夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『八十八夜』を迎え、やがて私の幼年期の生家の『茶摘み』の情景を思いを馳せ・・。

2013-05-02 14:20:00 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であり.
今朝、雨上がりの曇り空で迎えたが、少し肌寒いじゃないの、と冬のスボーツシャツを着た。

こうした4月上旬のような曇り空の中、午前中のひとときに散髪屋(理容店)に行った後、
空は明るくなり青空となり、いつものようにスーパーで買い物を終えた帰宅した。

やがてテラスに下り立つと、陽射しが射し込む中、樹木の新緑も眩(まばゆ)く、
風薫る五月の情景だよねぇ、と私は心の中で呟(つぶや)いたりした。

そして確か今日は『八十八夜(はちじゅうはちや)』の日だったことに気付いたりし、
ぼんやりと新緑を眺めたりしていると、私の幼年期の生家に於いて『茶摘み』をしていた頃が思いだされた・・。
               

私は昭和19(1944)年の秋、東京都の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、幼年の私でも感じたりしていた。
もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。

そして私の後にやがて妹がふたり生まれ、 祖父、父が初めての女の子に溺愛したしぐさを私は見たりすると、
私はますますいじけて、卑屈で可愛げのない言動をとることが多かった・・。

しかし祖父は不憫と思ったのが、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。

私が地元の小学校に入学する昭和26(1951)年の春の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、 程ほど広い田畑、
そして田んぼの中のひとつには湧き水があったり、小さな川も流れ、
母屋の周辺は竹林、雑木林が周辺にあった。

この当時のこの地域の旧家のどの農家でも、お茶の樹を持ち、自宅用にまかなっていた時代の頃である。
               
私の生家は母屋、蔵、納戸小屋の二軒の中、宅地からゆるい坂を登りきると、
防風用に欅(けやき)が50数本があった。
3メートルぐらい間隔で植えられ、樹高は30メートル以上あった。
隣接した欅(けやき)が互いに寄り添うになると、晩秋に片方を伐採したり、
そして雑木林にあるクヌギ、コナラなどが大きくなり過ぎた樹木を伐採し、
父は薪(まき)割り作業などをして、翌年の一年間分の薪(まき)と小枝を作ったりしていた。

その先は平坦な地で陽当りが良く、春のお彼岸を過ぎた頃には、
野菜のトマト、キュウリ、ナス、ウリなどを種から幼葉までの育てる苗床が幾重にもあり、
洗濯の干し場にも利用されていた。

この平坦な所を抜けると畑となっていて、その先が村道であった。
この村道と畑の境界線としてお茶の樹が植えられていた。
幅は1メートルを超え、高さは150センチぐらいで、80メートル前後の長さであった。
              

5月の初旬の頃になると、新芽を手摘みをしていた。
一家総出で祖父、父や母、そして父の妹の叔母2人、小作人だった人々の支援も借りたりしていた。
私が幼児の3歳頃からは、付近に莚(むしろ)を敷いた上で、寝そべっていた、
と後年に母から教えてもらったりした。

新芽を摘んだ後、宅地の一角で生葉撰り(なまはより)といって、
お茶の葉から混ぜりものや蝕まれた葉を取り除く選別作業をしていた。

その後、生葉を新鮮なうちに、竈(かまど)の上に幾重か重ねた蒸篭(せいろ)で蒸した後、
団扇(うちわ)などで扇(あお)いで、よく冷(さ)ました。
そして、母屋の前の宅地の中央で、幅180センチ、縦360センチぐらい、
高さは90センチぐらいの長方形の大きな台の下の地面に炭火をおこし、
長方形の大きな台の上に薄い鉄板を敷いて、先程のお茶の葉を揉んでいた・・。

やがて煎茶として出来た後、しばらくした後に大きな桐箱、茶包みの箱に収納した。
この煎茶は、もとより家族一同が朝、昼、夜などで1年で愛飲したり、
祖父の一言に寄り、来宅した方の1部の方に差し上げたりしていた。

こうした中で、私は祖父からは、何かと可愛がってくれたが、
煎茶を淹れる時、いい加減な振る舞いで淹れる、と怒られた。
               
やがて私が昭和28(1953)年の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の昭和29(1954)年の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。

もとより農家としては、肝要な農作業のノウハウと労力も減退し、
田畑の作業も出来る範囲が大幅に減少したので、生計は低下を余儀なくされた・・。
数年過ぎると、お茶を摘む労力もままならず、垣根代わりの細くて長い茶畑は放置され、
やむなく煎茶は買い求めることとなった。

やがて昭和30〈1955〉年の頃から、生家の地域は都会に住んでいた人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した昭和32〈1957〉年であるが、
この頃になるとベットタウンとなり、田畑は激少し、竹林、茶畑も消え去り、
新興の住宅街となり大きく変貌した・・。
               

このような60年以上の前の生家の『茶摘み』の情景を思い馳せたりした。
この後、単細胞の私は、かぼそい声で思わず歌を唄ったりした・・。

♪夏も近づく八十八夜、
 野にも山にも若葉が茂る
【『茶摘(ちゃつみ)』 作詞、作曲・不詳 文部省唱歌 】

そして私は、古来から伝えられた格言のひとつ、
立春から八十八日を過ぎると、この日に摘んだ茶は上等なものとされ、この日にお茶を飲むと長生きする、
名言を重ねたりした。

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