夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

ペギー葉山さんの歌、高齢者の男性の私でも、心の片隅で残っている名曲は・・。

2017-04-13 16:21:37 | ささやかな古稀からの思い
私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域では、
桜花に関しては、平年は3月下旬から染井吉野(ソメイヨシノ)の桜が最初に咲き始めると、
その後に山桜(ヤマザクラ)、最後に八重桜(ヤエザクラ)が咲くが、平年の習わしとなってきた。

そして今年は、二月下旬から早咲きの河津桜を観たりしてきたが、
3月下旬から染井吉野(ソメイヨシノ)、山桜(ヤマザクラ)に見惚れて散策してきた。

本日、いつもように平素の買物を終えた後、自宅の近くに流れる野川の桜並木の遊歩道を歩いたりした。
そして満開の情景を過ぎ、歩道の脇には花びらが散乱して、絨毯のように花びらが重なったりしていた・・。

私は立ち止まり、数多くの桜花を見たりすると大半は小枝に残っているが、
ときおり音もなく、花びらが小枝から離れ、青い空の中をさまようように舞いながら、
やがて地上に落下していた。

古来より、桜の散りはじめ、花びらが舞いながら散る情景を花衣(はなごろも)と称してきたことに、
思いを重ねたりした・・。

そして近く池には、桜花が重なっていて、水面にゆったりと流れ、花筏(はないかだ)のように情景となっていた。
             

私は近くのベンチに腰を下ろして、花びらが小枝から離れ、さまようように舞いながら、
地上に落下している情景に見惚れたりしていると、今朝読んだ記事が甦(よみがえ)ってきた・・。

歌手のペギー葉山さんが亡くなり、読売新聞の編集委員・西田浩さんが、[評伝]として記事を綴られていた。

《・・[評伝]ペギー葉山さん死去/渋々歌った「南国土佐」

12日に83歳で亡くなったペギー葉山さんに、最後にお会いし、話をうかがったのは今年2月20日だった。
9月にはデビュー65周年記念リサイタルが予定され、
「これだけ長い間、歌い続けていられることへの感謝を込めて一曲一曲を大切に披露したい」と、
よく通る声で熱っぽく語っていた。

それから、わずか2か月弱。突然の訃報(ふほう)に言葉を失った。

幼い頃から歌が大好き。
高校時代に、アルバイト感覚で進駐軍キャンプで、ジャズを歌うようになった。
「米兵が私の歌で盛り上がってくれるのが快感だった」という。
これがプロを目指すきっかけとなった。

1952年にデビューし、2年後にNHK紅白歌合戦に出場するなど、順調に歩を進めた。
そこには、10か月早く同じレコード会社からデビューした江利チエミの存在が大きかった。

「同じジャズ畑で、私がデビューした時に、彼女はすでにスター。
負けたくないという一心で頑張った。切磋琢磨(せっさたくま)する良きライバルで、友人でした」と述懐していた。

外国曲を中心に歌ってきたペギーさんに転機が訪れたのが、1958年だった。
高知で生放送するテレビ番組で、地元ゆかりの「南国土佐を後にして」を披露した。
最初は「民謡調の曲を歌うのは嫌」と断ったが、番組ディレクターの説得に負け、渋々歌ったという。

ところが放送後に反響が殺到、レコード化され大ヒットした。
これを機に歌手としての幅を広げ、以後、正統的な歌謡曲「学生時代」、米国のミュージカルの舞台で出合い、自ら訳詞した「ドレミの歌」など、
様々なタイプのヒット曲を生んだ。

ジャンルにとらわれぬ姿勢が、息の長い人気へとつながり、明るく飾り気のない人柄も愛された。
             

小学生の時、自分をいじめた男子同級生を上履きを振り回して撃退したと笑いながら話してくれたのがまぶたに浮かぶ。

はつらつとした声による骨太の歌唱が持ち味で、リズムに乗った曲との相性は抜群だった。
米国の名歌手、ドリス・デイを敬愛し、彼女のレパートリーだった「ドミノ」でデビューできたことは、本当にうれしかったという。

「でもね、後年、彼女に会った時に『この曲でデビューしました』って伝えたら、
『私、そんな曲歌ってたかしら』だって。私にとっては大切な曲だったのにね」。
インタビューで語ってくれた逸話が心に残る。そんなデイやライバル・江利のいる天国へと旅立って行ったのだ。

昨年出した最後のシングル曲「おもいでの岬」は、叙情的な曲調に乗せ、今はいない人への思慕を歌った。
改めて聴くと、重鎮を失った歌謡界、そして多くのファンの気持ちと重なるかのように響いた。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
             

私は歌を聴くのは好きであるが、ペギー葉山さんに関しては余り愛聴していないが、
しかしながら今でも、心の片隅で残っている曲がある・・。

私はペギー葉山さんの歌を初めて聴いたのは、『ケ・セラ・セラ』で、
確か私が小学6年生の1956年(昭和31年)の頃で、ラジオで盛んに流れていた。

やがて私が高校2年生の1962年(昭和37年)の頃、『ラ・ノビア』を聴き、私は瞬時に魅了されたりした。
この当時は、日本ではカンツォーネ・ブームで、私はカンツォーネの歌に夢中となり、
イタリアの歌手トニー・ダララさんが唄われた『ラ・ノビア』をレコードで、何10回も聴いたりしていた。

そして日本では、ペギー葉山さんが唄われて、私はときには感きわまり、涙を浮かべながら、感動したりした。
やがて後年になると、『ラ・ノビア』は、チリの音楽家ホアキン・プリエートさんが、1958年に作詞作曲した歌曲と、
学んだりした。
             

私が大学2年の1964年(昭和39年)、ペギー葉山さんは『学生時代』を唄われ、
街の中で盛んに流れたりしていた。

私はワンピースかツーピースを召した女子大生が、学生生活を謳歌しているイメージで、
素直に私と同世代のさまざまな心情を重ねて、圧倒的に好感した歌である。


私は『南国土佐を後にして』、『ドレミの歌』は聴いたりしたが、一時的に聴いたりする程度であった。
ただし、『ドレミの歌』は後年、私はレコード会社に勤めている中、
風の噂として、他社の専属契約のペギー葉山さんの伝説を聞いたりしてきた。

1960年8月、ロサンゼルスの日米修好百年祭に日本人代表として招かれ、
この際にミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』を鑑賞。

そして劇場の売店で譜面とオリジナルLPを購入し、そのままホテルへ直行し1番の訳詞を手がけ、日本に持ち帰った・・。

帰国後、自身の作詞で同ミュージカルの劇中歌、『ドレミの歌』をペギー自身の訳詞で紹介し、
ペギーの訳詞・歌唱による『ドレミの歌』は、NHK『みんなのうた』でも使用され、
音楽の教科書にも掲載されるなど、広く知らししめた御方と知ったりした。
             

このように、私は今でも、心の片隅で残っている曲は、『ラ・ノビア』と『学生時代』である。

そして私は、ペギー葉山さんのご冥福を祈りながら、久々に『ラ・ノビア』と『学生時代』の名曲を聴こう、
と思いながら、ベンチから腰を上げて、帰宅に向かったりした。

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