夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『所得税の確定申告書』、この時節を迎え、無力な齢ばかり重ねた私でも作成し・・。

2012-02-15 10:44:27 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の身であり、
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後34年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

1月下旬の頃に所属地域の武蔵府中税務署から、
『所得税の確定申告書』の用紙等在中の郵送物が配達され、
《 申告書の提出は、2月16日から3月15日までです 》
と平年のように明記されていたので、
昨日から所得税の確定申告書を作成し始めている・・。

2004(平成16)年の定年退職した以前の現役のサラリーマン時代は、
12月初旬に社内の担当部署に年末調整の書類を提出すれば、
医療控除、不動産等の用件がない限り、簡易であった。

この後は、私は年金生活の身となり、私は厚生公的年金、企業年金、個人年金、
家内は我が家を新築した後、3年ばかり勤めて支援してくれた以外は専業主婦の期間であり、
一昨年度より厚生公的年金、企業年金をわずかな額であるが頂いているので、
私たち夫婦は年金を頂く夫婦となっている。

私は高齢者の少しボケた身なので、
関係先から昨年の12月頃に送付されてきた源泉徴収票を指定の封筒に入れているので、
これを取り出したりする。
そして医療費控除に関する病院の医療費、これに関連した治療の薬代金、
或いはドラッグ・ストアーで買い求めた薬代金などの領収書を取りだして区分したりした。

我が家は私が高齢者3年生の67歳、家内は62歳の身となり、
私は小心者であり体力は衰えてきたが、気力だけは若者に負けたくないと思っているが、
家内は体力は私よりあると私は実感しているが、胃腸に弱く、何かと薬のお世話になることも多い。
そして、たまたま昨年は家内の歯の治療を行ったりしたので、程ほどの額となったし、
我が家としては、昨年度の領収書が遥かに多くなり、苦笑したりした。

こうした領収書を整理し、電卓で算出したりした。

この後は、国税庁のホームページの『確定申告書等作成コーナー』を開き、
源泉徴収票などの書類に基づいて、入力した。

そして、『所得税の確定申告書』の用紙の最後のページに添付されている『下書き用』に記入した。

私は幾年過ぎても『収入金額等』、『所得金額』、『所得から差し引かれる金額』、『税金の計算』などの各項目、
そして算出方法が解からないので、
この国税庁のホームページの『確定申告書等作成コーナー』を頼りにして、
項目、計算結果を転記している。

この後は、『下書き用』から本書の『所得税の確定申告書』に転記して完成をさせて、
添付するべき源泉徴収票などの書類を同封して、郵送したりしている。

つたない私は、殆ど毎年このようにしている。


もとより税金の問題は、幾数千年の古今東西のどの国家に於いても、
国民に対してどのくらい負担して頂くことは、最も悩ましい難題である。

しかし国家の形成維持、発展をするには、ある程度の税金を国民に負担しなければ、
もとより社会インフラ、社会保障、教育、国防等は成立しないので、
国民は程ほどの負担の責務があると確信している。

問題はどの方に、どの世代に負担の増減が最大の問題となる。

私のような年金の方たちの世代を一方的に軽減すれば、
現役で働いて下さる肝要な諸兄諸姉の多くの人々に加重負担となるので、
これは健全な生活を営む上で、絶対に避けなければならない。

むしろ私は、ここ10数年の社会風潮に於いて、
孫の世代が、祖父、祖母に何かしらの金銭にすがる状況、
或いは孫に懐(なつ)いでもらいたい余り、
祖父、祖母が優先的に金銭を与える風潮をなくしてもらいたい、
と思ったりしているのである。

程ほどの年金を蓄えて、孫の世代に渡すより、
祖父、祖母は、生きた知恵を孫に教示するのが、望ましいと思考している。

ここ数年、国家の財政は益々悪化し、年金世代が一方的に国にすがるのは、
孫の世代に破綻をまねくと憂いたりしている。

私の日常の生活は、多くの高齢者と同様に、
年金の収入では足りないので、程ほどの貯金を取り崩している。
そして、清く貧しく美しくのモットーで日常を過ごしているが、
海外の主要国から見れば、日本の年金世代の人々は豊かである、と確信を深めたりしている。

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『バレンタインの日』、高齢者の私は恥ずかしながら『板チョコ』3枚となり、微苦笑させられ・・。

2012-02-14 10:00:34 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、結婚前後の5年を除き60年を超えている。
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

今朝、いつものように6時半に2階の寝室で目覚め、ぼんやりと一階の居間に下り立つと、
居間の食卓テーブルに、ひとつの包があり、その下に便箋で、
《 いつもコーヒーを淹れて下さり
            感謝致します
  これからも茶坊主をお願いしますね 》

このように家内の特有の女文字で綴られて、私は読みながら、苦笑したのである・・。

そして包を開けると、板チョコが3枚入っていた。
http://catalog-p.meiji.co.jp/products/sweets/chocolate/010101/07024.html
☆【明治 公式サイト】<==商品情報 <=ブラック・チョコレート☆

私が定年前の現役サラリーマン時代は、家内からは程々に高価なハート・マークのような品を頂いたが、
定年退職後の年金生活になると、なぜかしら板チョコが一枚となったのである。
そして一昨年に高齢者入門の65歳となり、このお祝いのせいか、
ミルクチョコレート、ブラックチョコレート、ホワイトチョコレートの板チョコ3枚に昇格した。

日常の買い物担当の私は、最寄りのスーバーで買い物をしている時、
昨今ときおり、添付表示したブラック・チョコレートを買い求めて、食べたりしているので、
3種類のチョコからブラック一色に変わったのかしら、微苦笑したりした。

そして家内の便箋に綴られたメッセージの《茶坊主》は、
年金生活を始めた時、家内は掃除、洗濯、料理などをして貰うので、
肩身が狭くなった私は、せめて日常の買い物ぐらいは私がしなければという思いで専任者となり、
その上に家内の飲むコーヒー、煎茶などを朝夕はもとより日中のひとときでも、
私が淹れて家内の前に置く茶坊主に徹してきている。

このような状況もあるので、今回の板チョコは義理チョコなのか感謝チョコなのか、
私には解らないが苦笑したりした。

しかし私は家内と結婚して以来、幾たびか家内に
私の少年期の板チョコの思いでを伝えたりしているので、
年金生活の今は、ふさわしいひとつと思ったりした。


私が1954(昭和29)年の小学3年生になったばかりの時、私を可愛がってくれた祖父が死去した。
前年に祖父の長兄だった父が亡くなり、跡継ぎを失くし、
その上に祖父は病気となり、落胆した表情が少年の私さえ感じていた。

そして祖父、父が中心として、程ほどの広さの田畑を耕し、
多忙な時期は小作人だった人たちの助けも借りて農業をしていたが、
大黒柱の2人を失った生家では、長年の農業の技量の伝承が絶たれてしまったので、没落しはじめた・・。
母、父の末妹の叔母、長兄、次兄、私、そして妹のふたりが残された家族となり、
生活は困窮し始めた・・。

このような状況下の時、祖父の妹に当たる叔母が、
何かと不憫に思い心配されて、とても私たちが日常生活で買い求めることのできない菓子などを持参してくれた。
その上、妹の2人には、何かと品を頂き、ときにはお揃いの洒落た下駄などを頂戴した。

叔母が帰路する時、私は駅までの15分ぐらいの町道を叔母と共に歩いて、駅で見送った。
この少し前、叔母は私に、
『チョコレートでも買ってねぇ・・』
と私は百円玉ひとつを頂いた。

私は小汚い身なりであったが、駅前の商店街の菓子屋に行き、
まばゆい包装紙に包まれた一枚の板チョコレートを買ったりした。

そして私は駅前から急いで帰宅し、妹のふたりと割って食べたりした。

しかし恥ずかしながら告白するが、正確には私は少し大き目の3分の1であった・・。

あの家も貧乏になった、と少年の私さえ、近所の人たちの風の噂を聴こえたりしていたが、
この時ばかりは妹2人と食べあった板チョコは、この時は何かしら貧乏のことも忘れさせてくれた。


こうした体験を秘めた私は、たった一枚の板チョコレートであるが、
昨今のベルギー産の高級品、宇治抹茶生チョコなどのチョコレートより、
遥かに美味しく感じられるのである。

そして私にとっては、たった一枚の板チョコレートでも人生観を変えることがある、
と思ったりしている。


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ブログの世界、私自身のささやかな軌跡、そして思いは・・。

2012-02-13 14:28:58 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
定年退職した2004〈平成16〉年の秋であった。

そしてまもなくブログの世界を知り、パソコンの故障、旅行で不在でない限り、
パソコンの故障、旅行で不在でない限り、
毎日投稿してきたので、習性なのか投稿してきた・・。

2004年(平成16年)の秋、民間の中小業の会社を定年退職する数ヶ月前、
自宅で初めてインターネットを開設した・・。
この当時の私は多忙の現役サラリーマン時期であり、自宅のパソコンでインターネットを施設したならば、
友人たちと電子メールの交流の時間に余裕もない思いがあり、
退職後からすればよいと思いがあったのである。


私は東京オリンピックが開催された1964〈昭和39〉年に大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をして奮闘したが、あえなく挫折して、
やむなく企業に中途入社する為に、1年間コンピュータの専門学校で学び、
ある大手の音響・映像メーカーの企業に中途入社できたのは、1970(昭和45)年の春であった。

まもなくして、この会社の中の音楽事業本部のひとつ大手のレーベルが外資会社として新設され、
このレコード会社に私も異籍させられ、この後は20年間殆ど情報部門の専門畑となり、
その後は他部門に異動したり、この間に幾たびリストラの烈風を受けたりし、
最後の5年間は取引先の物流情報センターに出向となったりした。

私としては1990年(平成2年)の初めの頃までは、
ある程度は専門畑のコンピュータの世界が解かっていたが、
その後は利用者側の間接部門となったので、
先端技術は解からず、ただパソコンを利用し、業務に従事していたぐらいであった。

このような体験があったが、いざ自宅でパソコンにインターネットを連動させた時、
Webの世界の環境には、驚きと出遅れたと感じたりした。

そして、定年退職後は、『ホームページ』を立ち上げて、
自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いでを随筆風に綴り、
公開しょうと思案したりしていた。

しかしながらホームページの開設までの技量に乏しく、無名の私が開設・運営した所で果たして、
と躊躇していた時に、
偶然、本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。

『はじめよう! みんなのブログ』(インプレス)と題された、
別冊インターネット・マガジンであった。


私はブログの多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活のことから無知なりに政治の分野まで発露でき、
何よりホームページより手軽に開設、運営できると決意させられたりした。

そして私は、2004年(平成16)年11月12日に【アメーバ・ブログ】に加入し、
『極楽とんぼ~団塊世代のひとりとして~』とタイトルを掲げ、
『kaze-hikari』という発信名で投稿をはじめた。

私は初めてブログの世界に入り、【アメーバ・ブログ】に加入した時、
タイトル名は私なりのブログ・サイトで要(かなめ)をなすこと思え、
深く思案したのである。

結果として、『極楽とんぼ』と命名することとした。
ひとつの根拠は、他のサイトで綴ったが、私の幼年期からの深い想いでがあった。

私が小学校に入学したのは、1951〈昭和26)年の春だった。
東京の郊外の調布市であるが、この頃は田畑、雑木林が圧倒的に多く、
緑豊かな町村であった。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた3男坊で、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、私は幼児なりに何となく感じていたのか、
いじけた可愛げのない子の上、無口であった。

兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、
と担任の女の先生がため息まじりに云われたりしていた。

音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。

学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。
私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。

結果として、通信簿『2』であった。

私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、
或いは家の留守番をしている時は、

♪笛にうかれて 逆立ちすれば
 山が見えます ふるさとの
 わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし

【 『越後獅子の唄』 作詞・西條八十  】

私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。

そして、私が気分が良い時は、
私は街の子、田舎の子・・、
と勝手に『私は街の子』を変更して、唄ったりしていた。

このように、この『越後獅子の唄』の名曲の悲しげな歌の裏返しの思考、
そして小説家・山口 瞳・著の『還暦老人極楽蜻蛉』から拝借し、
定年退職後の自由自在でブログの世界で綴ってみたい、秘かな思いであった・・。


【アメーバ・ブログ】に投稿を初め、
コメントを頂き、私なりに喜びであり、コメントをして頂いたお方の日記に、
私も盛んにコメントを書き込みをしたりした。

ただ、【アメーバ・ブログ】の日記投稿欄の書き込み、送信に、
たびたびエラーなどが発生し、初心者として技量もなく、
何度も書き直し投稿をしたりした。

その上、各部門による賞金制度が設置されていたので、困惑し、
私は他ブログ・サイトを探した。


そしてブログに準じたサイトの【goo簡単ホームページ】を知り、
『風のように光のように』とタイトルを掲げて、入会したのは11月17日であった。

これ以降、2つのサイトが並行として投稿し、1ヶ月を過ぎた頃、
【アメーバー・ブログ】の投稿を中止し、
【すくすくブログ】に『極楽とんぼの奮闘記』とタイトルを掲げ、
『yumide』の発信名で、極楽とんぼシリーズを移管したのである。


私は【すくすくブログ】の加入した短い間、
この当時、人気の漫才コンビに『極楽とんぼ』の存在を知り、
1部のお方から誤解されたり、
その後、この人気コンビのひとりが女性に不祥事を起こしたりしたので、
私は『極楽とんぼ』の命名の由来を明示した通り、
何かしら60数年の心の純潔を汚されたようで、憂鬱な心が、しばらく続いたりした。

その後、私は【すくすくブログ】は投稿を中止し、
大手のブログ・サイトの【gooブログ】に移行した。

『続・極楽とんぼ』とタイトルを掲げ、社会、経済、政治の諸問題を無邪気に投稿し、
『yumede-ai』の発信名としたのである。

しかし、この分野に専門知識のない素人の私にとっては、
ほころびも感じはじめ、一年半ほどで中断した。

やはり力量し筆力のない私にとっては、
ふたつのブログ・サイトで全く違った分野を併行に投稿し、
コメントを返信するのは、日常の時間が余りにもとられ、
肝要の読書の時間も少なくなり、ひとつだけ残すこととした。


そしてこの当時の私の本命の【goo簡単ホームページ】で、
『kaze-hikari』という命名で、
2007年の9月末に閉鎖される1ヶ月少しまでの長い期間、
パソコンの故障や国内旅行、そして目が充血した1日を除けば、毎日数通は投稿していた。

私が【風のように光のように】とタイトルを掲げた思いは、
遠い昔に東京オリンピックが開催された当時、
私は大学中退後、映画青年、文学青年の真似事を20代の前半をしていた。

小説、随筆などで、明治以来の作家で最も影響を受けたのは、
私の長年のつたない読書歴からして、
1980〈昭和55)年の夏に亡くなわれた小説家・立原正秋(たちはら・まさあき)氏である。

小説、随筆、詩集など公表された作品は全(すべ)て読んでいるつもりであるが、
この中に1冊の詩集がある。

詩集『光と風』(角川書店)より、1978〈昭和53)年5月に刊行された本である。

亡くなわれた後、追悼として、角川書店より愛蔵版として『立原正秋全集』(全24巻)はもとより、
数多くの知人、関係者から評論、随筆集が刊行された。

この中で、奥様の立原光代・著の『追想~夫・立原正秋~』、
そして長女の幹様より『風のように光のように~父・立原正秋~』が角川書店から刊行された。

特に立原 幹・著の『風のように光のように』に関しては、
余りに激しく、余りに美しい《父恋の記》と解説に明示されていたが、
私は幼児に父と死別された上、敬愛した作家の愛惜の動揺からして、脳裏に長年深く残った。

幹様の綴られた随筆は、素人の文章であるが、きらめく感性があり、
何より父恋きの想いが深く、好感して読んだりしたのは事実である。


私は定年退職後、ブログの世界を知り、タイトル名には色々と考えた・・。

【のちの想いに】にするか、
或いは敬愛する小説家の長女の方の随筆のタイトルを借用するか、
迷ったりした。

結果として、私の青年期の自己形成に教示され、敬愛する小説家のなので、
長女の視線からと似た念願の意味合いから、いけないと知りながらも、借用したのである。

そして、何よりも私は日本風土の四季折々の移ろいを限りなく愛着があるので、
それぞれの地の風光に心を寄せたりしている。


2007年の9月に【goo簡単ホームページ】が閉鎖と知り、
私は閉鎖の50日前から悩んだのである・・。

結果としては、【OCN Cafe】に於いて、従来の日記の部分だけ移行できる上、
【goo簡単ホームページ】に似ている機能が多いので、
このサイトに加入したのである。

そして、私のインターネットのプロバイダは、
ニフティなので、【ココログ】に加入し、
今後の書き散らしてきた投稿文を精選し、投稿しょうと思ったのである。


この前提となるのは、
【OCN Cafe】の『風のように光のように』をある程度充実させる必要があったので、
私はそれなりに創意工夫した投稿文を盛んに投稿したのである。

結果として、【ココログ】は挨拶文を一通投稿し、2008年の5月に閉鎖をした。

2008年の春先から、少し悩んだのである・・。
定年退職後の3年半、このように4つのブログ系のサイトに加入して書き散らしてきたが、
4月の初めに、振り返った時、何かしら鍋物の《ごった煮》のような思い、
ひとつのブログ【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』に、
今まで書き散らかした投稿文3000通前後を整理、統合しはじめたりした・・。

本格的に4月19日から開始し、私が幼少時代から年金生活までの生きてきた心の軌跡であり、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからである。

私の【OCN Cafe】の『風のように光のように』は、
あたかも新聞の当日分のような存在であり、
余程のことがない限り、過ぎ去った投稿文はわざわざ読んでくれない、
と改めて認識したのである。

そして、集約した【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』に於いては、
カテゴリーのジャンル別に改めて編集した。
『定年後の思い』、『食べ物、お酒』、『読書、小説・随筆』、『小庭の情景を眺めながら』、
『映画・テレビ』、『音楽』、『旅』、『旅のあれこれ』、『幼年・少年時代の想いで』、
『青年時代の想いで』、『現役時代の想いで』、『時事(団塊の世代)』、『時事(社会)』、『時事(政治・経済)』、
などに区分したので、あたかも14冊の旧刊本が並んでいると思いながら、
どの本の中で、一編読んでも、もとより私なりの愛惜を秘めたりしている。


そして併設していた【OCN Cafe】の『風のように光のように』(のちに『風、そして光のように』と改題)は、
2010年7月で中止し、
これ以来【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』として、
昨今はいつまでも《年金青年》ではないと思い、
『夢逢人たわむれ記~かりそめ草紙~』とタイトルを改称している。

2週間の前の頃、私としては保存のような形でしていた【OCN Cafe】の閉鎖を知り、
2008年の5月前後に、この当時にコピーして【gooブログ】に移行していたが、
もとより時系列に移行できていないので、ためらいながら、
昨夜、【OCN Cafe】に保存していた期間の投稿文を【gooブログ】に、
インポート機能を使い移動させたりした。

しかし私の技量無知のせいか、一部は重複したり、一部は変換がおかし状況となり、
表示された字が乱れていた。
そして移動された投稿文は、改行などは無視されて、字詰まりの文章になっている。
やむなく私は重複した投稿文などを削除を始めたりしている・・。

このように2004年12月から2010年7月までは、不具合で整然としていないが、
この間の私の心の思いの軌跡が時系列で綴られているので、
すべて安易に削除はできないなぁ、と微苦笑したりしている。


尚、プログに関して、2008年の頃に総務省の公表された『ブログの実態に関する調査研究の結果』の中で、
ブログ開設動機による分類に於いて、
①『自己表現』、②『コミュニティ』、③『社会貢献』、④『収益目的』、⑤『アーカイブ型』
と分類されていた。

私は『自己表現』の心の思いの発露であり、ときおり『コミュニティ』である、
と思いながら、ブログ投稿を始めて7年少しを享受している。


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早春の午前のひととき、東京郊外に住む私は、秘かな冬木立、里花に心を寄せて・・。

2012-02-12 11:10:10 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、結婚前後の5年を除き60年を超えている。
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

最寄駅は京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』であり、
小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』となり、
この間の中間地域となり、いずれもバスの利便性は良いが、年金生活の今は殆ど散歩も兼ねて歩いたりしている。

そして現役のサラリーマン時代の通勤の時は勤務地の関係、
或いは昨今の都心に買物、旅行をしたりする時は、
更にバスの利便性も良いので、『成城学園前』を利用したり、ときには散策をしたりしている。

こうした辺鄙な所に私は住み、定年後の年金生活の日常に於いて、
その日に応じて歩き廻ることが多い。

このような生活を過ごしているが、先ほど自宅の近くに流れる野川を眺めながら、
この川の両端にある遊歩道を独りで歩いたりしてきた・・。


冬晴れに恵まれた眩(まばゆ)いの陽射しの中、川の水辺の近くには、
小鷺(コサギ)、大鷺(ダイサギ)、カルガモの親子が遊泳していたり、
或いは白鶺鴒(ハクセキレイ)、カワセミ、ときおりコゲラなども飛来してきているが、
私は興味がなく、陽射しを受けた川面に見惚れたり、そして清冽な水の流れを見つめたり、
川辺の薄(すすき)などの冬枯れの情景に魅せられたりしている。

そして遊歩道を少し歩くと、小公園となり30本前後の落葉樹は冬木立の景観を見せている。
この地域に古くからあるクヌギ、コナラの樹木が中核となして、
ハクウンボク、ヒメシャラ、イヌシデ、ヤマボウシ、コブシなどの冬木立となして、
午前の暖かな陽射しを受ける情景を見たりすると、
私は幼年期に農家の児として育てられたためか、心身和(なご)むのである。

私は足を止めて、木のベンチに座り、煙草を喫ながら長らく見つめたりしていた・・。

そして付近の垣根の傍で赤い実の南天が陽射しを受け、
その脇に千両の赤い実も見られ、地表から福寿草の黄色の花が数輪が咲いていた。

このような情景に心をゆだねていると、時のながれが止まったように感じたりした。

帰路に向い、2本ばかり大きな欅(ケヤキ)の樹が陽射しを受け、
悠然(ゆうぜん)と青い空に向うように、たわわな枝を伸ばしている情景を見たりし、
遊歩道から住宅街の歩道を歩いたりした。
そして垣根などで白、淡紅色、ビンク色した可憐な山茶花(サザンカ)の花を見たり、
椿(ツバキ)の幾分小さめの朱紅色の藪椿(ヤブ・ツバキ)の花を眺めたりするした。

私の住む地域に於いては、この時節の冬の里花は少なく、
つい私は山茶花、藪椿に目がいってしまう。

そして秘かに私の心の片隅みは、山茶花は女性、少女、少年の婦女子の眺める花であり、
藪椿こそは大人の男性でも、感銘を受けて、そして心寄せられる冬の花のひとつ、
と齢を重ねるたびに深く感じたりしている。

帰宅すれば、玄関庭の外れにある白梅がたわわな莟(つぼみ)が膨らみ、
近づくと早春の匂いを受けたりした。
しかし確か昨年の今頃は10数輪の純白な花を見せてくれたが、
ここ数週間は平年より寒気を増したせいか、少し遅れているのかしらと思い返したりした。
そして、こればかり天上の気候の神々の采配に寄るものだから、
やむえないなぁ、と微苦笑させられたりした。

この後、主庭のテラスに下り立つと、日本水仙(ニホン・スイセン)も莟(つぼみ)のままで、
陽当たりの悪い処にある藪椿(ヤブ・ツバキ)は朱紅色の花が咲く前の大きな莟(つぼみ)がたわわとなり、
白玉椿(シラタマ・ツバキ)は固い莟(つぼみ)となっている。

このように平年より数週間が遅れた景観となっているが、
まもなく白梅(ハクバイ)と日本水仙(ニホンスイセン)が彩(いろど)り、
そして紅梅(コウバイ)の朱紅色の花を咲かせ、やがて純白で清楚な白玉椿(シラタマ・ツバキ)も咲き、
早春の便りを告げるだろう、と思いを重ねたりした。

この時節の私は、こうした情景を眺めたり、思いを馳せたりし、
冬木立、早春の里花に心を寄せたりし、齢ばかり重ねてきた私の心を浄化させて頂いたりして、
定年後の年金生活を過ごしたりしている。

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ただいま冬眠中、と東京郊外の田舎者の私は、呟(つぶや)きながら・・。

2012-02-11 15:44:21 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
過日の札幌郊外のリゾートホテル滞在の6泊7日の旅を終えて、
一週間過ぎたが、この間は《ただいま冬眠中》と私は家内に言ったりしている。

日常の買物担当の私は、最寄りのスーパーに3回ばかり行き、
そして駅前のスーパーには一回行ったりしたが、ウォーキングは怠(なま)けている・・。
この間には、相変わらず読書だけはしているぐらいである。

旅行中から、佐野眞一・著の『怪優伝 三国連太郎・死ぬま演じつづけること』(講談社)、
佐野眞一・著の『あんぽん 孫正義伝』(小学館)を読んだりしてきた。
そして北 杜夫・著の『マンボウ恐妻記』(新潮文庫)を読み終えたところである。

或いは総合月刊雑誌の『文藝春秋』三月特別号を昨日から読んだりしている。

そしてブログの投稿文だけは、定年退職した2004〈平成16〉年の秋に、
2か月後にブログの世界を知り、パソコンの故障、旅行で不在でない限り、
毎日投稿してきたので、習性なのか投稿してきた・・。


今朝も6時半過ぎに起床し、ぼんやりとカレンダーを見ると、
『建国記念の日』と朱記されていたが、
私は限りなく日本の四季折々の美しい風土と情景に心を寄せているひとりであり、
祖国を敬愛する心は大切にしているつもりであるが、
国を私より真摯に愛する人たちよ、ご免なさい、
と居間のソファーで新聞を読みながら寛(くつろ)いでしまった。

そして昼に最寄りのスーパーに買い物に行ったりしたが、
南関東の私の住む地域は、豪雪な遭(あ)うことなく、冬晴れで恵まれている、
と心の中で呟(つぶや)いたりした。

帰宅後、家内と遅い昼食を頂いた後、
居間のソファーに座りながら、『文藝春秋』を読んだりしている。

このように、ここ一週間は少し風邪気味の為か、無気力な覇気のない生活を過ごしてきたので、
東京郊外の田舎者の私は、ただいま冬眠中に相応しい、と微苦笑したりしている。


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AKB48の『GIVE ME FIVE!』の歌声に、高齢者の私でも、何かと励まされて

2012-02-10 20:39:57 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳となった身であるが、
午前中のひととき、居間で雑誌を読んでいた。

家内は洗濯の合間、テレビを視聴しながら、コーヒーを飲んでいた・・。

こうした時に、♪友よ 思い出より・・とテレビが流れて、
私は、AKB(エー・ケー・ビー)のお姉ちゃんたちの歌声だ、と瞬時に感じ、
テレビの画面に思わず視線を移した。

そして、しばらく見惚れていたが、
何かしら携帯電話の会社のひとつの『NTTドコモ』のCMと解り、
《応援学割》と画面に表示されて、携帯電話が使えない私は苦笑したりした。

しかし爽やかなCMであり、何かしら高齢者の私でも励まされたようになり、
もう一度見たいと思ったりした後、やむなく私はネットで、
《AKB48 NTTドコモ》とキー・インした。

http://www.nttdocomo.co.jp/corporate/ad/tvcm/120113_01.html
☆【NTTドコモ 公式サイト】<==『テレビCM』<==『応援学割「6年前の私<応援>」篇 ☆

このようなことが羅列していたので、このサイトを拝見した。

そして、このCMを2回ばかり視聴した後、
これらについての『こぼれ話』を読んだりし、画面に出ている若き女性が前田 敦子ちゃん、
と初めて知ったりしたのである。
もとより《AKB48》については、
一昨年の2010年の春の頃から、アイドルグループの『AKB48』に注視し、
けなげな若き女性のグループに、何かと励まされたりした。

そして特に『Everyday、カチューシャ』の歌を
私は、♪カチューシャ・・、の歌詞の後は、無念ながら数行しか唄えないが、
私にとっては、何よりの励ましの薬と思いながら、ときおり心の中で唄ったりしている。

しかしながら私は、若き女性のメンバーの方たちの名前は無念ながら無知であり、
今回初めて、このお方が前田 敦子ちゃん、と学んである。


この後、庭のテラスに下り立ち、まもなく白梅が咲き、
そして三月になれば桃の花も咲き、やがて学生たちは卒業式、
新たなる新入学の時節を迎える学生も多いだろう、と思ったりした。

こうした思いを馳せると、先ほどの歌に思いを重ね、

♪友よ 思い出より
 輝いている 明日を信じよう
【『GIVE ME FIVE!』 作詞・秋元 康、作曲・笹渕 大介、唄・AKB48 】

確かこのような歌詞だった、と私は思いながら心の中で唄ったりした。


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ひとつの旅行でも、齢ばかり重ねた私は4度ばかり享受する、と家内は微笑み・・。

2012-02-10 10:07:38 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳となった身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。


このように定年後からの生活を過ごしてきたが、
家内と共通の趣味は旅行であるが、海外に苦手な私たち夫婦は、日本の各地に四季折々に訪ねたりしている。

家内の母も独り住まいとなっているので、ときおり旅行に誘い、
私達3人で温泉滞在をすることが多いが、
やはり私たち夫婦だけの旅も多い。
ときには札幌市、那覇市、長崎市、鹿児島市、下田市、富山市、京都市などに滞在し、
市内の観光名所先を観たりしている。

こうした旅行の場合は、我家では自動車もなく、
私の定年退職後はペーパー・ドライバーを卒業し、免許証を更新を断念したので、
当然の結果として、ドライブは対象外であり、
旅行会社などに少なくとも宿泊先と交通機関を依頼した旅路を依頼してきた。

そして家族・個人の企画した旅行をヒントに私たち夫婦は自在に立案した旅、
或いは団体(観光)周遊旅行を重ねたりしている。
この中で、団体(観光)周遊旅行といっても、
各地の観光地を周遊しながら宿泊地を移動するケースと
宿泊先のホテル、観光ホテルに滞在し、バス、JR、フェリー、飛行機などで往復するだけタイプもあり、
こうした場合は温泉滞在する旅行に利便性があり、費用も格安なので、
私たち夫婦も利用している。


私たち夫婦は旅行を思い立つ時は、
我家にも旅行会社からの小雑誌の勧誘雑誌が郵送されてくるのを見たり、
新聞の旅行会社の広告を眺めたり、
或いは最寄り駅前の旅行会社のパンフレットを頂き、
リストアップしているのが殆どである。

こうした候補となった旅行に関しては、
私はある程度は観光先、宿泊するホテル、観光ホテルなどを調べたりするが、
家内はネットなどを活用して、行かれた方のプログまで掲載されて内容を読んだりし、
血液型のA型の性格のせいか、徹底的に調べるのである。

私はブログなどは、その方の自身の思いがあるので、
参考にならない、とB型の私は笑い飛ばしているひとりである。

こうして、旅行が決定し、旅先でそれぞれの思いで、お互いに楽しんだりしている。


旅行から帰宅すると、私はこのサイトに綴って、投稿するが、
内容、構成とかを決めて苦心惨憺しながらも綴ったりする時が多いが、
ひとつにはタイトル名には、配慮しているのである。

小説、随筆、映画などの場合はもとより、
タイトル名で内容を適切に集約した表現となるので、
私も拙(つた)ないなりの投稿文であるが、タイトル名は気にしているのである。


私自身の旅行の場合は、
旅行先を決めるまで立案期間、旅行先、そして帰宅後の旅先の想いに心は馳せたりし、
多くの方と同様に、旅は3度楽しめる、と私は思ったりしている。

家内の場合は、帰宅後はあっさりして、次の旅行のことを話し合ったりし、
ときおり思い出したかのように、旅先の想いでを語ることがあるが、
家内は旅行に関しては、立案時と旅先の2度しか楽しんでいない、と私は苦笑したりする。

そして私がブログに投稿した後、
デジカメに映した旅行先の写真をパソコンに移行したりしている。
この時には、ファイル名は旅路の名称を付けて、日付なども加えて、ハード・ディスク、
予備として外部ハード・ディスクに保存したりしている。
このようにし、過ぎし日の旅路の情景が年月別に時系列に再現できるので、
定年後からは、このような方法で行っている。

パソコンに移動した直後は、私は再現しながら見たりして、微苦笑したりすることが多い。
こうした状況を家内が見たりすると、
貴方は4度も楽しんでいる、と微笑みながら言われたりしている。

私は苦笑しながら、旅の立案時、旅行先、ブログの投稿文、そして写真の旅路の情景、
確かに私は4度ばかり享受している、と感じたりした。

しかしながら何より思いが深まるのは、旅路でささやかな想いのひとつひとつが、
ある日ある時に、さざなみのように思いだし、のちの思いになることだろう、と
ぼんやりと思ったりしている。

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ブログの投稿文、齢ばかり重ねた私の秘かな思い、そして配慮していることは・・。

2012-02-09 11:29:53 | 定年後の思い
私は2004〈平成16〉年の秋に定年退職し、この後は身過ぎ世過ぎの年金生活をしている身であり、
たまたま定年後まもくしてブログの世界を知り、
季節のうつろいの中で、日常の思い、感じたことを、あふれる思いとなって、
心の発露として投稿文を綴っている。

そしてパソコンが故障、国内旅行で不在でない限り、毎日投稿してきた。

随筆(エッセイ)かコラム、或いは日記か、
その日の思いで、綴っているが、出来うる限り随筆のような形で、投稿したいと思っている。

そして、私は表現方法のひとつとして、
文章で表現する方法は、若き20歳から4年ばかり映画・文学青年の真似事し、
その後は民間のサラリーマンしていたので、35年ばかりの空白期間があるが、
もとより写真、動画などの画像表現は、避けている。

もとより心の深淵を表現には、古来より少なくとも平安時代から行われているし、
随筆の場合は、殆ど散文だけで行われ、
ここ50年ぐらいの風潮として、ときには挿絵(さしえ)の画が入っているのもあるが、
圧倒的に文章の綴りだけで表現されている。

このような伝統もあるので、つたない私なりに見習いたく、
私は綴ったりしている。
しかし、無念ながら私の投稿分が読んで下さった方に、
伝わらない場合は、ひとえに私の筆力不足で、もとより文章修行が未熟のせいである。


投稿後、無視されるのは辛(つら)く、出来る限り多くの方に読んで頂きたく、
投稿内容が同じようであると飽きられるので、
なるべく多岐にわたり分野で、最後まで読んで頂けるように、工夫したり、
タイトル名も重視している。

タイトルは、小説、映画、テレビ・ドラマなどと同様に、
内容をすべて集約した短文で表現するので、
程々に魅力あるタイトルにしなければ、満天の星の数以上にある投稿文の中から、
あえて選んで読んで頂くことは少ないのである。


そしてブログの投稿文は、小説・随筆、論文など本の印刷された活字羅列と違い、
パソコンの液晶画面で読んで頂く為に、
あえて改行を多くしたりしている。
昨今に於いては、携帯電話で読んで下さる方もいて、望外の喜びと感じながら私は驚いたりしている。

私のブログの画面は、文章だけであるので、読みやすくするひとつとして、
背景のテンプレート色合い、絵柄もこうしたことを配慮した結果である。


つたない脳裏の私は、綴るときは苦心惨憺する時もあれば、
楽しく綴れる時もあり、こうしたことは退職後の8年生の今でも変らない。

しかし、後日に過去に綴った投稿文を読み返したりした時、
殆どが駄文となり,赤面しながら、文章修行が足りない、
と我ながら齢ばかり重ねて困ったなぁ、と苦笑しているのが、昨今の真情でもある。


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たかが『トイレ』されど『トイレ』、齢ばかり重ねた私でも、魅了されたトイレは・・。

2012-02-08 12:30:26 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、結婚前後の5年を除き60年を超えている。
そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

最寄駅は京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』であり、
小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』となり、
この間の中間地域となり、いずれもバスの利便性は良いが、年金生活の今は殆ど散歩も兼ねて歩いたりしている。

そして現役のサラリーマン時代の通勤の時は勤務地の関係、
或いは昨今の都心に買物、旅行をしたりする時は、
更にバスの利便性も良いので、『成城学園前』を利用したり、ときには散策をしたりしている。

こうした辺鄙な所に私は住み、定年後の年金生活の日常に於いて、
その日に応じて歩き廻ることが多い。

このような生活を過ごしているが、なぜかしら60代の今はオシッコが近くなっている。

平素の私は、起床後は煎茶の深蒸しを淹れるが、寿司屋さんで頂いた大きな湯呑み茶碗に3つ、
そしてマグカップにインスタントのゴールドブレンドに砂糖を小さじ4分の1ぐらい加味している。
こうして淹れるたのをお盆に載せて、居間の片隅に置き、吞んだりしている。
そして朝、昼下がり、夜、日に三回淹れたりしている。

家内から、貴方は馬みたいに何かと煎茶を飲むのねぇ、と遠い昔の新婚時代に、
家内から言われたりしたが、定年後に年金生活をしていると、
このように飲んだりしている。

この結果かしら、我が家に居る時は2時間毎に、男女兼用の普通の水洗トイレで、
オシッコをし、盛大に出る時は腎臓、胃腸も良く働いてくれて感謝しますょ、と安堵することが多いのである。

外出の時、スーパー、公園などのトイレを利用させて頂くことが多いのである。
そして私は汗をかいたり、少し脂性なので、トイレにある洗面所で、
手を洗った後は、顔を洗ったりし、ハンカチか半タオルで顔を拭った後、
清々しく感じたりすることが多い。

こうした時、やはりトイレの小便器、洗面所が綺麗に掃除されていることが望ましく、
少し汚れ切った時に接すると、失望感を隠せない。

私たち夫婦は都心のデパートに買い物に行ったり、そして食事処に寄ったりし、
ときには国内旅行でリゾートホテル、観光ホテル、ビジネスホテル、観光旅館に宿泊したり、
私は友人と居酒屋などを行ったりしているが、
昨今は全般として、トイレは綺麗である。

こうした中で、私がこのような場所で恐れ多く、どうしてなの、と驚きながら、
恐れ入りましたと魅了させられたトイレがあった。

昨年の11月中旬に私たち夫婦は、旅行に行く時、東京駅を利用したが、
少し時間があったので、お蕎麦でも食べようか、と私は言ったりした。
そして恥ずかしながら東京駅の蕎麦屋は無知なので、『大丸』デパートだったら、
落ち着いた蕎麦屋があるに違いない、と家内を誘ったりした。

そして12階がレストラン・フロアーだったので、
この中の蕎麦屋の『永坂更科 布屋太兵衛』で、私たちは美味しく頂いた。
http://www.daimaru.co.jp/tokyo/restaurant/12f_edo_nunoyatahei.html
☆【大丸デパート 東京駅店 ホームページ】<==《12階・レストラン、コーヒー喫茶 案内》<==『永坂更科 布屋太兵衛』☆

窓辺の席に座り、ゆったりと頂きながら、窓辺から外景を観ると、
前方の下方には東京駅の各プラットホームの屋根が見え、
中央線、山手線、京浜東北線などの列車が見えたりし、
遥か前方には皇居外苑、宮内庁の三の丸尚蔵館、病院が観えたした。

私は、すごい景観だよねぇ、と家内に小声で言ったりした。

この後、この食事処を出た後、私は同じ12階のフロアーにあるトイレに寄った。
そしてトイレの室に入ると、窓辺に小便器が並び、この中のひとつを利用したが、
遥か前方には皇居外苑、宮内庁の三の丸尚蔵館、病院が観えたし、
恐縮しながら、オシッコを終えた後、恐れ入りましたと心の中で呟(つぶや)いたりした。

そして素敵な洗面所で手を洗った後、つたないなりに67年を過ごしてきたが、
圧倒的に魅せられたトイレであった、と心の中で深めたりした。


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冬の札幌の郊外、私の限りなく魅了された幾重かの情景は【2012.1.28.~2.3.】 《最終》

2012-02-07 12:46:40 | 
          最終章  旅の終わりは、中島みゆきさんの『サッポロSNOWY』の歌に想いを馳せながら

私たち夫婦は、1月28日の土曜日より札幌の郊外にあるリゾートホテルのひとつの
『シャトレーゼ ガトーキングダム サッポロ ホテル&スパリゾート』に6連泊し、
この間は北海道中央バスの定期観光周遊プランを利用して、3回ばかり札幌の周辺を観光ツアーめぐりをした。

そしてこの間に、30日の午前中には私の突然な思いから『北海道大学』の構内を散策したりした。

或いは札幌の駅構内、隣接した『大丸』、『ステラプレイス』、
そして北海道中央バスの受付、待合場のある『エスタ』の2階も幾たびか利用したりした。


前回に冬の時節に札幌に訪れた2008年の12月の下旬の際は、
繁華街のすすきの4丁目より200m前後にある『ススキノ グリーンホテル 2』に4泊5日し、
廉い価格帯の中から、このホテルの浴室は洗い場があり、単なる洋バスより遙かに利便性があり選定した。

この時は、札幌駅の南口より、地下鉄で『すすきの』駅まで利用したり、
すすきの周辺、南三条を歩き廻ったり、大通公園で『さっぽろホワイト・イルミネーション』を観たり、
或いは『三越』に寄ったり、地下街の商店街を歩いたりした。

ある日には『サッポロファクトー』に行ったりし、
中島公園にある『北海道立文学館』に訪れたりした。


今回は、連泊したホテルが札幌駅から郊外の北方にあるせいか、
駅の北口、そして南口まで幾度も歩き廻ったりしたが、前回に観た周辺は、
今回は観光バスの車窓から見た程度であり、札幌の市街は《ふところの広い街》と改めて実感させられたりした。

旅の最終日の前日の2月2日の日中、私たちは札幌駅に出て、
家内は『大丸』、『ステラプレイス』などで買い物している間、
私は本屋に寄ったりし、佐野眞一・著の『あんぱん 孫正義伝』(小学館)などを買い求めた後、
待ち合わせの北口の『ドトール』に行った。

そして窓辺ら近い席に座り、コーヒーを飲んだりした。
窓辺からは粉雪が降り、しばし私は見惚れていた。
札幌の街並みは11月初旬の『文化の日』の頃から冬支度、
そして4月の学童が新たな進級が始まる頃まで、
粉雪、或いはスノーバウターの雪が降り、この間に冬晴れを繰りかえし、
芽吹きの時を待ちわびるのかしら、
と私は若き青年のような感傷的な思いで、舞い降る粉雪を見つめたりしていた・・。

そして北口の路線バスの方面から、独りの若い女性が歩いてくるのを見かけた時、
脳裏からひとつの歌が流れてきた。

♪大陸からの強い寒気が下がって 今夜半 冷え込みます
 夕方遅く降りだした雪は明日もかなり強く降るでしょう
 昨日ついた足跡もみんなみんな包んで
     サッポロSNOWY まだSNOWY あの人が
      《略》
♪本やTVで覚えたことも 嘘ではないけれど
     サッポロSNOWY いつかSNOWY あの人に
     言葉にならない 雪を見せたい
      《略》
【 『サッポロSNOWY』 作詞、作曲・中島みゆき、編曲・瀬尾一三、唄・中島みゆき 】

このような歌が、私の心に占領したのである。

この後、私は家内と共にホテル専用の送迎バスで、ホテルに帰還する中、
街並みに降りしきる粉雪を車窓から眺め、市民の行き交う情景を重ね、
この『サッポロSNOWY』の歌が流れていた。

注)この歌『サッポロSNOWY』は、中島みゆきさんのオリジナル・アルバム19枚目の『歌でしか言えない』、
  1991年10月23日に発売され、9曲目に収録された作品で、
  今回、無断ながら引用させて頂いた。

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冬の札幌の郊外、私の限りなく魅了された幾重かの情景は【2012.1.28.~2.3.】 《7》

2012-02-06 16:20:58 | 
         第7章  道内のお酒、そして道内の最上の和菓子のひとつは

私は北海道を旅行する時は、ビールに関しては、
はここ10数年、殆どサッポロビールの『クラシック』の瓶ビールを愛飲している・・。

もとよりアサヒ、キリンの大手のビールは成功しているビール会社で、
何かと劣勢なサッポロを応援したくなる性格であり、
ビールを吞みたくなった時は、『クラシック』の瓶ビールを吞んでいるが、
瓶ビールがなく、やむえず『クラシック』の生をジョッキーなどで吞む時もある。

しかし旅先で、サッポロビールの『クラシック』がない時、
どうしてなのか私は不機嫌になり、やむなくアサヒ、キリンの瓶ビールを吞んだりしている。

日本酒に関しては、平素の私は純米酒の辛口を吞んで、30数年過ぎているので、
道内の旅先は、『男山』、『千歳鶴』などの純米酒の辛口を吞んでいる。

今回の旅行でも、札幌駅の構内の大きな売店で『男山 特別純米』の4合瓶を見かけ、
北海道限定販売、と付記されていたので、小躍(こおど)りしながら買い求めたりした。

この後、滞在のホテルの売店で、『クラシック』の缶ビール500mlを10本ばかり、
そして道内の地酒の300mlを結果として6種類を買い求め、部屋で吞み比べをしたりし、
或いは煎茶のベットボトルも飲んだりした。

家内は売店で、道産のお菓子、食べ物を色々と買い求めて、
食べたりしていた。


こうした中で、和食処『大善』で夕食を頂く時に、
単品料理をアラカルト(選定)をしょうとメニューを見ていた時、
日本酒の中で、『熊ころり』という銘柄を見たりしたのであった・・。

『各地方には・・鬼殺し・・の銘柄はあるけれど・・
〈熊ころり〉なんで・・はじめてだょ・・』
と私は微笑みながら家内に言った。

『珍しい銘柄名ね・・頂いたら・・』
と家内は笑いながら私に言った。

『北海道に相応しく・・熊かょ・・かなり辛口だけれど・・』
と私は言いながら、仲居さんに注文したひとつとなった。

蔵元は小樽市にある『山二(ゆまに)わたなべ』で、正式な銘柄名は『熊古露里』と明記されていたので、
風流を秘めた方が命名されたと確信を深めたりした。
超辛口で吞みやすく、たまたま私はホッケの焼いたのを食べながら頂いたので、心身の波長にあった。

もとより地酒は、文体と同様に独創性がなければ甚(はなは)だ魅力が薄れるので、
私はその地を思い重ねて頂き、風味、香りを楽しんでいるにすぎないのである。


お菓子に関しては、幼年期に農家の児として育ったので、特に洋菓子は解らないが、
道内の和菓子で圧倒的に魅了させられたのは、『柳月(りゅうげつ)』の『百代餅(ももよもち)』である。
http://www.ryugetsu.co.jp/online_shop/detail.php?id=5
☆【柳月(りゅうげつ)公式ホームページ】<== 商品紹介 <==『百代餅(ももよもち)』☆

過ぎし2006年10月中旬に、私たち夫婦は家内の母と3人で、
北海道の道北、道東を7泊8日の旅の最終日に釧路市を私は独りで散策している時、
この『柳月』の釧路店に入店して、三品を買い求めた中の一品であった。

家内は中学生から茶事を学んできたが、私は白みそ、柚子などの『百代餅 (ももよもち)』を、
この世の最上の和菓子のひとつである、絶賛した。

この後、家内は、
『先ほどのお餅・・確かに品位もあり美味しいかったけれど・・
貴方は・・やはり農家の児ね・・』
と家内は微笑しながら、味覚は幼年期で決まる、意味合いの言葉を重ねたりした。


今回、家内はホテルの売店で色々な道産のお菓子を買い求めて、
部屋で食べたりしていたが、この中のひとつを私は食べて魅了されたのは、
『わかさいも』であった。
http://www.wakasaimo.com/
☆【わかさいも本舗 公式ホームページ】☆

可愛らしい包みに《大地の恵みから 生まれた、スローなスイーツ》と明記されて、
『このお菓子だったら・・僕だって・・解るょ』
と私が微苦笑しながら家内に言ったりした。

                              《つづく》

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冬の札幌の郊外、私の限りなく魅了された幾重かの情景は【2012.1.28.~2.3.】 《6》

2012-02-06 10:37:24 | 
         第6章  ホテル館内の食事処

私たち夫婦は、1月28日の土曜日より札幌の郊外にあるリゾートホテルのひとつの
『シャトレーゼ ガトーキングダム サッポロ ホテル&スパリゾート』に6連泊した。
この間は北海道中央バスの定期観光周遊プランを利用して、
29日の日曜日に『千歳・支笏湖氷濤まつり』そして花火大会を観たり、
30日の月曜日に『大倉山&藻岩山 サッポロ☆トリップ』、
31日の火曜日には『秘湯丸駒温泉と支笏湖氷濤まつり』と称されたコースに、私たちは参加した。
そして30日の午前中には私の突然な思いから『北海道大学』の構内を散策したりした。

私は67歳、家内は62歳の齢を重ねた夫婦なので、旅立つ前は、
一日於きに観光ツアーに参加する予定であった・・。
マイナス5度前後の日中が多い予測した通りであったが、
積雪50センチぐらいの中、粉雪が降ったり、冬晴れとなったりしたので、
天候に順応して、早め観光ツアーめぐりをしたので、
疲れを感じたので2月1日は館内でのんびりしょう、と私たちは話し合ったりした。

食事に関しては、滞在している朝は、朝食は1階の広い『ヴィーニュ』でバイキング形式で、
私たち夫婦は窓辺で雪景色を観ながら、私は五穀米のご飯、そして味噌汁を中核に各料理を頂いたり、
家内はパン食を中心に各料理を頂いたりした。

夕食は観光ツアーの帰路、札幌の駅ビルの食事処は頂いたりしたので、
ホテル館内は、中華レストラン『香満樓』、そして和食処『大善』を利用した。
http://www.gateauxkingdom.com/restaurant-2/
☆【シャトレーゼ ガトーキングダム サッポロ ホテル&スパリゾート 公式ホームページ】<== レストラン・バー ☆

私はフランス料理のフレンチレストラン『ル・バラト』、鉄板焼『甲斐路』などは苦手であり、
イタリア料理の肉を中心の好みであるが、
何よりもコース料理は嫌い食べ物に接した時は悲惨なので、
単品料理をアラカルト(選定)して、お酒を吞みながら頂くのが、私たち夫婦としては、
ここ20数年圧倒的に多いのである。

中華料理は家内の好みなので、家内に選定させ、
和食の場合は、魚を中心としたのを私が選んだりした。
いずれも私たち夫婦で、福沢諭吉のお札で何とか足り、美味であり、
年金生活の私たちに相応(ふさわ)しい、と私はこっそりと微笑んだりした。

このホテルは、スパの設備も併設されているので、
私たちは、朝、夕、ときには夜も大浴場、露天風呂を愛用させて頂いた。
そして夕闇が迫る頃、私は大浴場、そして露天風呂で身も心も温めたたりすると、
更衣室の戸に、隣室の簡易なレストランがあるが、
ビール(中ジョッキー)と枝豆 サービス価格XXX円 ポスターの絵柄があり、
私は誘惑に負けて、家内の風呂上りを待ちながら、
この簡易なレストランでビールを吞みながら、枝豆を頂いたくことが多かった。

お酒、そしてお菓子に関しては、続編で明記する。

                              《つづく》

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冬の札幌の郊外、私の限りなく魅了された幾重かの情景は【2012.1.28.~2.3.】 《5》

2012-02-05 16:12:27 | 
         第5章  冬晴れの中の支笏湖の『氷濤(ひょうとう)まつり』と湖畔からの美麗は

31日も冬晴れに恵まれ、私たち夫婦は北海道中央バスの定期観光周遊プランのひとつで、
『秘湯丸駒温泉と支笏湖氷濤まつり』と命名されたコースに、私たちは参加した。

午前に『支笏湖氷濤まつり』を観た後、
湖畔に建つ『丸駒温泉』で入浴した後、昼食をするプランであり、
一昨日の29日の夕暮れから夜に『支笏湖氷濤まつり』と花火大会を私たちは鑑賞したが、
午前のひとときに『氷濤まつり』の情景も観たいし、湖畔の露天風呂から支笏湖を観てみたい、
このような思いで、私たち夫婦は観光ツアーに参列したのである。

札幌南口の駅前バスターミナルを観光バスは午前の9時半過ぎに出発したが、
私たち乗客はたった7名の一行となり、私は何かしら申し訳ない心情であった。、
そして冬晴れの燦々とした陽射しの中、支笏湖の駐車場に10時半過ぎに到着した。

『氷濤まつり』の会場に向った時、
湖畔から蒼い湖面の遠方に恵庭岳(1320m)の雄大な情景が観え、
付近の山なみも観えて、私は長らく見惚(みと)れていた。

この後、『氷濤まつり』の会場は、平日の午前中の為か、
私たちのような観光客は少なく、ゆっくりと氷像などを鑑賞したりした。

休憩所の近くに、道産子馬が二頭あり、その付近の小柄な馬のポニーが繋がれていた・・。
そして何かしら会場一周の乗馬料が明記されいたので、
私は会場の別場所で鑑賞している家内に声をかけたりした。

私は動物は苦手であるが、家内は動物大好きなひとりであるので、
記念に乗馬してみたら、と誘ったのである。

まばゆい陽射しを受けながら、積雪の上、馬の係員に導かれながら、
家内は乗馬したので、私はデジカメで10枚ぐらい撮ったりした。

この後、私はポニーの近くに、有料のニンジンを見つけ、
下馬した家内に伝えた。
そして家内は、ポニーに微笑みながらニンジンを幾度も与えたりした。

旅先でこうした動物を見かけると、家内は飽きずに餌を与える習性があるので、
私は微苦笑しながら見たり、デジカメで撮ったりした。

そして日本酒でたとえるならば、吟醸酒の4合瓶の料金を超え、
次の観光地に移動する時間も迫っていたので、私は家内にドクター・ストップを宣言したりした。


この後、私たち一行は観光バスの車窓から、湖畔から蒼い湖面、遠方に山なみの美麗を観ながら、
20分ぐらいして、湖畔に建つ『丸駒温泉』に12時半少し前に到着した。

http://www.marukoma.co.jp/
☆【丸駒温泉 公式ホームページ】☆

私たち一行は、出発の3時までの2時間半、20畳ぐらいの和室を控え室として指定されたが、
私は早速、大浴場で身体を温めた後、露天風呂に入浴しながら、
湖畔を観たり、蒼い湖面、そして遠方に聳える風不死岳(1103m)を中核とした山なみを眺めたりした。

その後、レストランの中央のテーブルで、
ビールを吞みながら、単品の三品を食べ、露天風呂から観た情景も良いが、
やはりレストランからの方が展望に良い、と微笑んだりしていた。

そして家内の風呂上りを待っている間、ビール瓶を3本も吞みほし、
齢ばかり重ねた呑兵衛の私は・・と微苦笑したりした。

この後、家内と談笑しながらビールを吞みながら、
今回の観光ツアーを3回ばかり利用したが、予測した以上に良かったねぇ、
と互いに微笑んだりした。

                              《つづく》

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冬の札幌の郊外、私の限りなく魅了された幾重かの情景は【2012.1.28.~2.3.】 《4》

2012-02-05 10:24:43 | 
         第4章  大倉山、藻岩〈もえい〉山の展望台から市内の街並みを一望すれば

30日の午前中は冬晴れのまばゆい中、初めて訪れる北海道大学の構内を散策した後、
午後は大倉山、藻岩〈もえい〉山の展望台から市内の街並みを一望できるだろう、
と私たち夫婦は、北海道中央バスの定期観光周遊プランのひとつで、
『大倉山&藻岩山 サッポロ☆トリップ』と称されたコースに、私たちは参加した。

札幌南口の駅前バスターミナルを観光バスは午後2時半少し前に出発し、そして街中を通り過ぎ、
郊外の『大倉山ジャンプ競技場』の駐車場にわずか20分前後で到着した。

この『大倉山ジャンプ競技場』は、私たち夫婦は1981〈昭和56〉年の夏、
初めて道南地域の旅行をした時、札幌に無知な私たちはハイヤー観光で周遊した時、
この『大倉山ジャンプ競技場』にも立ち寄ってくれたが、
確か草の生い茂る周囲に、ジャンプ台が観えただけであった。

駐車場、スポーツミュージアムなどが新設され、
ジャンプ台の頂上まで、二人乗りのリフトがあり、私たちは驚きながらリフトに乗った。
そして山頂の展望台からは、広大な市内の街並みが一望でき、
しばらく見惚(みと)れたりした。

その後、観光バスは『藻岩山』に向かい、急速な坂道を登りきると、駐車場があり、
私たち一行はロープウェイに乗車し、雑木林、街並みを観ながら上昇した。
そして中腹に着くと、ミニケーブルが観え、
その近くに小型バスにキャタピラを付けた雪上車があり、
『モーりす』と大きくか書かれていた。

この可愛らしい『モーりす』号に乗車したが、
私たち夫婦は東北の蔵王で遠刈田方面から蔵王の樹氷めぐりをした時に、
本格的な雪上車の乗車し、山頂をめざした体験があったので、微苦笑を重ねたりした。

そして展望台から山なみ、市内の街並みが一望でき、圧倒的に私は魅了された・・。

10分ぐらい東西南北の情景を観たりした後、早くも夕闇がせまり、往路はミニケーブルに乗車し、
そしてロープウェイに乗車し、下方の市内の街並みの灯りが一望できた・・。
ぼんやりと私は、こうした情景を観ていると、過ぎし日に市内の街並みの灯りを一望したことが思いだされた・・。


2002(平成14)年の年末、私達夫婦は『ゆく年くる年 日本のてっぺんでお正月3日間』
と称された団体観光周遊ツアーに参加した。
私の定年退職したのは2004(平成16)年の秋であったので、
現役は残すところ一年10が月前であった。

この旅の終わりの寸前、郊外の根雪となった羊が丘で散策している時、
札幌の市内の灯りが満天の星のように観える中、
お正月の旅行も終ったね、と私は家内と笑いあったりしていた。

この後、私はまもなく中島みゆきさんの『根雪』の歌が心の中で流れたのである。

私は1970(昭和45)の春、ある大手の民間会社に中途入社し、
まもなく新設されたあるレコード会社に転籍させられた。
その後、レコード業界は、業界全体の売上げピークは1998(平成10)年で、
デパート業界と同様にかげりが見え、
この前後に各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、人事配置転換による他部門の異動、出向、
早期退職優遇制度により退職が行われた。

先輩、同僚、後輩の一部の人が、第二の人生を選択し、早期退職優遇制度に申請を出され、
私も出向となり、取引会社のひとつの物流会社に勤めた。

私が定年を迎える頃まで、いくたびかリストラが実施され、
長年苦楽を共にした先輩、同僚、後輩たちと別れを告げたりした。
そして、出向の物流会社も何度かリストラで、お世話になった方たちの送別会に出たりした。

私は出向先で、人員削減の荒波から退避したような立場となり、
心身とも辛い日々を過ごしていたのである。

こうしたことが札幌の街並みを眺め、思いだされてきたのである。

♪町は 毎日 冬
 どんな服でかくしてみせても
 後ろ姿 こごえてる
 ひとり歩きは みんな 寒い
    (略)
 いつか時が経てば
 忘れられる あんたなんか

【『根雪』 作詞・作曲・中島みゆき、編曲・福井 峻、唄・中島みゆき 】

私はやむえず業界から立ち去った先輩、同僚、後輩の一部の人たちが浮かび、
愛惜感でいっぱいだったのである。


このようなことを思い重ねたりしていた・・。

あれから10年は過ぎ、あの頃は現役サラリーマンで定年退職時まで残すところ1年10が月前であり、
出向先で勤務していた私は、出向先の物流会社、そして出向元の私が30年近く勤めた会社も、
リストラ烈風で、私自身は出向身分であったので、人員削減の荒波から退避したような立場となり、
心身とも辛い日々を過ごしていた・・。

あれから何とか定年退職を迎えた私は、私は第二の就職を避けて、
年金生活に入り、早くも年金8年生となっている。

過ぎ去ってしまえば、時が解決する、という名言があるが、
そうですよねぇ、と私は微苦笑させられたのである。


観光バスで札幌駅が観えた時、隣席にいる家内が、
『この観光ツアー良かったわ・・
昼下がりに大倉山の展望台からは、冬晴れの中、広大な市内の街並みが一望できたし・・
藻岩山の展望台の帰りにロープウェイからは・・下方の市内の街並みの灯りが一望できたし・・
良かったわ・・』
と家内は微笑みながら私に言った。

『そうだよねぇ』
と私は微苦笑しながら、家内に応えた。

                              《つづく》

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冬の札幌の郊外、私の限りなく魅了された幾重かの情景は【2012.1.28.~2.3.】 《3》

2012-02-04 16:11:39 | 
         第3章  北海道大学の構内を散策して

30日の朝、私たちは札幌の郊外のリゾートホテルの窓辺から、
積雪50センチの中、冬晴れのまばゆい街並みを眺めていたら、館内で休息日の予定を取りやめて、
午前中は初めて訪れる北海道大学の構内を散策、
午後は大倉山、藻岩〈もえい〉山の展望台から市内の街並みを一望したい、
と予定を変更した。

突然に初めて北海道大学の構内を訪れる理由は、ふたつの私の秘めたることであった。
ひとつは、今の67歳の身としては、せんなきことであるが、
私が読書に目覚めたりは遅ればせながら高校一年からであり、せめて3年早く熱愛していたならば、
北海道大学、或いは京都大学で、文学部国文科に学んでいただろう、
と自責の念があった。

もとより人生は誰しもやり直しはなく、
20代の前半に映画・文学青年の真似事をした私の体験時期に、
やりきれない後悔をしたことがあったのである。


残りのひとつは北海道大学の学生食堂を観てみたいことであった。
私の敬愛するシンガーソングライターの中島みゆきさんは、帯広の高校を卒業された後、
札幌の藤女子大学で文学部国文科を学ばれている。
確か高校時代の頃から、歌で自己表現を学ばれていた、と何かの本で私は読んでいた。

中島みゆきさんは1952年に生を受けられたのであるから、
藤女子大学で入学したのは1970年と推測する。
この当時の少し前は、大学の学園紛争時期であり、硝煙が残っていた頃でもある。

こうした時代に、近くにある北海道大学の学生と歌の勉学の交流をしていた、
と私は推測してしまう。
このことに関連して、読売新聞の2011年11月9日の夕刊に於いて、
中島みゆきさんは、イカタビューに応えている。
《・・シンガー・ソングライター、そして人としての在り方に影響を与えたのは、
1970年代前半の学生時代の体験。
学生運動が挫折し、
「先輩らが掲げた理想が矛盾し、内部分裂していった」
と、真剣な口調で振り返る。

「そうするとね。思想だけのために純粋に突っ走ることは、もはやできなかったんだよね。
しらけ世代なんて言われたけど、自分で考えたかったの。
そこからずうっと引っ張ってきて、今言えることは、愛でなら走るよ、
私はってことです」
・・》
こうしたインタビューされた記事が、私は読み、深く理解を重ねたので、
一度は大学で出入りがしやすい学生の食堂を見たかったのである。

私は1963年春に、東京の私立大学に入学して、
翌年の1964年の東京オリンピックが開催された秋に大学を中退し、
映画青年の真似事をした時代であった。
もとより学生運動の思想に無縁で、彼らを遠くから眺め、必死に名画を鑑賞したり、読書に熱中し、
原稿用紙に向っていた・・。
やがて映画、そして文学青年の真似事も挫折し、やむなくコンピュータの専門学校で一年ばかり学び、
1970年の春に、何とか大手の民間会社に中途入社した。

私たちは学生の食堂内の片隅で、私はコーヒーを飲みながら、
若き学生諸兄諸姉を見たり、食堂の建物を見たりし、
1970年・・40数年過ぎて、風化してしまった時の流れを受け止めたりした。

このようなことを思い馳せた後、家内と共に広大な構内の路を歩いた・・。

冬場れの中、雪道は殆ど除雪され、歩道は脇は50センチぐらいの積雪を見たり、
未知の各学部の建物を眺めたりした後、
地下鉄の南北線の『北12条』駅を目指して歩いた。

                              《つづく》

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