先程、ネットでニュースを見ようとパソコンを立ち上げ、
私はトップページとしては【YAHOO! JAPAN】に設定しているので、
トピックス・ニュースが表示される中のひとつには、
【 キャリアを捨てる働き方──定年シニアが生き残るには 】と見出しがあった。
私は過ぎし2004年(平成16年)の秋に定年退職を迎えるまで、
七転八起のようなサラリーマン航路を歩んできたが、昨今の社会状況も疎くなり、
真摯に学ぼうとして、記事を精読してしまった・・。
この記事は、ジャーナリスト・岩崎大輔さんがYahoo!ニュース 特集編集部の支援を受けた寄稿文であり、
【YAHOO! JAPAN】に於いて、4月19日の朝7時過ぎに配信され、無断であるが転載させて頂く。
《・・キャリアを捨てる働き方──定年シニアが生き残るには
シニア層の仕事で、ミスマッチが起きている。
改正高齢者雇用安定法の施行(2013年4月)で65歳まで継続雇用が義務づけられたが、
小売業などの現場では、雇用年齢の上限を75歳まで引き上げるなど、さらに上をいく動きが出ている。
ただし、ニーズがあるのは体力仕事が多く、求職しているシニア層側から見れば、
就きたい仕事が少ないのが現状だという。
シニア層はどのように職を探し、どのように働くべきか。
これからのシニアの働き方を見つめた。
※簿記の資格よりITスキルを
東京・品川駅にほど近い32階建てのオフィスビル。
働き盛りのビジネスパーソンが足早に行き来するエリアだが、
この日は昼過ぎからシニア層の一団がこのビルを目指し足を運んでいた。
55歳以上を対象にした合同面接会の会場だ。
テニスコート2面ほどのスペースに、15社がブースを設けている。
そこに、40人ほどの参加者が、入れ代わり立ち代わり現れていた。
配布された求人情報一覧に目を通し、ため息とともに退出する人もいれば、
真剣な表情で企業の人事担当者が座るブースに向かう人もいる。
「税理士、会計士の資格があれば、別だろうけど、簿記2級程度ではむずかしいね・・」
66歳の大石俊樹さん(仮名)は、そう呟きながら面接会のアンケートに記入をしていく。
日本を代表する家電メーカーのグループ企業の経理として会社人生を全うした。
現在、年金は月に17万円ほど。
2人の娘もすでに結婚し、1歳下の妻との暮らしに不自由はない。
ただ、「漠然とした将来への不安」と「体が動くうちは」との思いで、合同面接会に参加したという。
しかし、大石さんがピンときた仕事は、経理・財務経験者を中小企業に派遣する人材派遣業だけだった。
「肉体労働は一度も経験していないし、身体がついていかないと思う。自分のスキルを活かせる仕事を探したい」
だが、現実は厳しい。
ハローワークで経理の仕事に応募しても、たびたびはねられてきた。
IT化の進展で、エクセルや経理ソフトなどのスキルが求められる一方、簿記の資格はほとんど評価されなかった。
「経理なんて、地道に人が担ってきた仕事だけど、これからはもっとコンピューターに奪われていくんじゃないかな」
「時間が余っちゃってさぁ」
求職に来た目的を尋ねると、59歳の山田伸夫さん(仮名)は、そう照れるように語る。
山田さんは、ハードディスクドライブメーカーにエンジニアとして勤め、一時期は20名の部下を持つ設計部長だった。
TOEIC715点という英語力を活かし、中国、タイ、シンガポールの工場立ち上げに、携わった経験もある。
年収は最高時で1400万円ほどだ。
定年を待たず昨年9月に退職。
登山や読書を楽しんだものの、1カ月も過ぎれば、時間を持て余すようになった。
それならば働いたほうがいい──そう考えて、合同面接会に足を運んだのだという。
昨年末、民間の人材派遣会社にも登録したが、自分の希望とは折り合わなかった。
「海外工場の現地マネージャーの仕事は、紹介してもらえそうだった。年収も良かった。
けど、日本にいたくてね。責任と期待を背負う仕事は、もうきついんです」
そう言うと、山田さんは高級マンションの管理コンシェルジュを紹介する企業のブースへと足を向けた。
15ある企業ブースの中で、デスクワークに近いものはその1社だけで、求職者がひっきりなしに訪れていた。
残りはいわゆる現場系の仕事。和食店の洗い場、ホールスタッフ、調理補助・・。
それらのブースに立ち寄る人は、ほとんどいなかった。
※雇用年齢の上限が70歳から75歳へ
2016年平均の有効求人倍率は1.36倍に上昇。
7年連続の上昇で、1991年以来25年ぶりの高水準となった。
深刻な人手不足の中、シニア層の雇用も拡大している。
小売業やサービス業などでは、すでに人手不足に見舞われ、
健康であれば70歳を過ぎても、採用してくれる職場が数多くある。
スーパーマーケットチェーンのマルエツでは、2015年2月期から従業員の年齢上限を5歳引き上げ70歳に。
現在、65歳以上の従業員は1300人に増加し、店舗で働くパートなどの従業員全体の6%強を占めている。
同業のスーパー、サミットでは昨年12月に、雇用年齢の上限を70歳から、後期高齢者に入る年齢である75歳に引き上げた。
労働市場では55歳以上を「シニア」(ハローワークなど)と呼んでおり、
2013年の改正高齢者雇用安定法でも、希望者全員の65歳までの継続雇用を企業に義務づけた。
だが、その上限はさらに広がりつつある。
日本企業にはこれまで、高齢者を積極採用する風土はなかった。
だが、折からの人手不足と、高齢者の活用を掲げる政府の成長戦略をきっかけに、風向きが変わった。
「企業側からすれば、高齢者が“コストセーブになる”ことは、否定できないでしょう」
みなと✳しごと55(以下、みなと55)の池田真弓マネージャーはそう語る。
みなと55とは、港区や東京都の支援を受けて運営されるシニア層の就業支援をする機関。
事務所内には、「週3日」や「日3~5時間」など、フルタイムではない求人が散見される。
※コスト抑制のターゲットにも
この数年、企業の労務コストは、上がり続けている。
安倍政権による賃上げ要請はもちろん、昨年10月からは非正規雇用者への社会保険の加入要件緩和も行われた。
従業員が500人を超える企業は、「所定労働週20時間以上」「雇用期間の見込みが1年以上」
「賃金月額8万8000円以上」の、学生を除く短時間労働者に対し、社会保険を適用することが義務づけられる。
今後、「働き方改革」で正社員と非正規社員との「同一労働同一賃金」が実施されていけば、
非正規社員の賃金増加も見込まれ、企業側の労務コストは、さらに増える可能性も指摘されている。
そうした環境の中、企業が高齢者に熱い視線を注ぐのは、単に人手不足を補うためだけではない。
フルタイムではなく、少しずつ働くパートタイムでの雇用が、高齢者に向いているためだ。
ひとりの人間を雇用して、一定時間以上働いてもらえば、企業側は社会保険などの労務コストを負担しなければならない。
だが、2~3人の高齢者でワークシェアをしてもらい、フルタイムではなく、少しずつ働いてもらう。
そうすれば、『週20時間以上』や『月額8.8万円』といった枠組みをすり抜け、社会保険も回避できるわけだ。
この企業側の事情は、シニアにとっても、けっして悪い話ではない。
シニア向け再就職支援セミナーで講演を数多く手がける神谷敏康・ディアロゴス代表も、
年金などで生活のベースがあるのなら、フルタイムよりも、パートタイムの仕事のほうが、ふさわしいと語る。
「年金で生活費のベースがある高齢者は、無理してまで働く必要はありません。
生き甲斐を求めるシニアには、パートタイムの仕事でもいいでしょう、と話しています。
いくつになっても新しいことにチャレンジすることで、脳も体も活性化できますから」
一方で、シニアの求職で重要なのは、過去の自分にこだわらないことだ、と神谷氏は言う。
※ジェネラリストのキャリアは役に立たず
冒頭の合同面接会のように、55歳を過ぎた段階での求職で多くを望むのは難しい。
とくに自分が築いてきたキャリアを活かすことに固執すると、
マッチした仕事を見つけることが難しく、いつまでも職を得られない可能性もある。
厚労省東京労働局が発表した『関東労働市場圏有効求人・有効求職 年齢別バランスシート』(2016年12月)によれば、
60歳以上の「サービスの職業」では、有効求人倍率が2.86、「保安の職業」では4.80と高い一方で、
「事務的職業」は0.42、「管理的職業」は0.46と、ホワイトカラーの求人はわずかしかない。
「学歴・職歴が高度なシニアの男性は、自分が積み上げた経験、知識を活かした仕事を望む傾向が強いものです。
しかし、実際には管理職や事務職の求人そのものが非常に少ない。
すると、求職と求人のミスマッチが起きてしまい、シニアの人は仕事に就けないで、時間だけが経過してしまうことも」(神谷氏)
一部の求人には、年収が高いものもある。
だが、そうした求人の募集要項をよく見ると、「中国や東南アジアで、工場をオペレートした経験あり」
「欧米系企業と販売業務などで、協業や契約交渉の経験あり」など、
きわめて限定的な経験とそれに伴う能力をもつスペシャリストを求めているケースが少なくない。
そんな求人は、人事異動で多くの部署を回ったジェネラリストのキャリアとは一致しない。
だからこそ、シニアの転職では、自分とどう折り合いをつけるかが肝要だ、と神谷氏は言う。
「有名企業に勤めていた方でも、いろんな部署を回っていたようなキャリアでは、
自分が思うほど求人市場では売りにならない。
また、気力や体力で30代、40代と同じように働けるかといえば、それも難しい。
一方、彼らを求めている企業で言えば、小売りやサービス業が中心で、
場合によっては、最低賃金に近い仕事になってしまうのも致し方ないのでしょう。
要するに、過去のプライドは大切にとっておいて、
一からやり直すことに『新しい出会いややりがいがある』と思えるかどうかなんです。
もとの能力は高いはずなので、意識や行動を変えられれば、再就職もうまくいくと思います」
※ニッチな仕事ですこし働く
高齢者が積極的に望まれる職場があるとすれば、どのようなものなのか。
みなと55の池田氏は「隙間を埋めるニッチな仕事」とし、
一例として、時給1000円の高級料亭の洗い場を挙げた。
居酒屋では短時間で大量の食器を洗うのが仕事になるが、
高級料亭では高価な茶碗や食器を時間に追われるのではなく、
むしろ時間をかけてでも1枚1枚丁寧に洗い上げる人材が求められる。
大田区いきいきしごとステーションの佐々木文雄所長は、介護の分野でも法定資格なしでも活躍できる場があると指摘する。
「例えば、シーツの取り換えや、床にこぼした食材の清掃。
仕事はニッチなものですが、介護福祉士の国家資格がなくともできる。
こうした部分を元気なシニアが埋めれば、介護士もゆとりが生まれると思います」
では、実際に「ニッチな仕事」で「すこしだけ働く」というのは、どのようなものだろうか。
※感謝される仕事を
東京都港区の寺院。
そこで森裕平さん(68)は、水曜と日曜の週2日、朝8時から夕方まで時給1200円で働いている。
仕事は、墓地や周辺の清掃、あるいは高齢の檀家がお参りに来た際、水を満たした手桶を持ってお墓まで同伴するといった仕事だ。
森さんは、音楽プロダクションの社長を務めた時期もあり、国民的な人気を博した女性歌手を手がけた過去もある。
その時期は1600万円で購入した外車に乗り、横浜市に2億円の邸宅も建てた。
だが、事業や株に投資しすぎた結果、バブル崩壊とともに、全ての資産を失った。
森さんはそんな半生を語りつつ、「真面目に生きたことがない」「大人になりきれない」と自らを振り返る。
お金にも執着はない。
現在の年金は月約14万円で、お寺の仕事で得られるのは月額8万円ほど。
毎月の収入は20数万円にとどまる。
マンションの家賃は、孫の世話をすることで次女に負担してもらい、
それでも生活に足りない分は、13歳下の妻の収入で補う。
不足を自覚しながらも、あくせく稼ごうとしないのが、いまの暮らし方だ。
豪奢な生活とお金のない生活の両極を経験してきた森さんにとって、「働く」とはどういう意味をもっているのか。
「感謝されるのが、仕事ということだね。
お寺の仕事は、夕方には泥だらけで、クタクタ。
だけど、自分を正したい、律したい、とも思っている。
奉仕ではないが、近いものはあるかも」
その上で、シニアの働き方とは、そうした余裕があるべきだとも述べた。
「生活のために働くのは、当然のことだと思う。
一方で、老いていく中で、お金だけ、仕事だけに関心を奪われるのも考えもの。
働く喜びを感じられる距離感で、仕事ができるといいなと思いますね」・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
私は記事を読み終わった後、溜息を重ねたりし、やがて過ぎし2013年(平成25年)の秋に、
【 65歳定年制 5年多く働いても生涯賃金900万円しか増えぬ例も 】と見出しされたニュースを
思い重ねたりした。
この当時、多くの企業は65歳定年制を採用され始めた頃で、
『週刊ポスト』の2013年2月15・22日号に掲載された記事であった。
《・・4月から施行される65歳定年制(雇用延長義務づけ)導入で企業の賃金体系見直しが進んでいる。
三菱電機などが採用しているのが「定年年齢選択型給料」だ。
社員は55歳の春、会社からサラリーマン人生の大きな決断を求められる。
〈給料は現状維持のまま60歳で退職するか、それとも給料ダウンで65歳まで働くか〉──というものだ。
前者の60歳定年を選択すれば、本社勤務のままで給料はカットされないが、雇用延長(再雇用)はない。
後者を選べば、56歳で早期退職して子会社に再雇用され、給料(本給)が2割カット、
60歳以降はさらに5割に減らされる。
年収600万円の55歳サラリーマンの場合、前者を選ぶと、56歳から60歳までの5年間の総額で3000万円になる。
一方、後者を選択すると、65歳までの10年間の総額は3900万円だ。
5年間多く働いても生涯賃金の差はわずか900万円にすぎない。
「60歳で退職する人も、65歳まで雇用延長する人も生涯賃金は基本的に変わらないという考えです」
と三菱電機広報部は説明している。・・》
私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39)年の秋に、
大学を中退し、アルバイトや契約社員をしながら映画・文學青年の真似事して、やがて敗退して、
やむなくサラリーマンに転進する為に、コンピュータの専門学校で一年ばかり学んだ後、
この当時は映像・音響の大手メーカーの民間会社に、何とか中途入社出来たのは、1970年(昭和45年)年の春であった。
そして配属された音楽事業本部の片隅で勤めていた私は、
まもなくこの中のひとつの大きなレーベルが、外資系のレコード会社として新設され、私も移籍の辞令を受けて、
音楽に直接に関わる制作畑ではなく、商品、情報、経理、営業畑などの部門を異動したりして、
35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。
こうした中で幾たびもリストラが行われたりし、
やがて1998〈平成10〉年に音楽業界の売上の主軸となるCDがピークとなり、
この前後は、各レコード会社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。
これに伴ない、正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われ、リストラ烈風となった。
こうした中で、私の勤めいていた会社も、人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度が実施された。
私は1970年(昭和45年)の中途入社した身であったが、
この頃の時代の風潮としては、多くの御方と同様に、この会社で定年の60歳まで
勤め上げ意志を殆どの方たちは共有し、私なりの人生設計を持っていた。
そして激動の1998年(平成10年)の前後は、先輩、同僚、後輩の一部の人が、
やむなく第二の人生を選択し、早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、彼等の決断を見送っていた。
やがて私は1999年(平成11年)の新春、出向となった。
もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は都心にある本社に30年近く勤めたが島流しのように放り出され、
屈辱と無念さが入り混じ、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、朝は4時45分に起床して、帰宅は早くても夜9時過ぎが多く、奮戦したりした。
出向先は少し遠方地にある各レコード会社が音楽商品のCD、DVDなどを委託している物流会社で、
この中のひとつの物流センターに異動させられて、
販売店からの日々変動の激しい日毎の受注に応じた出荷作業、
或いは返品を含めた商品の出入り、保管などの業務管理を行っていた。
こうした中でセンター長をはじめとする正社員の5名の指示に基づいて、若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの120名前後の職場であった。
そしてまもなく、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、幾たびかリストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に、何とか定年退職を迎えられたした。
そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
しかしながら根底の実情は、この当時は大企業も盛んにリストラが実施され、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もない私は、
せいぜい月10万円ぐらいで、雑役業務の職場しか考えられず、
何よりも私なりに、出向先で体力も気力も使い果たしてしまった。
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、教育資金も不用であったりし、
程ほどの老後資金がプールできたりし、私は働くことを卒業して、年金生活を始めることとした。
このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在であるが、
私は最期には出向であっても、途中で挫折せずに程ほどの年収を得て勤務でぎたことは、
結果的には幸運の星と思ったりしている。
過ぎし1998年(平成10年)から、2012年(平成24年)の頃まで、デフレ経済の烈風の中、
大企業の社員さえも、年収は横ばいと知り、私は驚き、溜息をしてきたひとりである。
私が長らく勤めた中小業の時は、昭和の終わる1989年(昭和64年)の頃までは、
年齢給、成果給、そして家族・住宅などの諸手当があり、その後は成果給が大半以上に拡大してきた。
そしてボーナスと称される成果に応じた賞与があった。
こうした中で、たまたま私は40代には年収は900万、やがて1000万となり、
2004〈平成16〉年の秋にサラリーマンを卒業した。
この当時の民間会社の定年退職時は、殆どの企業は60歳が多く、わずか一部の人は栄進されたりしたが、
大半の人たちは、第二の人生で、年金が満額(報酬比例部分と定額部分)になる時期まで自ら求職し働いたしていた。
或いは一部の人だけが、勤めいた関連先の会社に年収が低下しながらも、勤められたりしていた。
そして私のように退職時と共に年金生活に入った方もいる。
しかしながら、政府の指導の下で、2013年(平成25年)の4月から施行される65歳定年制(雇用延長義務づけ)導入で、
民間会社は大きく余儀なくされ、私は遅ればせながら大企業の三菱電機の実態を学んだ・・。
勤められている方には、ご家族のそれぞれの事情により決断せざるを得ないが、
《・・65歳まで雇用延長する人・・60歳で退職する人よりも5年間多く働いても
生涯賃金の差はわずか900万円にすぎない・・》と記載されているが、私は異論がある。
大企業も厚生年金、健康保険などは、会社と個人が折半であるので、
60歳で退職する人は、この後の健康保険は自己負担となり、
やがて厚生年金の受給時からは勤続年数より大きく差異があるので、《生涯賃金の差は900万円》は誤りで、これ以上にある。
問題があるとすれば、《・・56歳で早期退職して子会社に再雇用され、給料(本給)が2割カット、
60歳以降はさらに5割に減らされる・・》こうした大企業の三菱電機の社員の一部の人が思案した時、
職責、職場の変貌の対処、そしてプライドに耐えられるか、だけである。
私はたまたま時代こそ違え、年収も下がらず出向時代を5年ばかり体験してきたので、
悩ましく涙と悦びを秘めた深情は少し理解できたりしている。
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私はトップページとしては【YAHOO! JAPAN】に設定しているので、
トピックス・ニュースが表示される中のひとつには、
【 キャリアを捨てる働き方──定年シニアが生き残るには 】と見出しがあった。
私は過ぎし2004年(平成16年)の秋に定年退職を迎えるまで、
七転八起のようなサラリーマン航路を歩んできたが、昨今の社会状況も疎くなり、
真摯に学ぼうとして、記事を精読してしまった・・。
この記事は、ジャーナリスト・岩崎大輔さんがYahoo!ニュース 特集編集部の支援を受けた寄稿文であり、
【YAHOO! JAPAN】に於いて、4月19日の朝7時過ぎに配信され、無断であるが転載させて頂く。
《・・キャリアを捨てる働き方──定年シニアが生き残るには
シニア層の仕事で、ミスマッチが起きている。
改正高齢者雇用安定法の施行(2013年4月)で65歳まで継続雇用が義務づけられたが、
小売業などの現場では、雇用年齢の上限を75歳まで引き上げるなど、さらに上をいく動きが出ている。
ただし、ニーズがあるのは体力仕事が多く、求職しているシニア層側から見れば、
就きたい仕事が少ないのが現状だという。
シニア層はどのように職を探し、どのように働くべきか。
これからのシニアの働き方を見つめた。
※簿記の資格よりITスキルを
東京・品川駅にほど近い32階建てのオフィスビル。
働き盛りのビジネスパーソンが足早に行き来するエリアだが、
この日は昼過ぎからシニア層の一団がこのビルを目指し足を運んでいた。
55歳以上を対象にした合同面接会の会場だ。
テニスコート2面ほどのスペースに、15社がブースを設けている。
そこに、40人ほどの参加者が、入れ代わり立ち代わり現れていた。
配布された求人情報一覧に目を通し、ため息とともに退出する人もいれば、
真剣な表情で企業の人事担当者が座るブースに向かう人もいる。
「税理士、会計士の資格があれば、別だろうけど、簿記2級程度ではむずかしいね・・」
66歳の大石俊樹さん(仮名)は、そう呟きながら面接会のアンケートに記入をしていく。
日本を代表する家電メーカーのグループ企業の経理として会社人生を全うした。
現在、年金は月に17万円ほど。
2人の娘もすでに結婚し、1歳下の妻との暮らしに不自由はない。
ただ、「漠然とした将来への不安」と「体が動くうちは」との思いで、合同面接会に参加したという。
しかし、大石さんがピンときた仕事は、経理・財務経験者を中小企業に派遣する人材派遣業だけだった。
「肉体労働は一度も経験していないし、身体がついていかないと思う。自分のスキルを活かせる仕事を探したい」
だが、現実は厳しい。
ハローワークで経理の仕事に応募しても、たびたびはねられてきた。
IT化の進展で、エクセルや経理ソフトなどのスキルが求められる一方、簿記の資格はほとんど評価されなかった。
「経理なんて、地道に人が担ってきた仕事だけど、これからはもっとコンピューターに奪われていくんじゃないかな」
「時間が余っちゃってさぁ」
求職に来た目的を尋ねると、59歳の山田伸夫さん(仮名)は、そう照れるように語る。
山田さんは、ハードディスクドライブメーカーにエンジニアとして勤め、一時期は20名の部下を持つ設計部長だった。
TOEIC715点という英語力を活かし、中国、タイ、シンガポールの工場立ち上げに、携わった経験もある。
年収は最高時で1400万円ほどだ。
定年を待たず昨年9月に退職。
登山や読書を楽しんだものの、1カ月も過ぎれば、時間を持て余すようになった。
それならば働いたほうがいい──そう考えて、合同面接会に足を運んだのだという。
昨年末、民間の人材派遣会社にも登録したが、自分の希望とは折り合わなかった。
「海外工場の現地マネージャーの仕事は、紹介してもらえそうだった。年収も良かった。
けど、日本にいたくてね。責任と期待を背負う仕事は、もうきついんです」
そう言うと、山田さんは高級マンションの管理コンシェルジュを紹介する企業のブースへと足を向けた。
15ある企業ブースの中で、デスクワークに近いものはその1社だけで、求職者がひっきりなしに訪れていた。
残りはいわゆる現場系の仕事。和食店の洗い場、ホールスタッフ、調理補助・・。
それらのブースに立ち寄る人は、ほとんどいなかった。
※雇用年齢の上限が70歳から75歳へ
2016年平均の有効求人倍率は1.36倍に上昇。
7年連続の上昇で、1991年以来25年ぶりの高水準となった。
深刻な人手不足の中、シニア層の雇用も拡大している。
小売業やサービス業などでは、すでに人手不足に見舞われ、
健康であれば70歳を過ぎても、採用してくれる職場が数多くある。
スーパーマーケットチェーンのマルエツでは、2015年2月期から従業員の年齢上限を5歳引き上げ70歳に。
現在、65歳以上の従業員は1300人に増加し、店舗で働くパートなどの従業員全体の6%強を占めている。
同業のスーパー、サミットでは昨年12月に、雇用年齢の上限を70歳から、後期高齢者に入る年齢である75歳に引き上げた。
労働市場では55歳以上を「シニア」(ハローワークなど)と呼んでおり、
2013年の改正高齢者雇用安定法でも、希望者全員の65歳までの継続雇用を企業に義務づけた。
だが、その上限はさらに広がりつつある。
日本企業にはこれまで、高齢者を積極採用する風土はなかった。
だが、折からの人手不足と、高齢者の活用を掲げる政府の成長戦略をきっかけに、風向きが変わった。
「企業側からすれば、高齢者が“コストセーブになる”ことは、否定できないでしょう」
みなと✳しごと55(以下、みなと55)の池田真弓マネージャーはそう語る。
みなと55とは、港区や東京都の支援を受けて運営されるシニア層の就業支援をする機関。
事務所内には、「週3日」や「日3~5時間」など、フルタイムではない求人が散見される。
※コスト抑制のターゲットにも
この数年、企業の労務コストは、上がり続けている。
安倍政権による賃上げ要請はもちろん、昨年10月からは非正規雇用者への社会保険の加入要件緩和も行われた。
従業員が500人を超える企業は、「所定労働週20時間以上」「雇用期間の見込みが1年以上」
「賃金月額8万8000円以上」の、学生を除く短時間労働者に対し、社会保険を適用することが義務づけられる。
今後、「働き方改革」で正社員と非正規社員との「同一労働同一賃金」が実施されていけば、
非正規社員の賃金増加も見込まれ、企業側の労務コストは、さらに増える可能性も指摘されている。
そうした環境の中、企業が高齢者に熱い視線を注ぐのは、単に人手不足を補うためだけではない。
フルタイムではなく、少しずつ働くパートタイムでの雇用が、高齢者に向いているためだ。
ひとりの人間を雇用して、一定時間以上働いてもらえば、企業側は社会保険などの労務コストを負担しなければならない。
だが、2~3人の高齢者でワークシェアをしてもらい、フルタイムではなく、少しずつ働いてもらう。
そうすれば、『週20時間以上』や『月額8.8万円』といった枠組みをすり抜け、社会保険も回避できるわけだ。
この企業側の事情は、シニアにとっても、けっして悪い話ではない。
シニア向け再就職支援セミナーで講演を数多く手がける神谷敏康・ディアロゴス代表も、
年金などで生活のベースがあるのなら、フルタイムよりも、パートタイムの仕事のほうが、ふさわしいと語る。
「年金で生活費のベースがある高齢者は、無理してまで働く必要はありません。
生き甲斐を求めるシニアには、パートタイムの仕事でもいいでしょう、と話しています。
いくつになっても新しいことにチャレンジすることで、脳も体も活性化できますから」
一方で、シニアの求職で重要なのは、過去の自分にこだわらないことだ、と神谷氏は言う。
※ジェネラリストのキャリアは役に立たず
冒頭の合同面接会のように、55歳を過ぎた段階での求職で多くを望むのは難しい。
とくに自分が築いてきたキャリアを活かすことに固執すると、
マッチした仕事を見つけることが難しく、いつまでも職を得られない可能性もある。
厚労省東京労働局が発表した『関東労働市場圏有効求人・有効求職 年齢別バランスシート』(2016年12月)によれば、
60歳以上の「サービスの職業」では、有効求人倍率が2.86、「保安の職業」では4.80と高い一方で、
「事務的職業」は0.42、「管理的職業」は0.46と、ホワイトカラーの求人はわずかしかない。
「学歴・職歴が高度なシニアの男性は、自分が積み上げた経験、知識を活かした仕事を望む傾向が強いものです。
しかし、実際には管理職や事務職の求人そのものが非常に少ない。
すると、求職と求人のミスマッチが起きてしまい、シニアの人は仕事に就けないで、時間だけが経過してしまうことも」(神谷氏)
一部の求人には、年収が高いものもある。
だが、そうした求人の募集要項をよく見ると、「中国や東南アジアで、工場をオペレートした経験あり」
「欧米系企業と販売業務などで、協業や契約交渉の経験あり」など、
きわめて限定的な経験とそれに伴う能力をもつスペシャリストを求めているケースが少なくない。
そんな求人は、人事異動で多くの部署を回ったジェネラリストのキャリアとは一致しない。
だからこそ、シニアの転職では、自分とどう折り合いをつけるかが肝要だ、と神谷氏は言う。
「有名企業に勤めていた方でも、いろんな部署を回っていたようなキャリアでは、
自分が思うほど求人市場では売りにならない。
また、気力や体力で30代、40代と同じように働けるかといえば、それも難しい。
一方、彼らを求めている企業で言えば、小売りやサービス業が中心で、
場合によっては、最低賃金に近い仕事になってしまうのも致し方ないのでしょう。
要するに、過去のプライドは大切にとっておいて、
一からやり直すことに『新しい出会いややりがいがある』と思えるかどうかなんです。
もとの能力は高いはずなので、意識や行動を変えられれば、再就職もうまくいくと思います」
※ニッチな仕事ですこし働く
高齢者が積極的に望まれる職場があるとすれば、どのようなものなのか。
みなと55の池田氏は「隙間を埋めるニッチな仕事」とし、
一例として、時給1000円の高級料亭の洗い場を挙げた。
居酒屋では短時間で大量の食器を洗うのが仕事になるが、
高級料亭では高価な茶碗や食器を時間に追われるのではなく、
むしろ時間をかけてでも1枚1枚丁寧に洗い上げる人材が求められる。
大田区いきいきしごとステーションの佐々木文雄所長は、介護の分野でも法定資格なしでも活躍できる場があると指摘する。
「例えば、シーツの取り換えや、床にこぼした食材の清掃。
仕事はニッチなものですが、介護福祉士の国家資格がなくともできる。
こうした部分を元気なシニアが埋めれば、介護士もゆとりが生まれると思います」
では、実際に「ニッチな仕事」で「すこしだけ働く」というのは、どのようなものだろうか。
※感謝される仕事を
東京都港区の寺院。
そこで森裕平さん(68)は、水曜と日曜の週2日、朝8時から夕方まで時給1200円で働いている。
仕事は、墓地や周辺の清掃、あるいは高齢の檀家がお参りに来た際、水を満たした手桶を持ってお墓まで同伴するといった仕事だ。
森さんは、音楽プロダクションの社長を務めた時期もあり、国民的な人気を博した女性歌手を手がけた過去もある。
その時期は1600万円で購入した外車に乗り、横浜市に2億円の邸宅も建てた。
だが、事業や株に投資しすぎた結果、バブル崩壊とともに、全ての資産を失った。
森さんはそんな半生を語りつつ、「真面目に生きたことがない」「大人になりきれない」と自らを振り返る。
お金にも執着はない。
現在の年金は月約14万円で、お寺の仕事で得られるのは月額8万円ほど。
毎月の収入は20数万円にとどまる。
マンションの家賃は、孫の世話をすることで次女に負担してもらい、
それでも生活に足りない分は、13歳下の妻の収入で補う。
不足を自覚しながらも、あくせく稼ごうとしないのが、いまの暮らし方だ。
豪奢な生活とお金のない生活の両極を経験してきた森さんにとって、「働く」とはどういう意味をもっているのか。
「感謝されるのが、仕事ということだね。
お寺の仕事は、夕方には泥だらけで、クタクタ。
だけど、自分を正したい、律したい、とも思っている。
奉仕ではないが、近いものはあるかも」
その上で、シニアの働き方とは、そうした余裕があるべきだとも述べた。
「生活のために働くのは、当然のことだと思う。
一方で、老いていく中で、お金だけ、仕事だけに関心を奪われるのも考えもの。
働く喜びを感じられる距離感で、仕事ができるといいなと思いますね」・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
私は記事を読み終わった後、溜息を重ねたりし、やがて過ぎし2013年(平成25年)の秋に、
【 65歳定年制 5年多く働いても生涯賃金900万円しか増えぬ例も 】と見出しされたニュースを
思い重ねたりした。
この当時、多くの企業は65歳定年制を採用され始めた頃で、
『週刊ポスト』の2013年2月15・22日号に掲載された記事であった。
《・・4月から施行される65歳定年制(雇用延長義務づけ)導入で企業の賃金体系見直しが進んでいる。
三菱電機などが採用しているのが「定年年齢選択型給料」だ。
社員は55歳の春、会社からサラリーマン人生の大きな決断を求められる。
〈給料は現状維持のまま60歳で退職するか、それとも給料ダウンで65歳まで働くか〉──というものだ。
前者の60歳定年を選択すれば、本社勤務のままで給料はカットされないが、雇用延長(再雇用)はない。
後者を選べば、56歳で早期退職して子会社に再雇用され、給料(本給)が2割カット、
60歳以降はさらに5割に減らされる。
年収600万円の55歳サラリーマンの場合、前者を選ぶと、56歳から60歳までの5年間の総額で3000万円になる。
一方、後者を選択すると、65歳までの10年間の総額は3900万円だ。
5年間多く働いても生涯賃金の差はわずか900万円にすぎない。
「60歳で退職する人も、65歳まで雇用延長する人も生涯賃金は基本的に変わらないという考えです」
と三菱電機広報部は説明している。・・》
私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39)年の秋に、
大学を中退し、アルバイトや契約社員をしながら映画・文學青年の真似事して、やがて敗退して、
やむなくサラリーマンに転進する為に、コンピュータの専門学校で一年ばかり学んだ後、
この当時は映像・音響の大手メーカーの民間会社に、何とか中途入社出来たのは、1970年(昭和45年)年の春であった。
そして配属された音楽事業本部の片隅で勤めていた私は、
まもなくこの中のひとつの大きなレーベルが、外資系のレコード会社として新設され、私も移籍の辞令を受けて、
音楽に直接に関わる制作畑ではなく、商品、情報、経理、営業畑などの部門を異動したりして、
35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。
こうした中で幾たびもリストラが行われたりし、
やがて1998〈平成10〉年に音楽業界の売上の主軸となるCDがピークとなり、
この前後は、各レコード会社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。
これに伴ない、正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われ、リストラ烈風となった。
こうした中で、私の勤めいていた会社も、人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度が実施された。
私は1970年(昭和45年)の中途入社した身であったが、
この頃の時代の風潮としては、多くの御方と同様に、この会社で定年の60歳まで
勤め上げ意志を殆どの方たちは共有し、私なりの人生設計を持っていた。
そして激動の1998年(平成10年)の前後は、先輩、同僚、後輩の一部の人が、
やむなく第二の人生を選択し、早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、彼等の決断を見送っていた。
やがて私は1999年(平成11年)の新春、出向となった。
もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は都心にある本社に30年近く勤めたが島流しのように放り出され、
屈辱と無念さが入り混じ、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、朝は4時45分に起床して、帰宅は早くても夜9時過ぎが多く、奮戦したりした。
出向先は少し遠方地にある各レコード会社が音楽商品のCD、DVDなどを委託している物流会社で、
この中のひとつの物流センターに異動させられて、
販売店からの日々変動の激しい日毎の受注に応じた出荷作業、
或いは返品を含めた商品の出入り、保管などの業務管理を行っていた。
こうした中でセンター長をはじめとする正社員の5名の指示に基づいて、若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの120名前後の職場であった。
そしてまもなく、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、幾たびかリストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に、何とか定年退職を迎えられたした。
そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。
しかしながら根底の実情は、この当時は大企業も盛んにリストラが実施され、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もない私は、
せいぜい月10万円ぐらいで、雑役業務の職場しか考えられず、
何よりも私なりに、出向先で体力も気力も使い果たしてしまった。
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、教育資金も不用であったりし、
程ほどの老後資金がプールできたりし、私は働くことを卒業して、年金生活を始めることとした。
このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、遥かに遠い存在であるが、
私は最期には出向であっても、途中で挫折せずに程ほどの年収を得て勤務でぎたことは、
結果的には幸運の星と思ったりしている。
過ぎし1998年(平成10年)から、2012年(平成24年)の頃まで、デフレ経済の烈風の中、
大企業の社員さえも、年収は横ばいと知り、私は驚き、溜息をしてきたひとりである。
私が長らく勤めた中小業の時は、昭和の終わる1989年(昭和64年)の頃までは、
年齢給、成果給、そして家族・住宅などの諸手当があり、その後は成果給が大半以上に拡大してきた。
そしてボーナスと称される成果に応じた賞与があった。
こうした中で、たまたま私は40代には年収は900万、やがて1000万となり、
2004〈平成16〉年の秋にサラリーマンを卒業した。
この当時の民間会社の定年退職時は、殆どの企業は60歳が多く、わずか一部の人は栄進されたりしたが、
大半の人たちは、第二の人生で、年金が満額(報酬比例部分と定額部分)になる時期まで自ら求職し働いたしていた。
或いは一部の人だけが、勤めいた関連先の会社に年収が低下しながらも、勤められたりしていた。
そして私のように退職時と共に年金生活に入った方もいる。
しかしながら、政府の指導の下で、2013年(平成25年)の4月から施行される65歳定年制(雇用延長義務づけ)導入で、
民間会社は大きく余儀なくされ、私は遅ればせながら大企業の三菱電機の実態を学んだ・・。
勤められている方には、ご家族のそれぞれの事情により決断せざるを得ないが、
《・・65歳まで雇用延長する人・・60歳で退職する人よりも5年間多く働いても
生涯賃金の差はわずか900万円にすぎない・・》と記載されているが、私は異論がある。
大企業も厚生年金、健康保険などは、会社と個人が折半であるので、
60歳で退職する人は、この後の健康保険は自己負担となり、
やがて厚生年金の受給時からは勤続年数より大きく差異があるので、《生涯賃金の差は900万円》は誤りで、これ以上にある。
問題があるとすれば、《・・56歳で早期退職して子会社に再雇用され、給料(本給)が2割カット、
60歳以降はさらに5割に減らされる・・》こうした大企業の三菱電機の社員の一部の人が思案した時、
職責、職場の変貌の対処、そしてプライドに耐えられるか、だけである。
私はたまたま時代こそ違え、年収も下がらず出向時代を5年ばかり体験してきたので、
悩ましく涙と悦びを秘めた深情は少し理解できたりしている。
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