう。
その先の人生は、自分のために生きたらいい。
もしかしたら、金銭面や親の介護など、様々な事情で好き勝手をできない人も、いるかもしれません。
でも、どんなに大変な状況にあっても、その環境のなかで「どうやったら一番楽しく生きられるか」を、これからは考えていってほしいのです。
起業するのも良し、地域でボランティア活動に精を出すのも良し。
趣味を極めるのもいいでしょう。
目指す生き方が決まったら、土日を活用して、その準備を始めることを勧めます。
資格を取る勉強や、そば屋を開きたいならそば屋をめぐって研究するなどです。
会社で管理職だった人が、地域のコミュニティーでやりがちなのが、上から目線で接すること。
50歳代のうちから、肩書の関係ない世界を体験しておくのもいいかもしれませんね。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
私は読み終わった後、つたない人生航路を歩んだ私でも、
『人生、楽しんだもの勝ち』という名言に、瞬時に微笑みながら、そうですよねぇ・・、と同意を深めたりした。
私は今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受け、
やがて兄2人、そして妹二人の間(あいだ)で、サンドイッチのように育ったが、
何故かしらいじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。
私が地元の小学校に入学した1951年〈昭和26年〉の春の当時は、
祖父と父が中心となり、小作人だった人たちの手を借りながら、程々に広い田畑を耕したりしていた。
そして母屋の宅地の外れには土蔵、納屋小屋にあったりし、周辺には竹林、雑木林に囲まれた農家であった。
こうした中、この当時の周辺の情景は、京王腺の駅付近には商店街があるだけで、
周辺は田畑、竹林、雑木林など拡がり、緑豊かな村里の情景であった。
このような状況で、私が小学生の前半までは、父、翌年には祖父が病死されるまで、農家の児として育てられた。
そして祖父が亡くなった後は、大黒柱をなくした農家の我家は没落しはじめた・・。
母、そして父の妹の未婚の叔母、そして私たち兄、妹の5人の子供が残され、
私たち子供は母と叔母に支えられ、そして親類に見守り中で、貧乏な生活が始まった。
数年後、母は農業を断念して、やがて多大な借金をして、モルタル造りのアパートを経営して、
私たち兄妹は育てられた。
私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)秋、満二十歳となり大学2年の時に中退し、
アルバイト、契約社員をしながら映画、文学青年の真似事をしたが、やがて敗退した。
そして何とか大手の民間会社に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属されたのは、満25歳であった。
まもなく音楽事業本部のあるひとつの大きなレーベルが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこの新設されたレコード会社に転籍させられ、
制作に直接かかわらないコンピュータを活用した情報畑を20年近く配属されたり、経理畑、営業畑などで奮戦した。
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。
こうした中で、1998年(平成10年)に中小業の多い音楽業界全体の売上げピークとなり、
この少し前の年からリストラ烈風となり、やがて私も出向となり、
各レコード会社が委託している音楽商品のCD、DVDなどを扱う物流会社に勤めたりした。
そして遠方地に5年半ばかり通勤し、何とか2004年(平成16年)の秋に出向先で、
定年を迎えることができたので、敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。
このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在であり、
何かと半生記は自慢史が多い中で、私は砂漠にある一粒の砂に過ぎない、と感じ深めたりしている。
そして定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
世の中の多く人たちから、人生の3大支出は教育資金、住宅資金、老後資金と学んだりしているが、
たまたま我が家は子供の「教育資金」は不要となったので、定年した直後から年金生活を開始できたことも事実である。
こうした中で、私たち夫婦は雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごし、年金生活も早や丸12年半が過ぎてきた・・。
そして家内は、私より5歳若く、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
年金生活を始めた当初は、定年の5年前の頃から、定年後の60代の10年間だけは五体満足に生かしてくれ、
その後の70代以降の残された歳月は、余生であると漠然ながらと思ったりしてきた。
こうした思いの底には、私の父は私が小学2年3学期になると、黄疸〈おうだん〉で長らく自宅治療をしていたが、
肝臓が悪化して、42歳の若さで病死されたこともあったりした。
そして何よりも私の現役のサラリーマンの50代に同僚が病死されたり、
残されたご家族の心痛な思いが、痛いほど理解させられたりしてきた。
或いは先輩の65歳、69歳で亡くなったことであった。
やがて私は定年後、年金生活をし62歳の時、現役時代の一時時期に交遊した友も、無念ながら病死したりした。
そして私が64歳の時、同世代のひとりの知人が奥様に病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、動顛してしまった。
こうした根底には、私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に深く学んだりした。
ここ数年は会社時代の少し先輩、或いは後輩の68歳が、いずれも大病で入退院を繰り返した後、この世を去ったり、
ご近所の私と同世代の知人が、突然に脳梗塞で死去されて、数か月の先は誰しも解らない、冷厳なこの世の実態に、
私は震撼させられたりしてきた・・。
このような心情の片隅みに秘めながら、私は60代の年金生活は、つたない我が人生の中で、
最も安楽な日々を過ごして、享受してきた。
過ぎし2012年(平成24年)の晩春の頃、団塊世代が65歳を迎え、大量退職が始まる年、
と雑誌を読んで教えられ、思わず微笑んだりした。
私より少し若い世代の団塊世代の諸兄諸姉は、
多くは60歳で定年退職をされて、その後は年金完全支給年まで何らかの形で働かれ、
65歳になった今日、セカンドライフと称せられる年金生活を迎えられた、と私は解釈した。
こうした中で、団塊世代の諸兄諸姉は、第一線を退かれ、年金生活を過ごされ、
今までの多忙な勤務の生活を終えて、それぞれお好きな趣味の時間で過ごされる、と思ったりした。
もとより60代は、ゴールデン・イヤーズと称される通り、身体も元気、
心は長年の勤務から解放感で満ち、心身共に第二の人生を満喫されている年代でもある。
そして私は25歳の時に中途入社し、何かと職場に団塊世代の諸兄諸姉の新卒の方が多く、
時代の空気を共にしてきたので、何かと親近感が増し、好感したりしてきた。
定年前の私は、現役のサラリーマン時代は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた・・。
そして定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなく、
平素の我が家の買物は、家内から依頼された品をスーパー、専門店で求めている買物メール老ボーイとなっている。
この後、独りで自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などを歩いたりしている。
私は今住んでいる地域に、結婚前後の5年を除き、長らく住み、
戦後から今日まで急速に変貌してことに、愛惜感もある。
そしてイギリスの湖畔詩人と称されたワーズワースは、湖水地方の緩やかな谷と丘が連なる道、
或いは小さな町の田舎道を、何十キロでも平気で歩いたと伝えられているが、
私も少しばかり真似事をして、歩き廻ったりし、季節のうつろいを享受している。
帰宅後の午後の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
こうした中、家内は相変わらず料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
私はせめてと思いながら、家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、
私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。
そして私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。
或いは、知人とか友人と時折お逢いする時は、しばらく、と私は笑いながら逢ったりして、
ビール、水割りのウィスキーを飲みながら、談笑をしたりしている。
たとえば私が勤めていたあるレコード会社のOB会と称せられる懇親会に出席したりすると、
上司だった御方たち、或いは同世代の数多くの人と談笑したりしている中、
数人から、XXさんは感性もお若いですょ、と私は言われたりした。
私は照れながら、テレビ朝日の『じゅん散歩』で主演されている高田純次さんが、
私の当面のライバルです、とワインの勢いに乗(じょ)じて、私は応じたりした。
或いは女性グループの中で談笑している中、たまたま音楽の話題となり、
他社の『いきものがかり』を定年後に偶然に聴き、
何かと吉岡聖恵(よしおか・きよえ)ちゃんの歌声に、励まされていますょ、
特に『YELL(エール)』は、高齢者の私でも心身のビタミン剤ですょ、と私は言ったりした。
こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。
そして、ときおり小庭の手入れをしたり、家内との共通趣味の国内旅行で、
私たち夫婦は海外の地は苦手であるので、せめてと思いながら、
元気なうちに行きたい所を行こうょ、と日本の四季折々の各地を訪ねてきた。
この間、私が定年退職後、年金生活を始める直前に、家内の父が病死され、家内の母は独り住まいとなったりした。
この当時の家内の母は、日常生活の身の廻りはある程度は出来ているが、
長女の家内は季節の変わるたびに、大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどで、
7泊8日前後で母宅に泊りがけで行ったりし、この間、我が家は私が『おひとりさま』の生活となったりしてきた。
ここ数年は、家内の母の老化と病状で、家内と家内の妹は交互に、
大半は家内の母宅に宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除、或いは通院の付き添いなどしているので、必然的に多くなり、
この間、我が家は私が『おひとりさま』の生活となっている。
いつの日にか私たち夫婦は、どちらかが片割れとなり『おひとりさま』となる。
まさかの出来事で、私を残して家内があの世に旅立たれることもあるので、
私は特別演習だ、と思いながら過ごしている。
このように年金生活を過ごしているが、恐れ多くも日本の歴代天皇が継承してきた三種の神器と称せられる鏡・剣・玉があるが、
平民で無力な私は、『生きがい』、次に『健康』、そして程ほど『お金』が、
私の年金生活の三種の神器かしら、と思いながら過ごしてきている。
たとえ不幸にして、入院生活が余儀されても、『生きがい』を失くしたら、心は終末期と思ったりしている。
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
私はひたすら歩くこと、睡眠、程ほどの食事が、セカンドライフ健康体と信愛して、年金生活を過ごしている。
このように私は過ごし、つたない定年までの半生を過ごした私でも、年金生活は予測した以上に享受している。
そして私たち夫婦は、いつの日にか、どちらかが介護を受ける身まで、
ささやかながら年金生活の楽しき日々を甘受している。
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小雨降りしきる朝、いつもように配達された読売新聞の朝刊を読んだりした。
こうした中で、17面には新たな『ミドルらいふ』と特集が新設されて、
何かしら50歳前後の時代を著名人に語ってもらうコーナーで、勤め人なら、そろそろ先が見えてくる頃。
豊かな収穫期を迎えるためのヒントを探ります。
初回は、漫画家の弘兼憲史(ひろかね・けんし)さん(69歳)に、
ミドル時代が人生の後半戦のカギを握る理由や心得を聞く内容で、
社会保障部・小沼聖実さんが弘兼憲史さんにインタビューされて、纏(まと)められた記事であった。
私は青年期から漫画に興味は失くしてきたが、散髪屋(理容店)の待合室で、
弘兼憲史さんが創作された『島耕作』シリーズを長らく見かけたりした。
そして1947年、山口県生まれ、早稲田大卒業後、松下電器産業(現パナソニック)を3年で退社し、
翌年、漫画家デビューされて、漫画界で成功されて、やがて栄達された御方と知っているぐらいであった。
このような私でも、弘兼憲史さんが創作された漫画は読んだことがないが、
やはり人生の後半戦のカギを握る理由や心得を学びたく、記事を精読してしまった。
読売新聞45年以上、購読してきたよしみに甘え、記事を転記させて頂く。
《・・50歳代は、第二の人生のスタートを切るための準備期間だと、かねて言い続けてきました。
サラリーマンであれば、60歳で定年を迎え、突然、会社を離れた新しい人生が始まることが多い。
いま50歳の男性なら、平均余命は約32年。
定年を迎えてからも、22年あります。
有効に使えばじっくり味わえますが、無駄に過ごせばあっという間。
定年後もあわてないよう、第二の人生をどう生きたいか、早いうちに考え、その準備を始める必要があります。
では、どう生きるか。
会社では、50歳を過ぎてからも出世していく人は、一握りです。
大半の人は、「ここまでかな」という打ち止め感があるのではないでしょうか。
そこで、人と自分を比べても意味はありません。
仕事観や幸せの尺度は、人それぞれですし、仕事をやめれば、肩書も関係なくなります。
50歳からの人生は、自分自身のなかに「生き方のものさし」を持つことが大切なのです。
僕が大切にしてきた「ものさし」は、楽しさを追求すること。
会社員生活をやめたのも、「これは俺の仕事じゃない、やっぱり漫画を描きたい」と思ったからです。
昼過ぎから未明まで原稿を描き、4時間ほど眠り、午前中は近所のファミレスで漫画のアイデアを練る・・。
仕事のスタイルは、その頃からほとんど変わりません。
毎日、締め切りに追われて自転車をこぎ続け、気づけばここまで来たという感じ。
でも、振り返ればいつでも、人生の満足度は100%です。
それは、自分がおもしろいと思うことを続けてこられたからです。
40歳代頃から、テレビに出演したり、大学で講演したりと、漫画を通じて、仕事の幅が広がりました。
それはおもしろかったんですが、仕事が増えすぎて、本業を圧迫するようになってしまった。
僕にとって楽しいのは、やはり漫画を描くこと。
あるときから、テレビの仕事はすべて断るようにしています。
☆人生、楽しんだもの勝ち
これから60歳を迎える世代には、「人生、楽しんだもの勝ち」と伝えたい。
これまで家族のために、頑張って働いてきた人も、60歳になれば、子どもも独立し、お役目が終わる頃でしょう。
その先の人生は、自分のために生きたらいい。
もしかしたら、金銭面や親の介護など、様々な事情で好き勝手をできない人も、いるかもしれません。
でも、どんなに大変な状況にあっても、その環境のなかで「どうやったら一番楽しく生きられるか」を、これからは考えていってほしいのです。
起業するのも良し、地域でボランティア活動に精を出すのも良し。
趣味を極めるのもいいでしょう。
目指す生き方が決まったら、土日を活用して、その準備を始めることを勧めます。
資格を取る勉強や、そば屋を開きたいならそば屋をめぐって研究するなどです。
会社で管理職だった人が、地域のコミュニティーでやりがちなのが、上から目線で接すること。
50歳代のうちから、肩書の関係ない世界を体験しておくのもいいかもしれませんね。・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
私は読み終わった後、つたない人生航路を歩んだ私でも、
『人生、楽しんだもの勝ち』という名言に、瞬時に微笑みながら、そうですよねぇ・・、と同意を深めたりした。
私は今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受け、
やがて兄2人、そして妹二人の間(あいだ)で、サンドイッチのように育ったが、
何故かしらいじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。
私が地元の小学校に入学した1951年〈昭和26年〉の春の当時は、
祖父と父が中心となり、小作人だった人たちの手を借りながら、程々に広い田畑を耕したりしていた。
そして母屋の宅地の外れには土蔵、納屋小屋にあったりし、周辺には竹林、雑木林に囲まれた農家であった。
こうした中、この当時の周辺の情景は、京王腺の駅付近には商店街があるだけで、
周辺は田畑、竹林、雑木林など拡がり、緑豊かな村里の情景であった。
このような状況で、私が小学生の前半までは、父、翌年には祖父が病死されるまで、農家の児として育てられた。
そして祖父が亡くなった後は、大黒柱をなくした農家の我家は没落しはじめた・・。
母、そして父の妹の未婚の叔母、そして私たち兄、妹の5人の子供が残され、
私たち子供は母と叔母に支えられ、そして親類に見守り中で、貧乏な生活が始まった。
数年後、母は農業を断念して、やがて多大な借金をして、モルタル造りのアパートを経営して、
私たち兄妹は育てられた。
私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)秋、満二十歳となり大学2年の時に中退し、
アルバイト、契約社員をしながら映画、文学青年の真似事をしたが、やがて敗退した。
そして何とか大手の民間会社に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが、卒業した。
やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属されたのは、満25歳であった。
まもなく音楽事業本部のあるひとつの大きなレーベルが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこの新設されたレコード会社に転籍させられ、
制作に直接かかわらないコンピュータを活用した情報畑を20年近く配属されたり、経理畑、営業畑などで奮戦した。
この間、幾たびのリストラの中、何とか障害レースを乗り越えたりした。
こうした中で、1998年(平成10年)に中小業の多い音楽業界全体の売上げピークとなり、
この少し前の年からリストラ烈風となり、やがて私も出向となり、
各レコード会社が委託している音楽商品のCD、DVDなどを扱う物流会社に勤めたりした。
そして遠方地に5年半ばかり通勤し、何とか2004年(平成16年)の秋に出向先で、
定年を迎えることができたので、敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。
このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在であり、
何かと半生記は自慢史が多い中で、私は砂漠にある一粒の砂に過ぎない、と感じ深めたりしている。
そして定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
世の中の多く人たちから、人生の3大支出は教育資金、住宅資金、老後資金と学んだりしているが、
たまたま我が家は子供の「教育資金」は不要となったので、定年した直後から年金生活を開始できたことも事実である。
こうした中で、私たち夫婦は雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごし、年金生活も早や丸12年半が過ぎてきた・・。
そして家内は、私より5歳若く、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
年金生活を始めた当初は、定年の5年前の頃から、定年後の60代の10年間だけは五体満足に生かしてくれ、
その後の70代以降の残された歳月は、余生であると漠然ながらと思ったりしてきた。
こうした思いの底には、私の父は私が小学2年3学期になると、黄疸〈おうだん〉で長らく自宅治療をしていたが、
肝臓が悪化して、42歳の若さで病死されたこともあったりした。
そして何よりも私の現役のサラリーマンの50代に同僚が病死されたり、
残されたご家族の心痛な思いが、痛いほど理解させられたりしてきた。
或いは先輩の65歳、69歳で亡くなったことであった。
やがて私は定年後、年金生活をし62歳の時、現役時代の一時時期に交遊した友も、無念ながら病死したりした。
そして私が64歳の時、同世代のひとりの知人が奥様に病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、動顛してしまった。
こうした根底には、私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に深く学んだりした。
ここ数年は会社時代の少し先輩、或いは後輩の68歳が、いずれも大病で入退院を繰り返した後、この世を去ったり、
ご近所の私と同世代の知人が、突然に脳梗塞で死去されて、数か月の先は誰しも解らない、冷厳なこの世の実態に、
私は震撼させられたりしてきた・・。
このような心情の片隅みに秘めながら、私は60代の年金生活は、つたない我が人生の中で、
最も安楽な日々を過ごして、享受してきた。
過ぎし2012年(平成24年)の晩春の頃、団塊世代が65歳を迎え、大量退職が始まる年、
と雑誌を読んで教えられ、思わず微笑んだりした。
私より少し若い世代の団塊世代の諸兄諸姉は、
多くは60歳で定年退職をされて、その後は年金完全支給年まで何らかの形で働かれ、
65歳になった今日、セカンドライフと称せられる年金生活を迎えられた、と私は解釈した。
こうした中で、団塊世代の諸兄諸姉は、第一線を退かれ、年金生活を過ごされ、
今までの多忙な勤務の生活を終えて、それぞれお好きな趣味の時間で過ごされる、と思ったりした。
もとより60代は、ゴールデン・イヤーズと称される通り、身体も元気、
心は長年の勤務から解放感で満ち、心身共に第二の人生を満喫されている年代でもある。
そして私は25歳の時に中途入社し、何かと職場に団塊世代の諸兄諸姉の新卒の方が多く、
時代の空気を共にしてきたので、何かと親近感が増し、好感したりしてきた。
定年前の私は、現役のサラリーマン時代は数多くの人たちと同様に多忙で、
家内は我が家の専守防衛長官のような専業主婦であり、日常の洗濯、買い物、料理、掃除などで、
家内なりの日常ペースがあり、この合間に趣味などのささやかな時間で過ごしてきた・・。
そして定年後の年金生活を始めた私としては、このペースを崩したくなく、
平素の我が家の買物は、家内から依頼された品をスーパー、専門店で求めている買物メール老ボーイとなっている。
この後、独りで自宅から3キロ以内の遊歩道、小公園などを歩いたりしている。
私は今住んでいる地域に、結婚前後の5年を除き、長らく住み、
戦後から今日まで急速に変貌してことに、愛惜感もある。
そしてイギリスの湖畔詩人と称されたワーズワースは、湖水地方の緩やかな谷と丘が連なる道、
或いは小さな町の田舎道を、何十キロでも平気で歩いたと伝えられているが、
私も少しばかり真似事をして、歩き廻ったりし、季節のうつろいを享受している。
帰宅後の午後の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
こうした中、家内は相変わらず料理、掃除、洗濯などをしてくれるので、
私はせめてと思いながら、家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、
私は素早く察知して、日に6回ぐらい茶坊主の真似事もしている。
そして私は亡き母の遺伝を純粋に受け継いだ為か、恥ずかしながら男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。
或いは、知人とか友人と時折お逢いする時は、しばらく、と私は笑いながら逢ったりして、
ビール、水割りのウィスキーを飲みながら、談笑をしたりしている。
たとえば私が勤めていたあるレコード会社のOB会と称せられる懇親会に出席したりすると、
上司だった御方たち、或いは同世代の数多くの人と談笑したりしている中、
数人から、XXさんは感性もお若いですょ、と私は言われたりした。
私は照れながら、テレビ朝日の『じゅん散歩』で主演されている高田純次さんが、
私の当面のライバルです、とワインの勢いに乗(じょ)じて、私は応じたりした。
或いは女性グループの中で談笑している中、たまたま音楽の話題となり、
他社の『いきものがかり』を定年後に偶然に聴き、
何かと吉岡聖恵(よしおか・きよえ)ちゃんの歌声に、励まされていますょ、
特に『YELL(エール)』は、高齢者の私でも心身のビタミン剤ですょ、と私は言ったりした。
こうした中で、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。
そして、ときおり小庭の手入れをしたり、家内との共通趣味の国内旅行で、
私たち夫婦は海外の地は苦手であるので、せめてと思いながら、
元気なうちに行きたい所を行こうょ、と日本の四季折々の各地を訪ねてきた。
この間、私が定年退職後、年金生活を始める直前に、家内の父が病死され、家内の母は独り住まいとなったりした。
この当時の家内の母は、日常生活の身の廻りはある程度は出来ているが、
長女の家内は季節の変わるたびに、大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどで、
7泊8日前後で母宅に泊りがけで行ったりし、この間、我が家は私が『おひとりさま』の生活となったりしてきた。
ここ数年は、家内の母の老化と病状で、家内と家内の妹は交互に、
大半は家内の母宅に宿泊して、家内の母の食事、洗濯、掃除、或いは通院の付き添いなどしているので、必然的に多くなり、
この間、我が家は私が『おひとりさま』の生活となっている。
いつの日にか私たち夫婦は、どちらかが片割れとなり『おひとりさま』となる。
まさかの出来事で、私を残して家内があの世に旅立たれることもあるので、
私は特別演習だ、と思いながら過ごしている。
このように年金生活を過ごしているが、恐れ多くも日本の歴代天皇が継承してきた三種の神器と称せられる鏡・剣・玉があるが、
平民で無力な私は、『生きがい』、次に『健康』、そして程ほど『お金』が、
私の年金生活の三種の神器かしら、と思いながら過ごしてきている。
たとえ不幸にして、入院生活が余儀されても、『生きがい』を失くしたら、心は終末期と思ったりしている。
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
私はひたすら歩くこと、睡眠、程ほどの食事が、セカンドライフ健康体と信愛して、年金生活を過ごしている。
このように私は過ごし、つたない定年までの半生を過ごした私でも、年金生活は予測した以上に享受している。
そして私たち夫婦は、いつの日にか、どちらかが介護を受ける身まで、
ささやかながら年金生活の楽しき日々を甘受している。
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