夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

「70歳まで雇用延長」の現実 給料は安く、会社での居心地悪くなる 、時代こそ違うが私は・・。

2020-11-06 15:24:36 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の76歳の身であるが、
先程、ときおり愛読している公式サイトの【 NEWSポストセブン 】を見たりしていた。


こうした中で、『 「70歳まで雇用延長」の現実

          給料は安く、会社での居心地悪くなる 』      
                                  と見出しを見たりした。


私は東京の調布市の片隅で、雑木の多い小庭の中で古惚けた戸建に住み、
近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受けた。


やがて、東京オリンピックが開催された1964年〈昭和39年〉秋、
満二十歳となり大学2年の時に映画の脚本家になりたくて中退し、
アルバイトをしながら養成所で映画青年の真似事、

まもなく契約社員をしながら文学青年の真似事をしたが、
やがて敗退した。
                  
この後、何とか大手の民間会社に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、

困苦することも多かったが、卒業した。


         

まもなく1970年〈昭和45年〉の春、
この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
音楽事業本部のある部署に配属されたのは、満25歳であった。

こうした中、まもなく音楽事業本部のあるひとつの大きなレーベルが、

外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこの新設されたレコード会社に転籍させられたりした。

そして制作に直接かかわらないコンピュータを活用した情報畑を20年近く配属されたり、
経理畑、営業畑などで奮戦した。
                                   
こうした中で、1998年(平成10年)に中小業の多い音楽業界全体の売上げピークとなり、
この少し前の年から各社はリストラ烈風となり、やがて私も出向となり、
各レコード会社が委託している音楽商品のCD、DVDなどを扱う物流会社に勤めたりした。

そして遠方地に5年半ばかり通勤し、何とか2004年(平成16年)の秋に出向先で、
定年を迎えることができたので、敗残者のような七転八起のサラリーマン航路を過ごした。




こうした中、私は出向身分であったので、リストラ烈風の中、
社員を自主退職させる希望退職優遇制度などの免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。


しかしながら根底の実情は、この当時は大企業も盛んにリストラが実施されている中、
たとえ私が定年後に新たな職場を探しても、これといった突出した技術もない私は、
自身の力量のなさを悟(さと)ったりした・・。

そして何よりも遠い勤務先の出向先で、私なりに奮闘して体力も気力も使い果たしてしまったので、
やむなくサラリーマン生活を卒業し、年金生活を始めた・・。

このように私のつたないサラリーマン時代であり、もとより一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などに
38年前後を邁進し栄達されたエリートの御方には、遥かに遠い存在である。

  

       

そして年金生活は、サラリーマン航路は、何かと悪戦苦闘が多かった為か、
つたない半生を歩んだ私でも、予測した以上に安楽な生活を享受している。

         
このような傷の多い私は、今回の《・・「70歳まで雇用延長」の現実 ・・》の実態を学びたく、
記事を精読してしまった。

この記事の原文は、『週刊ポスト2020年11月6・13日号に掲載された記事で。
関連の【 マネーポストWEB 】の『暮らしのマネー』に10月28日に配信され。
無断であるが転載させて頂く。


 
《・・「定年の崩壊」が近づいている。

来年4月に「70歳就業法」と呼ばれる改正高年齢者雇用安定法が施行され、
現在は65歳までの継続雇用制度を70歳に引き上げるか、
「70歳定年制」の導入、「定年廃止」など、
社員が70歳まで働き続けることができる仕組みをつくる努力義務が、
事業主に課せられる。

かつてサラリーマンにとって定年は、退職する年齢だった。
日本企業の8割近くは、現在も「60歳定年」制をとっているが、
定年後の雇用延長期間が10年(70歳)へと延ばされて、
「人生50年間勤務」が当たり前の時代になれば、
定年の60歳は長い会社人生の「退職金をもらって給料が下がる日」にすぎなくなる。

それが定年と退職が完全に切り離される「定年の崩壊」だ。

その先には75歳までのさらなる雇用年齢引き上げが控えている。

政府は「日本の高齢者は10歳若返っている」と
今後も生涯現役社会に対応した雇用制度改革を進めていく方針で、
 「高齢者」の定義そのものを75歳まで引き上げる議論さえある──。


今年12月に60歳の定年を迎えるA氏は、迷っている。
雇用延長で70歳まで働くべきかどうか。

30代の頃にバブル崩壊で勤めていた会社が倒産、
大手メーカーの流通子会社に転職して、25年懸命に働いてきた。
ストレスで体を壊したことは、何度もある。

「人生100年と言われるけれども、80歳になる頃に元気でいる自信はない。
あと5年、65歳までは雇用延長で、会社に残るつもりですが、
その先の15年くらいは、趣味の車いじりとか、
これまでとは違う人生を楽しみたい。

働くだけの人生は、もういいというのが正直なところです」(A氏)



雇用延長を選ぶと、給料は半分以下に減る。
心配なのは、定年後も会社に残った先輩たちは、
待遇の悪化でやりがいを失って、2年ほどで辞めていくケースが多いことだ。

再就職も考えたものの、若い頃はSE(システムエンジニア)でパソコンは得意だが、
ブランクが長すぎて、いまさら現役に戻るほどのスキルはない。

「やっぱり雇用延長は、居心地が悪いんでしょうね。
それでも、住宅ローンがまだ残っているから、
結局、生活を考えると我慢しながら70歳まで、
会社にしがみつくのかもしれません」(A氏)

3人の子供たちが定年を前に、巣立ってくれたのが救いだという。



「定年後も会社に残ろうと漫然と考えていた人ほど、
雇用延長で不幸になる」

そう指摘するのは社会保険労務士でファイナンシャルプランナーの北村庄吾氏だ。

高齢社員にすれば、現役時代と能力は変わっていないし、
若手よりいい仕事ができる自信がある。

それなのにキャリアを活かせる満足な仕事は与えられず、
同じ時間働いても、給料は安い。

それでプライドが耐えられずに、辞めていく人が少なくないのが、
雇用延長の現実だ。


「経営者から見れば、国の政策で仕方なく、65歳まで雇用延長させられている。
それがコロナで経営環境が厳しいなか、来年からは70歳まで努力義務になる。

企業は、必要なスキルのある人材は残ってほしいが、
多くの“お荷物”の高齢社員は追い出したいのが本音です」(北村氏)
これから雇用延長は、ますます居心地が悪くなる。・・》

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
            


 私は記事を読み終わった後、溜息ばかり重ねた・・。  
                  
私は1970年(昭和45年)の中途入社した身であったが、
この頃の時代の風潮としては、多くの御方と同様に、この会社で定年の60歳まで
勤め上げ意志を殆どの方たちは共有し、私なりの人生設計を持っていた。

そして激動の1998年(平成10年)の前後は、先輩、同僚、後輩の一部の人が、
やむなく第二の人生を選択し、早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
 私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、彼等の決断を見送っていた。 




やがて私は1999年(平成11年)の新春、出向となったりした。
          
もとより出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
私は都心にある本社に30年近く勤めたが島流しのように放り出され、
屈辱と無念さが入り混じ、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、朝は4時45分に起床して、帰宅は早くても夜9時過ぎが多く、奮戦したりした。
                    
そしてまもなく、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元の会社でも、幾たびかリストラ烈風となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
 私は出向先で2004年〈平成16年〉の秋に、何とか定年退職を迎えられたした。
     

私は最期には出向であっても、途中で挫折せずに程ほどの年収を得て勤務でぎたことは、
 結果的には幸運の星と思ったりしている。


            

過ぎし1998年(平成10年)から、2012年(平成24年)の頃まで、デフレ経済の烈風の中、
大企業の社員さえも、年収は横ばいと知り、私は驚き、溜息をしてきたひとりである。

私が長らく勤めた中小業の時は、昭和の終わる1989年(昭和64年)の頃までは、
年齢給、成果給、そして家族・住宅などの諸手当があり、その後は成果給が大半以上に拡大してきた。
そしてボーナスと称される成果に応じた賞与があった。

こうした中で、たまたま私は40代には年収は900万、やがて1000万となり、
2004〈平成16〉年の秋にサラリーマンを卒業した。

この当時の民間会社の定年退職時は、殆どの企業は60歳が多く、わずか一部の人は栄進されたりしたが、
 大半の人たちは、第二の人生で、年金が満額(報酬比例部分と定額部分)になる時期まで

自ら求職し働いたしていた。

或いは一部の人だけが、勤めいた関連先の会社に年収が低下しながらも、勤められたりしていた。
そして私のように退職時と共に年金生活に入った方もいる。



                      
 このように過ぎし年に体験したり、教示されたりしてきたが、

今回の記事、「70歳まで雇用延長」は勤める意志のある御方は、
 益々加速され烈風の「定年崩壊」の時代を迎える。

私はたまたま時代こそ違え、屈辱と悦びが複雑に交錯される深情は、
 少しは理解でき、無力な私は瞼(まぶた)が熱くなったりしている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする