私は東京郊外の調布市に住む年金生活67歳の身であるが、
昨日、いつものように自宅の近くの野川の遊歩道を歩いた。
平年より熱いくらいの5月下旬のような陽気になり、スポーツシャツの長袖を腕まくりし、
川風が薫風のように感じられ、身も心も爽快であった。
このような時に、
《 学童が下校の時となりました・・みんなで~学童を・・護(まも)りましょう・・》
と私の住む街の調布警察署から、小学校の下校時に、街中に聞こえるように広報されているのが、
聴こえてきた・・。
まもなく学童が数人グループ、或いは10人ぐらい群れて歩いてくるのが見えて、
それぞれ談笑を重ねながら、ときおり歓声もまじえて、歩いてきた。
私はすれ違った後、10メートルぐらい遅れて、たったひとりの学童の男の子が、トボトボと歩いてきて、
やがて私はすれ違った・・。
この後、私は小公園のベンチに座り、数多くの学童の後ろ姿を見たりした後、
たったひとりの男の子の後ろ姿がなぜか気になったりした。
私は東京郊外の世田谷区に隣接した北多摩郡神代町(現・調布市)で、
1944〈昭和19)年の秋に農家の子として生を受けた。
この当時の生家の地域に於いては、田畑、竹林、雑木林が圧倒的に多く、緑豊かな町村であり、
生家は祖父と父が中心となって、程々に広い田畑を小作人の手を借りて、耕していた。
私は長兄、次兄に続いて生を受けた3男坊となったが、
この当時は戦時中で、食糧、医療条件が乏しく、やむなく病死することもあったが、
跡継ぎは長兄であるが、万一の場合は次兄がいたので万全となり、
このような中で、祖父と父は三番目の児として女の子を期待していた思いがあった。
やがて、私の下に1947(昭和22)年1月に2歳下の妹が生まれ、
祖父と父は、女の子を待ち焦がれたように溺愛し、
私は幼児なりに疎外されたように感じで過ごしていたが、
いじけた可愛げのない子の上、無口で屈折した幼年期を過ごした。
私は1951〈昭和26〉年の4月、地元の小学校に入学した。
そして1953(昭和28)年の3月になると、
前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、42歳の若さで亡くなった。
祖父も跡継ぎの父が亡くなり、落胆の度合いも進み、
翌年の1954(昭和29)年の5月に亡くなった。
どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚の叔母、
そして長兄は中学1年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落したような状況となり、生活は困窮となった。
祖父が生前だった時、村役場の要職を兼ねて農業をしていたが、
祖父も父も大学で学ぶことが出来なかったので、
跡取りの長兄に期待をかけ、小学5年生の頃から、家庭教師を付けたりした。
長兄は当時通っていた村立小学校の創設60年の卒業生の中で、
祖父が亡くなる直前、初めて国立の中学校に入学できて、周囲の期待に応(こた)えた。
そして長兄は旧家の跡取りであったので、たとえ没落しても、冠婚葬祭などは中学生の身であっても、
主(あるじ)の役割として、参列したりしていた。
次兄は活発な伸び伸びとして育成されたが、
それなりに学校の成績は、クラスで一番と称せられていた。
このした中で、私は小学校に入学しても、通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生であった。
そして私は、学校に行くのが苦手な児となった・・。
兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、と担任の女の先生がため息まじりに言われたりしていた。
この頃、音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。
学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。
私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。
結果として、通信簿『2』であった。
私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、或いは家の留守番をしている時は、
♪笛にうかれて 逆立ちすれば
山が見えます ふるさとの
わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし
【『越後獅子の唄』 作詞・西條八十、作曲・万城目正 】
私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。
そして、私が気分が良い時は、
♪私は街の子、田舎の子・・、
と勝手に『私は街の子』を変更して、唄ったりしていた。
小学校の後年になると、映画の【ビルマの竪琴】で『埴生の宿』、
【二等兵物語】』で『ふるさと』を知り、
これこそ私が望んでいた音楽だ、と感動しなから、深く感銘を受けたりした。
しかし、この名曲の2曲は人前で唄うことはなく、
クラスの仲間からは、この当時の私を『三原山』とあだ名を付けていた・・。
普段は無口ながら温和な少年であったが、ときたま怒り出したら、
学友たちは手を付けられず、お手上げ状態となっていたらしい。
伊豆七島の中に大島があるが、この大島に三原山が活火山で、
不定期に爆発し惨事をもたらしていたので、この由来からであった。
この後、私が中学校に入学した1957(昭和32)年の春の頃から、
突然におしゃべりな少年に変貌し、陽気なふるまいとなり、
母や叔母、そして兄妹も驚き、今日に至っている。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村
にほんブログ村
昨日、いつものように自宅の近くの野川の遊歩道を歩いた。
平年より熱いくらいの5月下旬のような陽気になり、スポーツシャツの長袖を腕まくりし、
川風が薫風のように感じられ、身も心も爽快であった。
このような時に、
《 学童が下校の時となりました・・みんなで~学童を・・護(まも)りましょう・・》
と私の住む街の調布警察署から、小学校の下校時に、街中に聞こえるように広報されているのが、
聴こえてきた・・。
まもなく学童が数人グループ、或いは10人ぐらい群れて歩いてくるのが見えて、
それぞれ談笑を重ねながら、ときおり歓声もまじえて、歩いてきた。
私はすれ違った後、10メートルぐらい遅れて、たったひとりの学童の男の子が、トボトボと歩いてきて、
やがて私はすれ違った・・。
この後、私は小公園のベンチに座り、数多くの学童の後ろ姿を見たりした後、
たったひとりの男の子の後ろ姿がなぜか気になったりした。
私は東京郊外の世田谷区に隣接した北多摩郡神代町(現・調布市)で、
1944〈昭和19)年の秋に農家の子として生を受けた。
この当時の生家の地域に於いては、田畑、竹林、雑木林が圧倒的に多く、緑豊かな町村であり、
生家は祖父と父が中心となって、程々に広い田畑を小作人の手を借りて、耕していた。
私は長兄、次兄に続いて生を受けた3男坊となったが、
この当時は戦時中で、食糧、医療条件が乏しく、やむなく病死することもあったが、
跡継ぎは長兄であるが、万一の場合は次兄がいたので万全となり、
このような中で、祖父と父は三番目の児として女の子を期待していた思いがあった。
やがて、私の下に1947(昭和22)年1月に2歳下の妹が生まれ、
祖父と父は、女の子を待ち焦がれたように溺愛し、
私は幼児なりに疎外されたように感じで過ごしていたが、
いじけた可愛げのない子の上、無口で屈折した幼年期を過ごした。
私は1951〈昭和26〉年の4月、地元の小学校に入学した。
そして1953(昭和28)年の3月になると、
前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、42歳の若さで亡くなった。
祖父も跡継ぎの父が亡くなり、落胆の度合いも進み、
翌年の1954(昭和29)年の5月に亡くなった。
どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚の叔母、
そして長兄は中学1年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落したような状況となり、生活は困窮となった。
祖父が生前だった時、村役場の要職を兼ねて農業をしていたが、
祖父も父も大学で学ぶことが出来なかったので、
跡取りの長兄に期待をかけ、小学5年生の頃から、家庭教師を付けたりした。
長兄は当時通っていた村立小学校の創設60年の卒業生の中で、
祖父が亡くなる直前、初めて国立の中学校に入学できて、周囲の期待に応(こた)えた。
そして長兄は旧家の跡取りであったので、たとえ没落しても、冠婚葬祭などは中学生の身であっても、
主(あるじ)の役割として、参列したりしていた。
次兄は活発な伸び伸びとして育成されたが、
それなりに学校の成績は、クラスで一番と称せられていた。
このした中で、私は小学校に入学しても、通信簿は『2』と『3』ばかりの劣等生であった。
そして私は、学校に行くのが苦手な児となった・・。
兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、と担任の女の先生がため息まじりに言われたりしていた。
この頃、音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。
学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。
私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。
結果として、通信簿『2』であった。
私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、或いは家の留守番をしている時は、
♪笛にうかれて 逆立ちすれば
山が見えます ふるさとの
わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし
【『越後獅子の唄』 作詞・西條八十、作曲・万城目正 】
私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。
そして、私が気分が良い時は、
♪私は街の子、田舎の子・・、
と勝手に『私は街の子』を変更して、唄ったりしていた。
小学校の後年になると、映画の【ビルマの竪琴】で『埴生の宿』、
【二等兵物語】』で『ふるさと』を知り、
これこそ私が望んでいた音楽だ、と感動しなから、深く感銘を受けたりした。
しかし、この名曲の2曲は人前で唄うことはなく、
クラスの仲間からは、この当時の私を『三原山』とあだ名を付けていた・・。
普段は無口ながら温和な少年であったが、ときたま怒り出したら、
学友たちは手を付けられず、お手上げ状態となっていたらしい。
伊豆七島の中に大島があるが、この大島に三原山が活火山で、
不定期に爆発し惨事をもたらしていたので、この由来からであった。
この後、私が中学校に入学した1957(昭和32)年の春の頃から、
突然におしゃべりな少年に変貌し、陽気なふるまいとなり、
母や叔母、そして兄妹も驚き、今日に至っている。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪
にほんブログ村
にほんブログ村
お兄さんの2人は優秀だったのに、と担任の女の先生がため息まじりに言われたりしていた。
私は幸いな事に長男でしたので、夢逢人さんのような目にあいませんでしたが、私の同級生には「お姉さんはよくできたのに....。」と、よく言われていた生徒がいました。
今でも先生方はこんな事を言うのでしょうかね?
言われているなら、いつまでも子供心に傷が残るので止めてほしいです。
今の教師の皆様には、子供心が分かる先生になってほしいです。
あの当時は、校長、教師は、何かと父兄会(・・死語)、生徒から敬(うやま)れた良き時代でした。
ここ数10年は、親御さんの権限は強い中、
教師は生徒から暴力、陰湿ないじめがあったり、
或いは生徒間でいじめが多発しても、教師は見て見ないふりし、
校長、教育委員会は世評におびえて、
おかしな時代と私は憂いています。
私は教師から指摘され、不出来なことに困惑しながら反省をして、
やかて高校になると、自分の敵は自分です、
と目覚めましたので、後年の感情から、
良きアドバイスであった、と苦笑している次第です。