夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

俳優・宝田明さんに、ご冥福をした後、氏の御一家の、敗戦後の満州よりの苦難の帰還、思いを深めて・・。

2022-03-19 15:18:07 | 喜寿の頃からの思い

先程、ヤフー・ジャパンより配信されたニュースを見ている中で、
『 宝田明さん死去に 女優・司葉子さんが追悼コメントを発表 』、
と題された見出しを見たりした。

私は小学4年生の頃から、独りで映画館に行き、
スクリーンから多彩な劇映画に圧倒的に魅せられて、映画少年となったりした。

やがて高校生活を過ごしたりし、映画は相変わらず映画館に通い鑑賞し、
映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読し、付随しているシナリオを読んだりしていた。

こうした中で、脚本家の橋本忍さんの『切腹』(主演・仲代達矢)を脚色された作品
(原作・滝口康彦、監督・小林正樹、1962年)を観て、圧倒的に感銘させられ、
やがて東京オリンピックが開催された大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。


                                                         
やがて専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、数多くの作品を映画館で鑑賞しながら、シナリオの習作をした。

その後、養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、
映画で生活をするは大変だし、まして脚本で飯(めし)を喰(た)べていくは困難だょ、
同じ創作するなら、小説を書きなさい、このような意味合いのアドバイスを頂いたりした。

やがて私は契約社員の警備員などをしながら、生活費の確保と空き時間を活用して、
文学青年のような真似事をして、この間、純文学の新人賞にめざして、習作していた。
                      
うした中で確固たる根拠もなかったが、独創性はあると思いながら小説の習作したりし、
純文学の新人コンクールに応募したりしたが、当選作の直前の最終候補作の6作品の直前に敗退し、
こうしたことを三回ばかり繰り返し、もう一歩と明日の見えない生活をしていた。

こうした時、私の実家で、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤された。

結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向を決意した。



こうした映画青年の真似事をして、敗退した私は、

俳優・宝田明の出演された作品は、余り鑑賞はしてこなかったが、
女優・司葉子さんが、追悼されるのは、最適だ、
と思いながら、記事を読んでしまった・・。

この記事は、【TBS NEWS】に於いて、3月18日に配信され、
無断であるが、記事を転載させて頂く。

《・・

TBS系(JNN)
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。 



私は俳優・宝田明さんから感じられたことは、
最も洋装が似合う男優の上、まれな華のある二枚目のスター、
と私なりにまぶし気に見上げる御方であったりした。

しかしながら、この人生は誰しも、光と影を秘めて人生を過ごすが、
今回の俳優・宝田明さんが、過ぎし年に、幼年期の苦難を発露されていた・・。

そして私は記事を読みながら動顛しながら、やがて涙ぐんだりしたことを、
思い馳せたりした・・。

そして私は、感動の余り、ひとつの投稿文を2015年8月13日に於いて、投稿した。

俳優・宝田明さんのご一家、敗戦後の満州より苦難の帰還に、涙を浮かべて・・。 

今回、あえて再掲載をさせて頂く。


私は1944年〈昭和19年)9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に敗戦となった。

そして敗戦時は一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
戦争の過酷で悲惨な状況は、戦地に行かされた親戚の叔父さん、近所の小父さん、
或いは近現代史、随筆、映画などで学んだりしてきた。

今年は戦後70年に伴い、新聞、総合月刊誌などで特集記事が掲載されたり、
テレビの番組でも、数多く放送されている。

私が購読している読売新聞の朝刊に於いても、『戦後70年』の連載記事が掲載され、
私は襟を正して読み、多々教示されている。

昨日の12日は、海外の地で敗戦に遭遇した人々を掲載されていた。
転記させて頂くと、
《・・敗戦時、海外には軍人・軍属、民間人を合わせ約660万人の日本人がいた(厚生省「援護50年史」)。
最も多かったのが満州で、約155万人。
満州を占領したソ連は在満の日本資産を持ち去るばかりで、邦人保護に目を向けなかった。

頼みの綱の関東軍も満鉄も1945年9月末までに消滅し、残された日本人は寄る辺を失う。・・》



私は二十歳の頃に、藤原ていさんの『流れる星は生きている』を読み、
1943年に新京の気象台に赴任する夫(後年、作家の新田次郎=本名・藤原寛人)と共に満州に渡り、
やがて敗戦後の1945年、夫を一時残して、子供を連れ満州より引き揚げ苦難を学んだりした。

ここ10年は、ご子息の数学者でエッセイストの藤原正彦さんの随筆で、
この時の悲惨な状況を教示されたりしてきた。

或いは作家の五木寛之さんは、敗戦時に平壌にいて、ソ連軍進駐の混乱の中では母死去し、
やがて父と共に幼い弟、妹を連れて38度線を越えて開城に脱出し、1947年に福岡県に引き揚げる状況を
ときたま随筆で公表されたのを、ここ30数年読んだりしてきた・・。



昨日の『戦後70年』は、俳優・宝田明さんが敗戦時は満州の地で、
日本の地に引き揚げるまでの過酷な実態が掲載されていた。
やがて、記事を読み終わった時、私は涙があふれていたことに気付いた・・。

無断であるが記事を要約させて頂く。

《・・12歳で満州(現中国東北部)から引き揚げるまで、日本の地を踏んだことがありませんでした。
父は、朝鮮総督府の海軍武官だった祖父の勧めで、鉄道技師として朝鮮総督府鉄道に入り、私も朝鮮で生まれました。

2歳の時、父が南満州鉄道勤務になり、満州に移りました。
小2から終戦まで暮らしたのはハルビンです。

1945年8月9日夜、轟音ごうおんで家族全員が跳び起きました。
敵の飛行機が旋回し、ハルビン駅近くに火柱が立っていました。
そして15日。玉音放送で敗戦を知り、五臓六腑をえぐりとられたように、全身から力が抜けました。

日本の軍隊は武装解除し、無政府状態の街にソ連軍が侵攻してきたのです。
ソ連兵は略奪、暴行、陵辱の限りを尽くし、日本人は子ヤギのように脅おびえていました。

生きるために何でもやりました。
靴磨きやたばこ売り。ソ連兵から黒パンの切れ端をもらうためです。

そのうち強制使役の命令が下りました。
父と中学生の三兄と私の3人が毎日交代で、ハルビン駅のそばから貨物列車まで石炭を運びました。
列車には関東軍の兵隊さんたちが次々に乗せられ、北へ向かいました。
シベリア抑留のために働いたのかと思うと、辛つらいです。



出征した兄が乗っているかもしれないと、私はホームを歩き回りました。
その時です。見回りのソ連兵に撃たれたのです。

転げるようにして家に戻りました。右腹が熱くて仕方がありません。血だらけでした。
1日我慢したら、はれて悪化するばかり。元軍医という人に来てもらい「緊急手術」です。

麻酔も手術道具もありません。
裁ちばさみの刃を焼いて消毒し、傷口を切り開きました。
出てきたのは、使用が禁止されているはずのダムダム弾。
鉛がつぶれて体内に広がる恐ろしい銃弾でした。
糸も針もないので傷口はそのままでした。

46年11月、日本への引き揚げが決まりました。
最も気がかりだったのは、三兄が強制使役に行ったまま、半年以上戻って来なかったことです。

やむなく両親と弟と私の4人で出発することになりました。
父の生家がある新潟の住所を紙に書いてホームの鉄骨に貼り、「必ず来い」と呼びかけ文を付けました。

引き揚げ船が出るのは、南満州の葫蘆ころ島。
ハルビンから列車に乗り、野を越え山を越えて、2か月半かかりました。
食べ物もなく、赤ん坊を死なせるよりはと、途中で中国人に託す人もいました。
弟は6歳でしたが、よく頑張って付いてきたと思います。

博多港から列車を乗り継いで、新潟に着いた時はぼろぼろでした。



生活のため、母は魚の行商を始めたのですが、
47年冬のある日の午後、母の手伝いをしていると、
軍隊の外套がいとうをまとい、顔に傷のある男の人が通り、役場の場所を聞かれました。

1時間ほどで戻って来て、何度もこっちを振り返るのです。
それが、ハルビン以来、行方不明だった三兄だったとわかった時はもう……抱き合って、涙、涙でした。

兄はソ連軍の兵舎で飯炊きをさせられ、やっと解放されて社宅に戻ったら誰もいない。
一人で南へ南へと歩き、密航船に乗るためお金を稼ぎ、九州上陸後は日本海沿いに歩いてたどり着いたというのです。
15歳の少年にはあまりに過酷な体験。

自分は家族に見捨てられたという思いが消えず、しばらくして家を出ました。

私が東宝に入って、グラビアに出るようになると、「よかったな。足しにしろ」と、300円を送ってきました。
本当は心の温かい三兄でした。63歳で亡くなったのが悲し過ぎます。
次兄は復員しましたが、長兄は戦死しました。

無辜(むこ)の民をも引きずり込んで、一生を狂わせてしまう。
それが戦争なのです。・・》



私は三兄が満州のハルピンに取り残こされて、《・・ソ連軍の兵舎で飯炊きをさせられ、
やっと解放されて社宅に戻ったら誰もいない。
そして15歳の三兄は、動乱のハルピン、やがて朝鮮半島、独りで南へ南へと歩き、
困窮しながら密航船に乗るためお金を稼ぎ、
九州上陸後は日本海沿いに歩いて、念願の新潟にたどり着いた・・》

こうした状況を思い馳せたりしていると、私は涙があふれたのである。

かくも戦争は余りにも、悲惨で過酷である。



このような投稿文を読み返して、改めて亡き宝田明さんには、
大変な時代を歩まれ、ご冥福をお祈りします、と心の中で呟(つぶや)いたりした。
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