夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

高齢者の方の何よりの命題だ、と確信しながら、駅前の本屋に急ぎ足で・・。

2013-05-10 15:22:00 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝いつものように読売新聞を読んていて、三面の下段に、
月刊総合雑誌の『中央公論』の最新号の出版広告を見たりした。

私は月刊総合雑誌の『文藝春秋』に関しては、1970〈昭和45〉年から長らく購読してきたので、
この10日の発売日には買い求めてきたが、
『中央公論』に関しては、特集に魅了された時だけ購読するのが、ここ40年の習性となっている。

このような私は、本日に発売される最新号の特集が気になり、
この出版広告を見たりしたのであった。

本日に発売される6月号の特集として、
《 長寿は本当にめでたいのか 》
と大きく掲げられて、
《 増税、年金カット、世代間対立、延命治療、認知症、振り込め詐欺・・》
と明記されていた。

そしてこうした中で、
《 老いゆく国のめでなくない現実 》
《 人生の終楽章だからこそ”逃げずに”生きたい 》
《 ”安らかな最期”には覚悟がいる 》
《 ルポ・あなたは、いくつまで生きたいですか 》・・
このような課題が著名人、専門分野の方、フリー・ライターの方が寄稿されていた。

私は読みながら、まぎれなく私たち高齢者の命題だ、
と確信を深めて、ぜひとも読んで学びたく、
駅前の本屋が10時開店時間であったので、私は急ぎ足で本屋をめざして歩いた・・。
                   


私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、家内とたった2人だけの家庭となり、古惚けた一軒家に住んでいる。
そして私たち夫婦は共に厚生年金、わずかな企業年金を頂く年金生活をしているが、
原則としての生計は、厚生年金、わずかな企業年金を頼って、生活費するのが原則としている。

しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

このように私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、と家内がときおり、
呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑しながら聞いたりしている。           
               

こうした年金生活をして9年生の私は、
もとよりいずれは、どちらかが片割れとなり、そして『おひとりさま』の生活となるので、
ぐうだらな私でも年に数度ぐらいは思案したりしてきた。

平素の私は、煙草を喫う愛煙者のひとりで、スポーツは無縁で、
根がケチな性格なのか、駅前までの路線バスなどは乗らず、ひたすら歩き廻ったりして、
自宅周辺の数キロ範囲の遊歩道、公園などを散策したりしているぐらいである。、

そして、お酒大好きだった呑兵衛の私は、一昨年の晩秋に何とか卒業して、
冠婚葬祭、国内旅行以外は週に一度ぐらいは呑むぐらいとなっているが、
このような齢ばかり重ねぐうだらな生活をしている私は、
私としては家内より早くあの世に行く、と確信をしている。

しかしながら、こればかりは天上の神々の采配にゆだねられているし、
まして、この世の中は、先のことは何が起きるか解からないので、
一年に何回かは、家内に先立だれた場合のことを考えたりすることもある。

私は家内と日頃から、葬儀、お墓のことも何度も話し合ったりしている。
葬儀は親族関係だけの家族葬とした後、お墓は樹木園に埋葬し、
それぞれ好きな落葉樹の下で土に還る、
そして四十九日が過ぎたら、その時の心情でお墓参りをすればよい、とお互いに確認し合っている。

私は家内が亡くなった時は、世の中はこのようなこともあるの、
と茫然(ぼうぜん)としながら四十九日を終えて、樹木園に行き、埋葬をすると思われる。
               

私が平素何よりも恐れていることは、痴呆症となり、自身が正常に自覚をできないことである。
私は親戚の方、知人の方とか、本などで痴呆症の悲惨さを少しばかり学んだりし、
たとえば私が痴呆症となり、介護をしてくれる家内の身を案じるとたまらないのである。
或いは逆に家内は痴呆症となり、私が看病する場合も同様である。

痴呆症の本人は介護して下さる方も解らず、
何よりも介護する方は、看病する張り合いがないと思われるからである。

このような私の思いから、痴呆症になる前に、ポックリとこの世と別れを告げたい、
と思ったりしている。


過ぎし日の一昨年の晩秋ある日、私の自宅の近くの川沿いの遊歩道を歩いていた時、
この遊歩道は片側が帯状に小公園となり700メートル前後あり、
樹木、草花が四季それぞれに彩(いろ)っている場所で、
私の散策の好きなひとつのコースでもある。
      
そして、いつものように木のベンチに私は座り、煙草を喫いながら、少し休息をした・・。

この時に、どうした思いか解らないが、いつの日にか命が果てる時は、
晩秋の午前のやわらかな陽射しの中、
ポックリと死を迎えられたら本望である、と脳裏をかすめたのである。

この遊歩道で、独りで歩き、桜(サクラ)、モミジ、ドウタン躑躅(ツツジ)等の朱色を誉(ほ)めたり、
白梅、公孫樹(イチョウ)、コナラ等の黄葉の彩(いろど)る錦繍の中、
木漏れ陽を受け、ときおり舞い散る葉を眺め、
好きな本を抱(かか)えて、いつの日にか突然に命が果てる、といった状況を願ったのである。


或いはいつの日にか身体の変調を感じて、自宅で寝ていて数日し、悪化する中、
布団の中でオシッコを一度だけ漏らしたりして、死去後のことなどを家内に伝言する。
やがて救急車で病院に運ばれて、入院して数日後に死去する。

そして『一週間前の頃は・・いつものように買い物に行ったり、散歩もしていたの・・』
と家内が心の中で感じてくれれば充分である。

このようなことを私は秘かに願望しているのである。


そして何よりも悩ましのは、『世代間対立』の難題である。
               
もとより私たちの高齢者がお世話になっている社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っているので、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、その時の高齢者を支えて下さっている現実がある。

高齢者の方たちは、働いて下さる若い世代の諸兄諸姉、学生たちから、
敬愛を込めた眼差(まなざ)しで見られているか、
或いは老害と感じるか、高齢者の私でも複雑な思いでいる。

少なくとも私より10歳以上齢上の人たちは、かの大戦の敗戦後の荒廃した日本を、
少なくとも世界の中でも有数な経済大国の礎(いしずえ)を努力と英知で築かれた人々であり、
日本に住む私達がこうして世界の主要国の人々の中、稀(まれ)な生活を享受しているので、
私は尊敬の念を抱(いだ)いているひとりである。

そして後続する私たちの世代、その後の団塊の世代と称される世代が奮戦してきたが、
今や65歳以上となり、まぎれなく超高齢社会となっている。

過ぎしここ10数年は、政治の昏迷、経済の低迷、社会の劣化となり、
社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、現状のままあると、
少なくとも毎年一兆円の国の負担が増している、と伝えられている。

こうした中で、高齢者の有権者層が急増している今日、
政治家の諸兄諸姉が高齢者を重視した政策を掲げることが多くなり、
現役世代の若い30、40代の人たちがのささやかな念願よりも、
定年退職が出来た上、年金受給者の高齢者を優遇せざるを得ない、危険な政治状況と憂いているひとりである。

このような現状の制度のままで放置すれば、
現役世代の若い30、40代の人たちは、何かと過重負担となり、
耐え切れず反乱されても致しがたいであろう、と思ったりしている。

そして、働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、世代間の格差の羨望と嫉妬の末、
高齢者の人たちを負担させるばかり人たちと思い、
邪魔な存在と感じながら、粗末にする風潮のなる世界が想像できる。

このような思いになると、たとえば福祉などは、
高齢者の方たちは、国が何をしてくれるのは甘えであり、
少なくとも、自身が払ってきた厚生年金などを支給を受ければ、
これ以上は、国、都道府県、区市町村に過剰に頼るな、と思っている。
               

このようなことを思考している私は、今回の『中央公論』6月号の特集の《 長寿は本当にめでたいのか 》
買い求めて、先ほどから読み、学んでいる。

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コメント (5)
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