夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

忘年会、齢を重ねるたびに減り、そして学生時代の悪友、或いは家内と懇親会となり・・。

2013-12-17 08:57:49 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たったふたりだけの家庭である。

そして民間の中小業のある会社を35年近く勤めて定年退職になったのは、
2004(平成16)年の秋で、そして年金生活に入り、今日に至っている。

この時節、世の中の働いて下さる現役の諸兄諸姉は、ボーナスシーズンも過ぎて、
多忙の中のひととき、忘年会を会社の同じ部署の人たち、或いは同僚たち、そして友人たち、
それぞれ懇親を深め12月中旬になると思われるが、
何かしら遠い世界の出来事のように感じたりしている。
          
私の50代の前半の頃は、サラリーマンで私なりに奮闘し、
この12月は部内はもとより、同世代、悪友たちと、何かと忘年会と称して懇親会を重ねてきた。

そして50代の半ばに、リストラが盛んとなり、
早期退職優遇制度の名目で先輩、同僚、後輩たちが退職されたり、組織の統廃合により人事異動、
そして私のように出向となったりし、烈風の社内状況となった。

定年退職するまで、年に数回は互いに連絡して、東京に残った人たちと懇親会を重ねてきた。

その後、私の定年後になる頃は、病気で通院しているの・・、親の介護で・・、親が亡くなったので・・、
メンバーが次第に欠落した・・。
そして、この時節になると、忘年会は2月頃に有志で集まってすれば、
と敬愛してきている先輩だった人から云われたりすると、
そうですよねぇ、と私は応(こた)えたりしてきた。

このように私は、この時節の忘年会と称した懇親会は、無念ながら消滅したのである。
               
昨今は、多くの退職された方たちも同様と思われるが、
過ぎ去る年の会社時代の先輩、同僚、後輩たちの集いより、
家族の団欒はもとより、親族、親戚関係の冠婚葬祭が優先となっている。

或いは私の近くに住む地元の小、中学の同級生と、最寄駅の居酒屋、食事処で逢い、
懇親を深めたりしている。
こうした時は、同級生の女性から、XXクン、と私は呼ばれたり、
悪友たちとは、お互いに苗字を呼び捨てにし、この世の一番気楽なグループ、と微苦笑したりしている。


このような心情で昨今は過ごしている私は、たまたま昨夜は高校時代のひとり悪友と逢った。
私の高校3年生の時に、私は彼の実家に50回ぐらいは泊まったり、
彼も私の実家に少なく20回は泊まったりし、もとよりお互いの家族とも懇親していた。

こうした間柄でも、私が20歳を過ぎた頃から、私は映画・文学青年の真似事に邁進し、疎遠になったりし、
その後は彼の結婚式の披露宴に列席したぐらいとなった。
そして私が定年退職後になるまでは、お互いに年賀状を交わす程度で、数年毎に電話をする程度となった。

そして私が定年後に毎年一回ぐらいは、お互いの住まいの中間点の『吉祥寺』の居酒屋で、
懇親を重ねた復活してきた。
親友か悪友、友人か解らないが、お互いに包み隠せず話し合える貴重な友である。

こうした時は、お互いの好きな単品を数多く注文し、彼はビール、私は地酒を呑みながら、話し合った。
家族のこと、そして昨今の世情を憂いた後、
昭和妻の専業主婦、或いは居候のようなことが許された良き時代だったことなどが、
たまたま話題となり、話が尽きないのである。
結果として、終電のこともあり11時過ぎに散会とした。
          

或いは家内と駅前で買物して夕暮れになった時、夕食を食事処で思案している時など、
何かしら居酒屋チェーンのネオンが数多く観えた時、
私は家内を誘い、忘年会の代わりの懇親会の真似事をしたりしてきた・・。

こうした中で、たまたま私はサラリーマン時代を含めて長年に愛用してきた居酒屋の変貌を話題にしたり、
或いはリストラ烈風で私の出向時代の心情、やがて同僚たちの動向を話題となったりしている。

そして苦節の時代があったが、今こうして大病もすることなく年金生活を過ごせるのは何よりだ、
と私は微苦笑を重ねて、家内に言ったりした。

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年賀状に取り掛かると、その人の顔立ち、しぐさを思い馳せて・・。

2013-12-16 07:41:56 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨日の昼下がりから、何かと愚図の私なので、年賀状に取り掛かかろうと決意した。

私は齢を重ねるたびに、年賀状を頂くのも、ひとつの楽しみとしている。

私の住む地域は、元旦の朝の10時頃に配達されるのが、毎年の慣(なら)わしとなっている。

そして、知人の近況などが付記されていると、
お元気でお過ごし・・と知り、安堵したりしているのである。
          
           ☆過日、最寄りの郵便局の片隅にある年賀状の販売飾りを撮ったりした☆

一番苦笑するのは、定例型の挨拶文だけで記載されている場合である。

例えば、

 賀正
本年もよろしくお願い致します

  謹賀新年
輝かしい新年を迎えまして
皆様のご健康とご多幸を
心よりお祈り申し上げます
 
私はこうした年賀状を拝読すると、落胆したりしている。

たとえ年賀状の一通でも、少なくとも近況とか、何か創意工夫が必要である、
と思ったりしているひとりである。

私は小学生の時、『習字』の授業は怠けていたので、今でも毛筆で達筆は遥かに遠い夢の世界であり、
『図画』の授業も不得意であったので、イラストで絵を描くのも駄目であり、
たとえば林檎(リンゴ)の描いても、リンゴ、と明記しないと、
どのように解釈されるか解らないので不安さを増すばかりなので、もとより避けている。

或いは、デジカメでその人なりの心を込めた情景で表現すれば良いかしら、
と思ったりしたが技量がなく、断念している。

やむなく私なり散文で綴り、的確に近況の知らせを短い文章で表現しているが、
私は毎年、12月の中旬になると数日思案したりしてきた。

この近況の知らせを親族、親戚、知人、友人等に数種類書き分け、
現役時代の頃は、上司、同僚なども当然として加わっていたので、私なりに工夫した文面を作成してきた。

古人から、文は人なり、という至言があるので、
たった年賀状一枚と云えども、粗末にできない習性となっている。
          

こうした思いを秘めた私は、宛名書きのソフトを利用しているが、
これまでは基本システムの『ウィンドウズ XP』に登録した住所録を利用してきたが、
来年の2014年4月9日に、マイクロからのセキュユリティの提供が賞味切れとなるので、
現在愛用している『ウィンドウズ 7(セブン)』に対応させる為に、
改めてそれぞれの人の住所録を再入力することとした。

そして今年の新年に頂いた年賀状と昨年の晩秋に頂いた喪中はがきを取りだして、
改めて読んだりして、住所録を入力したりしていると、
お住まいの地を思い浮かべたり、その人の顔立ち、しぐさが想いだされて、
あの人は・・お元気に過ごされているかしら、と以前にお逢いして言葉を交わした時を
思い馳せたりしてしまった・・。

やがて3時間ぐらいで住所録が完成して、今年の12月初旬までに頂いた喪中はがきを取り除くと、
年賀状の発信枚数が決まったりした。

そして後は、近況の知らせを親族、親戚、知人、友人等に数種類書き分ける文面の作成だけとなる。

余談であるが、年賀状の葉書は、インクジェットを使用し、
平成25年の時は、うぐいす色でパソコンで印刷したりした。
しかしご主人を亡くされたご婦人、お世話になっている女性には、
温かみのある桃色の葉書を毎年投函している。

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パソコンの『ウィンドウズ 8』を買い求めて、高齢者の私は戸惑いながら知恵熱!?

2013-12-15 08:08:32 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
一昨日の日中、家内が10年ぐらい愛用してきた掃除機が、
予告もなく突然に稼働を中止してしまい、やむなく結婚生活38年生の私たち夫婦は、
4代目となる掃除機を買い求める為に、昨日のある家電販売チェーンの大型店に行った。

そして一昨日の夕食の時、家内が、
『明日・・XXX電機で掃除機を買い求めた後、
貴方が思案しているパソコン・・買い求めたら・・』
と家内は微笑みながら私に進言したりした。

我が家のパソコンは、主力機としてOSと称される基本システムの『ウィンドウズ 7(セブン)』で殆ど毎日愛用し、
補助機として旧機の『ウィンドウズ XP』を時折使用している。
          
           ☆右側は旧機の『ウィンドウズ XP』、左側が現在愛用している『ウィンドウズ 7(セブン)』☆

昨今、周知の通り『ウィンドウズ XP』は、マイクロソフトからのサポートが、
来年の2014年4月9日に終了する、と半年前の頃から公表されてきたので、
やえなく最新の『ウィンドウズ 8.1』の搭載したパソコンを購入しょうかしら、と私は検討してきた。

しかしながら10月から各社の『ウィンドウズ8.1』の公表を雑誌とかネットで見たりすると、
タブレットが搭載、或いは無線LANの最新版が対応、などと明記されて戸惑ったりしてきた・・。
          
私たち夫婦は恥ずかしながら、スマートフォンはもとより、
携帯電話さえも使えないので、せめてインターネットは光ファイバー回線の『フレッツ』を頼りに、
ディスクトップのパソコンを利用している。

そして我が家は、たった一本の光ファイバー回線を頼りに、NTT東日本を指定し、
電話は『ひかり電話』、ネット回線は『フレッツ』、そしてテレビもアンテナ不要の『スカパー!光』となり、
このように我が家はすべて光ファイバー回線となっている。

このようにスマートフォン、フェイスブックそしてモバイルパソコンに無縁で、
無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事のような思い、
このように稀(まれ)な国民のひとりとなっている・・。
                      

しかしながら我が家として、補助機として旧機の『ウィンドウズ XP』が、
来年の2014年4月9日に、マイクロからのセキュユリティの提供が賞味切れとなり、
困惑してきた・・。

こうした思いの根底には、以前にたった一台のパソコンが故障した時、
修理期間の2週間にあり、パソコンのない空白の『パソコン迷子』になった寂しい体験があったりした。

或いは、ときおり家内が、旅行関係のネットの検索で、
家内は徹底的に調べるタイプなので、我が家の一台のパソコンは家内の独壇場となったりした。

このような体験があったので、私の少しばかり広い机には、
やむなく主力機として『ウィンドウズ 7(セブン)』、補助機として『ウィンドウズ XP』、
それぞれディスクトップ型のパソコンを設置しているのである。
          

このような私の事情を秘めて、昨日の日中のひととき、家電販売チェーンの大型店に行った。
そして私たち夫婦は掃除機を買い求めた後、パソコン販売のフロアーを廻ったりして、
タブレット・モードにも変貌できるノートパソコンは、私は使いこなす技量もないので、苦笑したりした。

そして従来型のノートパソコンで、CPUはインテルの最強版に近く、メモリは8GB(キガ)、
その上にハードディスクは1TB(テラ)ぐらいで、画面は程ほどに大きいのを探し求めたりした。

こうした思いの根底には、もとより日進月歩のように絶え間なく進化するので、
現時点として程ほどに市販品として高いレベルを求めてきた。

そして私はディスクトップの21.5型のワイド画面を愛用しているので、
たとえノートパソコンであっても、15型のワイド画面が、近視の私は欲しかったのである。

その上に付属のドライブ装置は、現在はブルーディスク対応を活用しているので、
DVDスーパーマルチのレベルダウンは避けたかった。


このような思いを秘めて、120台ぐらいの各メーカーのノートパソコンを見たりした結果、
現時点としては魅了された品は、ひとつであった。

商品名札には、秋冬モデル『VAIO Fit 15E』と明記された下に、
『SVF1531DJW Windows 8 64bit 
インテルCore i7-4500U(1.80GHz)、メモリ 8GB、HDD 1TB、15.5型の高輝度液晶』
このように記載されていた。
そして小さく、最新の『Windows 8。1』へ、無償アップデート。

結果として、基本システムの『ウィンドウズ 8』と最新の『ウィンドウズ 8.1』との差異は、
改定内容が少ないと思え、このノートパソコンは10月下旬に発売されていたので、買い求めることにした。

そして私は付帯購入条件として、
恥ずかしながら私はいつまでもネット初心者の若葉マークであり、初期設定などの依頼をした。
このような事情で、技術サポートの担当者が我が家に23日のXX時に来宅してもらう際、
買い求めたノートパソコンを持参して頂くこととした。

この後、帰路に本屋に寄り、新たな基本システムの『ウィンドウズ 8』を事前に学ぶ為に、
一冊の教科書を買い求めたりした。
               
そして現在使用している『ウィンドウズ 7』であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
教えを乞う人もいなく、私はマニアル本を買い求めて、何とか一年前頃から『ウィンドウズ 7』が、
身も心も馴染んできたりしている。

今回、この教科書を見ながら、斬新な『ウィンドウズ 8』の新画面の解説、機能などを読んだりすると、
高齢者の私は、幼児のように知恵熱で困憊(こんぱい)しそうで、
どうしてそんなに変わるのょ、今から改めて、お勉強なの、と溜息を重ねながら、戸惑ったりしている。

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20数年前『地吹雪体験ツアー』中止となり、その後に幾たびか地吹雪を体験し・・。

2013-12-14 06:11:58 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であり、
ときおり小庭の手入れは、原則として私の責務の範疇であるが、
蚊(か)の出る5月下旬頃から10月頃までを除き、体力の衰えた私を見かねて、
家内の支援を受けていることが多くなっている。

そして年末年始に備えて、私たち夫婦は今年最後の樹木の剪定を朝の8時半から午後の4時まで、
昼食抜きで奮戦した・・。
こうした中で午後の1時過ぎから、ときおり北風が吹いてきた。

そして樹木の剪定を終えて、数多くの落ち葉を掃き清めていると、
北風が吹くと、せっかく掃き清めた所が゛落ち葉は舞い飛ばされて、散乱したりし、
私たち夫婦は苦笑したりした。

こうした時、たまたま私が小休憩をしていると、
過ぎ去り年の20数年前『地吹雪体験ツアー』を思い馳せたりした。
この『地吹雪体験ツアー』は、ある旅行会社で実施予告が新聞で掲載されて、
私たち夫婦は申し込んだりした。


こうした私の思いの根底には、私の幼年期には冬の時節、
東京の郊外の調布市でも、積雪30センチ前後が数回は降っていた。

そして 私は長靴に藁(わら)と唐辛子を入れて、
畑、雑木林に積もった雪原の中を駈けずり廻ったりしていた・・。

このような幼年期の思いでもあり、
国内旅行で冬の時節、東北、北海道で温泉のある観光ホテルに数泊し、
家内と付近の里路などの雪道を歩くのが好きなのである。
          
こうした時は、私たち夫婦は冬季の耐寒フィールド・ジャケット、マイナス20度前後の耐寒性のある軽登山靴、
それぞれ帽子を被り散策している。
          
確か20数年前前頃だったと記憶しているが、
青森県のある地方都市で『地吹雪体験ツアー』の参加募集があり、
私達夫婦は即急申し込んだが、
結果としては希望枠20名の応募がなく、施行が中止された。

その後、芦の牧温泉に2泊3日で滞在した時、
一晩に50センチ前後の積雪があり、驚きながら付近を散策した。
小高い里山の中腹にある温泉神社に参拝した帰路、
突然に風が舞い、やがて雪が降り、視界は数メートルとなった。

私は家内に、しばらく止まって、と15分前後立ちすくんだのである。
の後、風は弱まり、再び歩き出した。

こうした体験は、湯西川温泉の時も同じであった。
その後の蔵王の樹氷めぐりの時は、雪上車に乗り、山頂の付近で、下車した時、
猛吹雪で、足元は積雪に捕られ、
とてもデジカメで樹氷の情景の撮影どころではなかったのである。

このような状況を体験した私達は、
風が雪がどちらかにして欲しい、などと身勝手な思いとなったのである。

ここ数年の冬の時節、周囲の雪景色を眺め、
風のない積雪が10センチ前後の雪を踏みしめながら歩くのが、
          
一番のどかで楽しみとなっている。

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パソコンの『ウィンドウズXP』の後の選定に、ここ数か月、高齢者の私は思惑して・・。

2013-12-13 06:10:39 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後35年の古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

こうした中で、我が家のパソコンは、
主力機としてOSと称される基本システムの『ウィンドウズ7(セブン)』で殆ど毎日愛用し、
補助機として旧機の『ウィンドウズXP』を時折使用している。
          
           ☆右側は旧機の『ウィンドウズXP』、左側が現在愛用している『ウィンドウズ7(セブン)』☆

そして『ウィンドウズXP』は、マイクロソフトからのサポートが、
来年の2014年4月9日に終了する、と過ぎし日の9月頃に知り、
やむえなく最新の『ウィンドウズ8.1』の搭載したパソコンを購入しょうかしら、と思案してきた。

しかしながら10月から各社の『ウィンドウズ8.1』の公表を雑誌とかネットで見たりすると、
タブレットが搭載、或いは無線LANの最新版が対応、などと明記されて戸惑ったりしてきた・・。
          
私たち夫婦は恥ずかしながら、スマートフォンはもとより、
携帯電話さえも使えないので、やむなくインターネットは『フレッツ』の回線で、パソコンを利用している。

そして我が家は、門扉に近い電信柱から、たった一本の光ファイバー回線を頼りに、
NTT東日本の管轄下で、電話は『ひかり電話』となり、
たまたま世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住んでいるので、都内地域の配線下となっている。

そしてネット回線は『フレッツ』なり、私はパソコンでネットを日々利用している。
或いはテレビも、アンテナ不要の『スカパー!光』となり、
このように我が家はすべて光ファイバー回線となっている。

その上にスマートフォン、フェイスブックそしてモバイルパソコンに無縁で、
無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事のような思い、
このように稀(まれ)な国民のひとりとなっている・・。
                      
    
私は1998〈平成10〉年の当時、音楽業界のあるレコード会社の管理畑に勤めていたが、
この少し前の年の頃から、若手の20、30代の世代が携帯電話を使い始めいたが、
50代の私たちも、いずれは携帯電話を利用しなければ、と思っていた。

この数年前の頃から音楽業界はリストラの烈風となり、
私は1999〈平成11〉年の初春に、取引先の物流情報会社に出向となった。
勤務した職場は、音楽のCD、DVDなどの商品をソフトの販売店に出荷、返品など取り扱う商品センターで、
私を含めた管理の正社員の5名の基で、契約・パート社員の男女120名前後で対応した。

東京ドームより広い商品センターの中で、連絡事項などはマイクを通して拡声器、もしくは電話などで通達し、
携帯電話も要求されない現場で奮闘し、
この出向先で5年半ばかり勤め、2004〈平成16〉年の秋に定年退職時を迎えた。

この間の世の中は、多くの方が携帯電話が愛用する時代となったが、
私は定年後の年金生活の中で、何かの機会で覚えればよい、と思ったりしていた・・。

私は携帯電話に興味がなく、今日まで至っているが、
5年前の頃から、私たち夫婦のどちらかが、ボケる前には、
迷子のように、私はどこにいる・・と確認できるGPS機能の携帯電話が必要と思い、
新聞に添付されるチラシの一部に、携帯電話とかスマートフォンの各社の広告が入っているので、
ときおり私たち夫婦は見たりし、思案するばかりで今日に至っている。
          

このように私たち夫婦は。携帯電話も使えず、ましてフェイスブック、スマートフォンは遠い世界のように思え、
世の中の時流から取り残されている中、
インターネットはせめてパソコンでと思い、自宅にラップトップ型のパソコンを置き、
ささやかながら対応している・・。
                              
私のパソコンのささやかな歴史は、私が初めてパソコンを購入したのは、
確か1983(昭和58)年の頃であったと思われ、NECのPC8801だったと記憶している。

そしてフロッピー・ディスク装置、プリンター、漢字対応させる為に漢字ロムを付加させたりしたので、
この当時の私の年収の15%ぐらいで、住宅ローンの返済もあったので、
私としては高価なパソコン・セットであった。
そしてベーシック言語でプロクラムを書いたりして、新古今和歌集を入力したりしていた。
          

その後、1998(平成10)年の夏に、会社と自宅で使うので、買い改めたりした。
ノートパソコンで『ウィンドウズ98』の基本ソフトであり、たまたま富士通を選定し、
この当時は付属の記憶装置はフロッピーであった。
そして自宅の居間で、表計算ソフトを活用して、会社の資料を作ったり、
或いは日記ソフトを買い求めて、私自身の日記を書いたりしていた。


2001(平成13)年の秋になると、 定年退職時が2004(平成16)年の秋であったので、
定年後の生活に備えてパソコンを一新した。

『ウィンドウズXP』であり、富士通のディスクトップのタワー型を選定した。
この当時は、液晶ディスプレイが普及し始め、迷ったりしたが何よりも安定性を配慮し、
19型のこの当時の最後のブラウム管フルフラットCRTとした。

付属の記憶装置は、DVD-ROM、CD-R/RW、フロッピーであった。
そして、10年ぐらいは大丈夫かしら、と思ったりしていた。
プリンターも新調し、民芸風の大きな机、脇机、そして椅子を買い揃え、定年後に備えたりした。

しかし定年後の生活に備えたパソコンは、2006(平成18)年9月中旬に、
予告もなく突然にタウンして、まもなく年金生活2年生を迎えようとしていた私は、
10年ぐらい利用しょうと思ってたのに、どうして故障するのよ、
と長らく黒い画面を見つめながら、大いに落胆したりした。
          
そして買い求めたパソコンの量販店に修理を依頼して、
来宅して貰い、心臓部のキャッシュメモリ、メインメモリの一部でわずかな磨耗があり、
部品の交換すると10万円を超えるので、やむなく新製品を買い改めた。

買い改めたのは、『ウィンドウズXP』の液晶の富士通のディスクトップで、
ディスプレイは、この当時の流行の20.1型のワイド画面のスーパーファインVXのハイビジョン対応であり、
CPUはインテルのデュアルコア、メモリは1GB、ハードディスクは400GB、
付属の記憶装置は、DVDスーパーマルチ等で、この当時としては、程ほど最強版となっていた。

パソコンのデザインも良く、安定したドライブの配置もあり、好感していた。
しかし後年になると、このパソコンのハードディスクの2分割管理が、
時代から遅れてしまったのである・・。

基本システム、プログラムなどは、Cドライブとして実質30GB、
そして自由エリアとして、Dドライブは実質338GBと分割構成されていた。

問題はシステムを含むCドライブで、私の個人用に使用しているソフトを記憶させたり、
何よりもインターネットの各サイトで、数多くの更新が加わるので満杯近くとなり、
やむなく私は、写真などは、Dドライブに移動させて管理したり、
不必要なファイルの削除をした後、ディスクの圧縮作業のデフラグをしたりした。

やがて2010(平成22)年12月は、やむなくハードディスクの再分割作業し、
Cドライブを増加させて、パソコンを日々利用しているが、
ネットの世界は益々進化し、そして情報の洪水のような状況に戸惑ったりした。
          
このような事情を秘めていたので、遅ればせながら、
この当時の主流の『ウィンドウズ7(セブン)』の新機種を買い改めたのが、
一昨年の2011〈平成23〉年の6月であった。

選定した機種は、ソニーのディスクトップのテレビ不要型で、
ディスプレイは、この当時から流行したワンタッチパネルの21.5型のワイド画面で、
CPUはインテルの最強版、メモリは4GB、ハードディスクは1TBであった。

そして付属のドライブ装置は、ブルーディスク対応で、
この上に、外部ドライブ装置として、ある専用メーカーのハードディスクの2TBを連結させて、
現在に至っている。
          

そして私はこれまで愛用してきた『ウィンドウズXP』は、予備用として利用することに決めた。
こうした根底には、以前にパソコンが故障した時、修理期間の2週間にあり、
パソコンのない空白の『パソコン迷子』になった寂しい体験があったりした。

或いは、ときおり家内が、旅行関係のネットの検索で、
家内は徹底的に調べるタイプなので、我が家の一台のパソコンは家内の独壇場となったりした。

このような体験があったので、私の少しばかり広い机には、
やむなく従来の『ウィンドウズXP』と新たな『ウィンドウズ7(セブン)』を
当面2台のパソコンを置いたりしている。


このような私のささやかなパソコンの足跡があるが、
『ウィンドウズXP』は来年の2014年4月9日に賞味切れとなり、
マイクロソフトの意向で大手の家電、パソコンの量販店が、
『ウィンドウズXP』の下取りキャンペーンを今年の12月まで実施している。

やむえなく私も『ウィンドウズXP』に別れを告げて、
最新の『ウィンドウズ8.1』を思案してきたのである。
          
そして私は数多くのビジネスマンが自宅と会社で使用されているノートパソコンにしょう、
と思っている。
程ほどのハードディスクの耐久性があり、標準的な無線LANの対応できる機種であり、
数年先は益々光ファイバーより無線による情報利用が伸長するので、
保険代わる配慮したまでである。

この間に、モバイルのノートパソコンで、最新の無線LANの装備で、
データ通信社と契約した上で、たとえば国内旅行の滞在先が、送受信をしょうと妄想したこともあった。
しかしながら、程ほどのデータ通信だと、毎月5000円前後は費用が発生する。

その上に、日常生活に於いてブログの投稿文を毎日一通しているが、
年に数回の旅先までは、果たして投稿文を綴るのか、と思惑したりした。

もとより旅先は、その地を歩いたりして情景を眺め、
五感と称される視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚で心身受け止める、
このような旅を重ねてきたので、あえなく断念した次第である。
          
このような関係で私は、スマートフォン、フェイスブックそしてモバイルパソコンにも当面は無縁となり、
無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事だ、と微苦笑したりしている。
そして私は、どこまでモバイル情報が進んだら、人は満足するのょ、
と心の中で呟(つぶや)いたりした。

或いは昨今は情報が洪水のように溢れ、人々はたえず情報に翻弄されている時代と思え、
パソコンの進化で表現するならば、『ウィンドウズXP』が普及した10年前頃が、
多くの人にとって程ほどに心安らぐ情報の時代だった、
とサラリーマン時代に20数年に情報畑で奮闘してきた老兵の私は、確信を深めたりしている。

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東京の郊外は、晩秋は終わりを告げて、初冬の時節を迎えて・・。

2013-12-12 06:25:37 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
過ぎし日5日より3泊4日で北海道の旭川市の奥地にある天人峡の旅を帰宅した翌日の9日、
早朝から小庭にある白梅の淡き黄色の葉が音もなく舞い散っていた。

そして一昨日の10日の昼下がり、モミジの朱紅色に染められた数多(あまた)の葉は、
枝から離れて、舞い上がるように空中を彷徨(さまよ)いながら、やがて地表に落下した。
そして地表に散乱して、一部は片隅に吹き寄せのように積もったりした。

こうした情景を観たりしていると、私の住む地域は晩秋が終わりを告げた、
と心の中で呟(つぶや)いたりした。

私は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住み、この地域は過ぎし11月3日の『文化の日』の頃から、
あまたの落葉樹の葉は、紅色、朱紅色、朱色、淡き黄色、黄色、茶色などに多彩に染めはじめ、
          
やがて11月23日の『勤労感謝の日』の頃になると、
周囲一帯までは紅色、朱色、黄色などに染められる錦繍(きんしゅう)の情景となる。
                 
やがて数多くの葉が舞い散る中で、公孫樹(イチョウ)の黄色い葉が彩(いろど)りを見せてくれる。
そして周囲に公孫樹(イチョウ)のあまたの葉が黄色い絨毯を重なるようになるのが、
12月の『師走(しわす)』の初旬となっているのが、平年の習わしとなっている。

そして今年は暖かな秋日和に恵まれることが多かったりしたので、
一週間ぐらい遅れている、と微笑みながら私過ごしたりしてきた・・。
          


昨日、平素の買い物専任者の私は、家内から依頼された品物を買い求める為に、
京王線の『仙川』駅の付近の商店街を目指して歩いたりした。

淡き陽射しの中、ときおり曇り空となったりしていたが、風もなく12度前後の暖かく感じ、
冬のスポーツシャツにジャンパー形式のフリースを着た程度で、軽快に歩き、
路線バスの通る主要道路を避けて、旧街道を歩いたりした。
そして少しばかりの竹林の外れに、残り花のようなモミジを眺めたりした。
          
その後に椿(ツバキ)の花を見て、私の住む地域としては冬の代表的な花だったなぁ、
と微笑んだりした。
          

やがて坂道を登りきりと、こつ然と黄色に染めらた公孫樹(イチョウ)の樹が観えた。
          
そして私は近づいて、長らく見惚(みと)れたりした・・。
            

やがて商店街に近くになると、寺の境内の外れに、
公孫樹(イチョウ)の葉が落下し、絨毯のように舞い散った情景を観たりした。
          
その後、近くにある音楽専門学校の桐朋学園仙川キャンパスの校門のひとつからの情景に魅せられて、
撮らせて貰ったりした。
          

その後、駅ビル内にある本屋で月刊総合雑誌の『文藝春秋』(新年特別号)、『新潮45』(12月号)を
買い求めた後、
ドラックストアーで家内からの依頼の特売品を多めに買い求めたりした。
洗濯用品のソフラン、台所用品のキッチン泡ハイター、乾燥肌対策のスキンケアのユースキンAなどを
多く購入すると、ある程度は重くなり、苦笑したりした。

そして家内のお気に入りのパン専門店で、フランスパンとケーキのような菓子パンを購入し、
平素は路線バスを利用しないで、ひたすら歩く私でも、
買い求めた品が重く、やむえなく路線バスに乗車して帰宅した。

そして昼下がりから、買い求めた月刊総合雑誌の2冊を読み始め、
特に『新潮45』(12月号)の特集『「昭和」が消えてゆく』に店内で瞬時に魅了されて、
遅ればせながら買い求めたが、そうでしたよねぇ、と独り心の中で呟(つぶや)きながら精読したりした。

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猪瀬都知事は虎の尾を踏んでしまった、と政治にも疎(うと)い私でも感じて・・。

2013-12-11 09:40:56 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
ここ数週間、猪瀬直樹・東京都知事が医療法人「徳洲会」との間に、
貸し借りされたという5000万円が新聞、テレビのニュース、そして都会議員から糾弾されている。

私は政治にも疎(うと)い身でありながら、
どうして今頃になって選挙資金の疑惑が出るのかしら、と新聞に掲載された初めに漠然と思ったりした。

或いは猪瀬直樹・都知事に対して険悪する人・・疑惑を提示して失脚させる・・
こうした私なりの妄想のひとつとして、森・前首相も猪瀬都知事とは、
仲良しではなかったなぁ、と思ったりした。

東京オリンピックの誘致で、もとより両氏は誘致に多大に貢献したが、
オリンピック開催するまでの巨額な準備、整備金に於いて、
国と都の負担金に於いて、両氏の思いが差異があった、と何かの月刊誌で読んだりしてきた。

しかし森・前首相は、大人(ダイジン)の器の人であり、まさか猪瀬都知事に対して、
今回のような小さなことはしない、と私は思ったりしてきた。

昨日、『YAHOO! JAPAN』の『雑誌』コーナーを読んでいて、
たまたま今回の問題の記事が掲載されていたので、精読して、
猪瀬都知事は虎の尾を踏んでしまった、と私は強く感じたのである。
          
この記事の根源は、『週刊プレイボーイ』51号の中のひとつとして、
「『猪瀬×徳洲会』を“ハメた”のは巨大な既得権益集合体だった!!」より
取材された菅沼 慶さんが『「猪瀬都知事×徳洲会」問題が、1年後に表面化した真の理由とは?』と題し、
この掲載分を私は精読したのである。

《・・医療法人「徳洲会」と猪瀬直樹東京都知事の間で貸し借りされたという5000万円が大問題になっている。
これがいわゆる“裏金”であれば、猪瀬氏の責任は重大だ。
当然、追求されてしかるべきなのだが、一方でこの問題が表面化するまでの経緯には、不審な点も存在する。

徳田毅衆院議員の地元(鹿児島県)選挙区の事情に詳しい元自民党幹部、S氏が不審点について解説してくれた。

「徳洲会グループと徳田毅さん、彼の父親である徳田虎雄さんが政界に多額のカネをバラまき、
地元の鹿児島では公職選挙法に抵触しそうな行為が日常化していたことは誰でも知っていたことです。
虎雄さんが初当選した20年以上前からずっと続いていました。
特に徳之島では、厳密に言うと島民のほとんどが罪の意識なく公職選挙法に違反する行為に加担していたと思います。

でも今までは東京地検はおろか、鹿児島県警さえも関心を示さなかった。
そんな“小さな案件”を摘発しても誰の手柄にもならないからです。
しかも公職選挙法違反の摘発は、衆院選ならば公示日に各都道府県警に捜査本部が設置されて、
だいたい投開票日の1ヵ月半後には捜査と摘発を終えて解散するんです。
だから公選法違反に関して“身に覚え”のある候補者陣営は、
捜査本部が解散するとホッと胸をなでおろすものなのです」

しかし今回の場合は、昨年12月に投開票が行なわれた案件に対し、
9ヵ月以上も経過した9月に捜査が表面化し、11月になってから猪瀬氏に飛び火した。
S氏は「本当に異常な展開」と訝(いぶか)しがる。
          
その理由は何なのか? 
猪瀬都知事と徳田衆院議員の首を差し出すことでメリットを得る“誰か”がいる、ということだ。S氏が続ける。

「徳田さんの支持母体はご存じのとおり、
彼の父親である虎雄さんが築き上げた『徳洲会』という巨大な医療法人グループです。
彼らは昔からさまざまな医療改革を訴え、ことごとく日本医師会とぶつかってきた。
これに関しては、公平に見て徳洲会側の言い分のほうが正論だったケースばかりです。
医師会も監督官庁である厚生労働省も、自分たちの利権や不正を正論で指摘されるから面白くない。
だから彼らは昔から徳洲会を煙たがってきたのです。

でもね、医師会や厚労省の損得だけじゃ国会議員に関わる案件は動きません。
そこに登場するのが猪瀬さんなのです。
彼は自民党の税制調査会が推進する、
法人住民税の一部を国税化して地方交付税に充当するというプランにイチャモンをつけたのです。
これで自民党はおろか、国税を所管する財務省、地方交付税を所管する総務省までも敵に回してしまった」
          
財務省上層部には、「自分たちが国の中心だ」と、大臣でさえも見下す人が多いという。
それが東京都知事ともなれば「一介の地方代官の分際で」となるわけだ。
つまり、狙われたのは、徳洲会ではなく猪瀬知事……?

もちろん、政治の世界において不正は決して許されるものではない。
だが、あまりに不自然なタイミングで表面化するとき、
そこにはわれわれの目には見えない“思惑”が存在している。・・》
          
このような全文を無断ながら掲載させて頂いたが、
私は徳洲会グループを率いてきた徳田虎雄さんの功罪も多々学んできた。

今回の強大なメディアの新聞、テレビのニュースは、
人は誰しも功罪を秘めているが、こうしたことは記事にされず、
ただバッシングすることは恥ずべきことである。

そして猪瀬都知事は、都の財政基盤を確保する都民の為の責務として、
《法人住民税の一部を国税化して地方交付税に充当するというプランに反対声明》を公表したのである。
この結果として《国税を所管する財務省、地方交付税を所管する総務省までも敵に回してしまった》
こうしたことであったならば、今回の騒動は私なりに理解できた。

しかし強大なメディアの新聞、テレビのニュースは、こうした事実は各専門記者、編集局は知っていた、
と私は妄想を重ねて、どうしてメディアの責務として伝えることができないの、と感じ深めたりした。

その上、都会議員の諸兄諸姉は、表面上の貸し借りされたという5000万円を糾弾し、
肝要の都議会の審議を浪費して大人のおもちゃ遊びをして、
今回の底辺の原因、背景を学ばないか、私は都民のひとりとして不思議に思っている。

そして首長の猪瀬都知事が都の財政基盤を今後も安定しょう、
と責務のひとつとして《法人住民税の一部を国税化して地方交付税に充当するというプランに反対声明》を公表したのに、
肝心の都会議員の諸兄諸姉が慄いて、強きものにひれ伏すならば、
都会議員の資格はないと、私は妄想を重ねている。

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粉雪舞う天人峡温泉《5》【2013.12.5.~12.8.】最終章 初冬の天人峡温泉に別れを告げて

2013-12-10 14:14:36 | 
          最終章 初冬の天人峡温泉に別れを告げて

私たち夫婦は、天人峡温泉の中のひとつの『天人閣』に初めて3泊4日間を滞在し、
8日の早朝の6時過ぎに、大浴場に身をゆだねて身体を温めた後、隣接されている露天風呂に行き、
粉雪舞う情景に見惚れたりしていた・・。

そして早くも旅の最終日となり、今回の旅路は雪の中を一時間半ばかり散策した程度であったが、
館内からも小雪の降りしきる情景を眺めたりした・・。

そして私たち夫婦は、国内旅行が共通趣味のひとつであるが、
何かと雪が舞い降る冬の旅を幾たびも重ねて、ひたすら宿泊地の周辺などを散策したりしてきた。

こうした私の根底には、幼年期の頃からだった、と思い馳せたりして微苦笑をした。
          

私は1944〈昭和19〉年に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
この当時、祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、
程ほど広い田畑、そして小さな川が田んぼの片隅に流れ、湧き水もあり、竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
この地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

この当時は、徒歩15分ぐらいの京王線の最寄駅まで、
殆ど田畑が広がり、雑木林、竹林なども観られた田園風景であった。

こうした中で私の幼年期は、毎年、冬の時節になると、雪が30センチ前後が数回降った。

1951〈昭和26〉年の春に私は地元の小学校に入学したが、
初めての冬に雪が降り、登校した時が想いだされる・・。

ゴムの長靴の中に、母か叔母の手助けで藁(わら)を敷き、赤くなった唐辛子を少し入れ、
番傘を差して、家を出た。

家、周辺は雪が降り積もり、空からは雪が絶えず舞い降り、ときおり風が吹き、
長靴は雪の中で埋もれてしまったので、30センチは越えていた、と思われる。

そして駅の最寄の小学校までの通いなれた通学路は、この時は無視し、
祖父、父の知人の畑も雪に埋もれていたので、この中を吹雪いていたが一直線で登校した。

小学校は木造の二階建てであり、教室の片隅にあった木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)があり、
この当時のこの地域の村立小学校に於いては、コークスはもとより、石炭も使用される前の時代であったので、
正方形の中心に簡易に造ったブリキの中で、炭を熾(おこ)してあるか、ときには薪(まき)が燃やされていた。

私たち学童は、この木造の一間ぐらいの正方形の火鉢(ひばち)を囲みながら、
衣服に雪がまといついたのを払いながら、
雪深く、吹雪いた中をよく無事に学校に着いたと、子供心にお互いに健闘し合ったりした。

そして、学級のクラスの中で10数人欠席したので、
あいつ、こんな雪で休むなんて・・と互いに悪口を言い合っていたりした。

下校のひととき、私も番傘でチャンバラの真似事をし、番傘の数箇所が破れ、帰宅後に母に怒られたりした。

このように毎年、冬の時節は、少なくとも数回は降り積もった。


その後、1955〈昭和30〉年の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957〈昭和32〉年であるが、この頃になるまでベットタウンの住宅街に大きく変貌した。

1964〈昭和39〉年に東京オリンピックが開催された時代になると、
数年に一回程度、15センチぐらいが降るが、この間は殆ど数センチ前後の小雪となっている。

こうした幼年、少年期を体験した私は、この時節の寒い時期を迎えると、心の奥底に雪恋しとなり、
私が40歳を過ぎた頃から、家内と共に毎年、この時節になると北の地域に旅行し、
雪の情景を享受し、現在に至っている。

このように私たち夫婦は、なぜかしら東京郊外の田舎者の私は、
冬の時節になると家内を誘って、北に旅をしてしまうことが多いのである。
          

今回のフリープランに参加した私たち一行は、9時50分に集合して、
宿泊した『天人閣』のご厚意で、旭川空港まで送迎バスを出してくれた。
そして館内のスタッフがロビーから各自の旅行スーツケースを運んで下さったり、
私たち一行は、バスに乗り込むたけの気楽さで、私は恐縮したりした。
          
やがてバスは積雪20センタぐらいの忠別川沿いの道を下り、
私たち一行は滞在中の思いでをそれぞれ秘めて、初冬の天人峡に別れを告げた。
          

そして旭川空港の館内で、サンタクロースの飾り、モミの大きな樹のクリスマス・ツリーを私たち夫婦は眺め、
          
まもなくクリスマス、そして年末が近づいてきていることを教示されたりし、
指定された羽田空港行きの航空便を出発ロビーで待機したりした。
                            《終わり》

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粉雪舞う天人峡温泉《4》【2013.12.5.~12.8.】第三章 『天人閣』の館内は我は遊楽の時なり

2013-12-10 07:47:52 | 
          第三章 『天人閣』我は遊楽の時なり

私たち夫婦は、天人峡温泉の中のひとつの『天人閣』に初めて3泊4日間を滞在した。
家内は旅立つ前にネットで『天人閣』検索し、コメントされた方の内容まで調べる習性があり、
部屋が寒い、と悪評価を気にしていた。

しかしながら私たちが指定された部屋は、旅費の直接振り込み金額は格安だったが、
想定していた部屋からは、見晴らしも良く、暖房装置も瞬時に効力があり、
私たちは快適に過ごせたりした。
          
その上、洋風の部屋であったならば、もとよりツイン形式のベットを想定していたが、
3つベットが常設されて折、これだったら好きな所で、寝たり、読書もできる、
と私は微笑んだりした。
          
そして滞在中、窓際にある椅子に座り、本を読んだり、ときには窓越しから観える景観を眺め、
或いは売店で買い求めた地酒の『国士無双』を呑んだりして、家内と談笑したりした。

この地酒の『国士無双』は、以前に北海道を旅をしていた時、『男山』と共に愛飲してきたが、
今回の最初の夕食時に於いて、北海道地酒利き酒セットと称された3種類が、
『大雪の蔵』を含めて可愛らしいガラスのぐい呑みで《呑み比べ》できる企画が実行されていた。

私は65歳まで呑兵衛の児であったので、三杯呑み終えても一合ぐらいで、
微笑みながら呑んだりした。
そして私は何かと自身にも家内、知人にも甘いが、せめて酒は辛口好みであったので、
『国士無双』に瞬時に波長が合い、この滞在している中、煎茶と共に友とした。

そして好きな時に源泉掛け流しの大浴場で湯に心も身もあずけたり、
或いは露天風呂からは小雪が舞う情景を眺めたり、
もとより旅先は非日常の世界でありながらも、至福の時が倍加されて過ごしたりした。
            

館内のロビーも適度な広さで、窓際は川沿いの景観も良く、
私はロビーに設置してある北海道新聞を幾たびか読んだりした。
          
そして片隅には、大雪山の伏流水が飲める常時設置があり、
私は風呂上りの時、愛飲させて頂いたりした。
          
そしてエレベータの近くに可愛い若き女性像があり、
私は微笑みながら、幾たびか見惚(みと)れたりしていた。
          

或いはエレベータに乗ると、壁際に敬愛する大町桂月さんの遺文に、
確かにそうですよねぇ、と教示させられたりした。
          

                                  《つづく》
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粉雪舞う天人峡温泉《3》【2013.12.5.~12.8.】第二章 初冬の中、天人峡を散策すれば

2013-12-09 15:13:25 | 
          第二章 初冬の中、天人峡を散策すれば

初めて天人峡に宿泊した翌日の午前中、私は防寒着で身を固めて、
館内のロビーにある冬用の長靴をお借りして、粉雪舞う中を散策に出かけた・・。

天人峡は大雪山の麓(ふもと)のひとつであり、旭川市の郊外の奥まった地であり、
山裾の森から柱状節理と称される切り立った岩が300メートル前後が聳え立つ、
下方は大雪山の伏流水が忠別川となり、この山峡に温泉が湧く所が天人峡温泉と命名されている。
          

もとよりこの地を世の中に知らしめたのは、
明治、大正時代に各地に足跡を遺された紀行作家の大町桂月(おおまち・けいげつ)氏である。

氏の書物から私は多々教示されているひとりであるが、この地も氏は足跡されている。
大正10(1921)年、氏は大雪山を横断し、8月に層雲峡より大雪山連峰の中の旭岳を縦走し、
松山温泉(現在・天人峡温泉)に下山した、と伝えられている。

この時の氏の散文には、
《・・天人ヶ原峰に登りて見下ろせば 絶壁直立すること千尺(約300m)にも余れり
之を下るかと思えば 心自ら胸騒ぎせしか
熊笹や灌木をつかみて 後ろ向きになれば 下られざるにあらず

半ば頃より左に近く羽衣の滝を見るに下りて 見上ぐれば高い哉80丈と称す
直下せずして曲折するが 日光の華厳の滝より遥かに高き也

この滝の水落ちて間もなく忠別川に入る
川に沿い数町下りて松山温泉に投ず。
忠別峡中の一軒家也・・》
このような美文を遺されている。

このような散文と滞在している観光ホテルから頂いた写真はがきの羽衣の滝の新緑時、紅葉時を眺めたり、
過ぎし年の紅葉時に私が観たことも重ねて、滞在先から羽衣の滝に向かい歩きたした。


そしてこの初冬の時節は、どのような美麗に姿を私に見せてくれるか、
除雪されてない小路で積雪30センチぐらいの中を歩いたりしていたが、
前方に雪の小山のように盛り上げられた直前に、交通止めと明示されて、私は思わず足を止めた。

私は公共の警告を無視したならば、もとより自己責任となり、万一の場合は救助される身となるので、
小心者の私は、やむなく撤退することとした。
そして初冬の羽衣の滝の情景は、まぼろしの状景となってしまい、
やむえず初冬の忠別川沿いから観られる情景を撮ったりした・・。
          
     ☆『涙岩』と命名され、朝食、昼食のレストランから、幾たびも観た情景☆
          

          

          

こうして一時間半ばかり粉雪舞い降りる中、除雪されている20センチ前後の中を散策し、
初冬の天人峡に見惚(みと)れたりした。
                                  《つづく》
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粉雪舞う天人峡温泉《2》【2013.12.5.~12.8.】第一章 粉雪舞う中、天人峡

2013-12-09 10:15:26 | 
          第一章 粉雪(こなゆき)舞う中、天人峡

旭川空港に着陸したのは10分遅れの12時20分であった。
そして私たち夫婦は、旭川空港には何年ぶりかしら、と到着ロビーに向かいながら話したりした。

過ぎ去り年の2006年の初夏の時、家内の母が、家内に
『元気なうちに・・北海道に行って見たいわ・・』
と言ったりしたので、私たち夫婦は家内の母が初めての飛行機、北海道となり、
高齢者の身を案じながら、10月の中旬に道東地方を主点に観光周遊をした。

そして旭川市内のヒジネスホテルに宿泊した後、層雲峡の観光ホテルに宿泊し、そして知床のウトロの観光ホテルに連泊、
その後は阿寒湖の観光ホテルで三連泊した時の旅路であった。

この時に旭川空港から旅の始めとなり、空港から市内に入れと
ナナカマドの樹の葉が落葉している中で、朱紅色に染められた鮮やかな数多くの実を眺めて、
北国に来た、と実感させられたことが、心の片隅に残っている。


今回の天人峡温泉のフリープランは、滞在する観光ホテルの『天人閣』のご厚意で、
送迎バスに乗車した時、私たちと同様なプランに参加されたのは、
私たちのような夫婦連れが9組、単身の方は10名、総勢28名であった。
          
いずれも60代、70代であり、その後の館内のロビー、食事処、大浴場、露天風呂などで、
お互いに談笑して、親睦を深めたりした。
          
そして天人峡温泉の『天人閣』に滞在している間、
スノーパウダーと若き人たちが称している粉雪(こなゆき)舞ったり、ときおり止んだりし、
気温もマイナス5度ぐらいで、ときおり最高気温もプラス数度と思え、
初冬としての墨絵の世界が展開して、私は期待通りと少年のように、心の中で歓声し過ごしたりした。
                                  《つづく》
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粉雪舞う天人峡温泉《1》【2013.12.5.~12.8.】序章 旅の前の天人峡の想いで

2013-12-09 08:17:22 | 
          序章 旅の前の天人峡の想いで

今回、私たち夫婦は旭川市の奥地の天人峡温泉に3泊4日で、5日より訪れることとなったが、
旅立つ前に、ささやかながら天人峡を少し観たことの旅路を談笑したりした。

過ぎ去り年の2005年10月19日より4泊5日で、
北海道の錦繍を訪ねた周遊団体旅行に私たち夫婦は参加した・・。

この旅路は東京駅より新潟駅に新幹線で行き、新潟港に移動した後、
この港からフェリー船で小樽港に向かい1泊しながら、翌日の早朝に小樽港に着く。

そして小樽を出た後は、芦別の三段の滝を観て、富良野から美瑛を抜けて、
旭岳の麓(ふもと)の山岳ロッジ風のリゾートホテルに宿泊した。

翌朝、旭岳ロープウェイに乗り、周辺を散策した後、
その後に天人峡の羽衣の滝を観た後、札幌の奥まった定山峡まで移動し宿泊した。

翌日は、豊平峡で電気バスに乗って、ダム周辺を観た後、
小樽市で観光し、札幌駅に向かい、
夕暮れの札幌駅より寝台特急の『北斗星号』を乗車し、夜間に走行し上野駅に到着する。
このような日程であった。


この旅路はある敬愛する著名人の方が、あるエッセイで船便で来道するのが最良です、
といったような綴りを25年前の頃に読んだりしたこともひとつの理由となっていた。

こうしたことに私は共鳴させられた根底には、
私が高校時代の修学旅行で、初めて北海道を訪れたのは1962(昭和37)年の6月だった。
この時に上野駅から夜行列車に乗り、翌朝に青森駅から青函連絡船に乗り継いで、
函館が観えた時の光景は忘れなく、今でも心の片隅に残っている。

そして確か15年前の頃に、雑誌の『サライ』で、国内航路のフェリーの特集記事があった。
この中には、新潟港から小樽港が紹介され、特等A個室でテラス付きの記事が綴られていた。

私の定年退職となる2004〈平成16〉年の秋、
この部屋を取って北海道に行き、適当に周遊した旅をしょう、と私たち夫婦は退職記念旅行と決めたりしていた。

そして私の定年退職の直前に、入退院を繰り返していた家内の父が亡くなり、退職記念旅行は延期とした。

この後、一年を過ぎた頃に、ある旅行会社の小冊誌が郵送され、
この中の企画に団体観光ツアーでこの航路を利用し、
ランクアップすればこの船室が取れる、旅行プランがあったので、私たち夫婦は参加したのであった。


この旅の中で、私たちが乗車したバスは高速道路を北上し、岩見沢を過ぎ、
三笠のインターチェンジで降りると、
やがて里山はナナカマドとカエデ等の朱色、ヤチダモ等の黄色で錦繍(きんしゅう)の世界となったのが、
鮮明に今でも心の片隅に残っている。
          

この時、バスガイドさんの話に寄ると、
道内の紅葉は例年より2週間遅れで今は最盛期、と教えてくれたりした。

そして旭岳の麓(ふもと)の山岳ロッジ風のリゾートホテルに宿泊した翌朝は、
数多くの落葉樹は葉を落とし、エゾマツ、トドマツの濃い緑が周辺を彩(いろど)っていた。

朝陽の差し込んでいるレストランで朝食をした後、
ロープウェイに乗り、旭岳が展望できる高原登山道を散策した。

小さな池は凍り付いて折、道端は霜が陽に当たって溶け出していた・・。
旭岳から下方の旭岳温泉や
遙か彼方の遠方の山なみまで視界の開けた雄大なスロープであった。

その後、旭岳を下った所にある天人峡に行き、羽衣の滝を観に向った。
この時にバスから下車した所が天人峡の温泉街であった。
そして私たち一行は遊歩道を散策したが、朱色、黄色に彩られた錦繍の中を歩き、
午前の柔らかな陽射しの中、ときおり黄色の葉が上空から舞い降りてきた。

こうした光景を観ると、まぎれなく秋を受容した思いが心に沁みてきて、
今後このようなことは、幻想しか実感できないだろう、と思いを深めたりした。


このような天人峡温泉から羽衣の滝までの遊歩道を夢幻のようなひとときを過ごしてきたが、
今回の旅路は、初冬の時節なので、果たしてどのような情景が展開するが、
私たち夫婦は旅路の前に、談笑を重ねたりしていた。
                                  《つづく》
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《初冬の12月の旅》 蒼穹&みゆき舞い降る十勝地方 【下】【2011.12.20.~12.24.】 

2013-12-08 09:24:19 | 定年後の思い
     第三章 糠平(ぬかびら)温泉、そして周辺は

帯広市の郊外にある十勝川温泉の筒井地域にある観光ホテルに連泊した後、
22日の11時過ぎにホテルの送迎バスの乗車し、次の宿泊地の糠平温泉郷に向い、
小雪舞う中を北上し、士幌、上士幌を通り、一時間ほとで、
積雪20センチぐらいの宿泊地の『糠平館 観光ホテル』に到着した。
          

http://www.nukabirakan.com/
☆『糠平館 観光ホテル』ホームページ☆

私たち夫婦は、レストランで昼食を頂いた後、
周辺を観光しょうと、フロントでタクシーを依頼し、最寄りのタクシーは士幌から着たが、
迎えの料金メーターは既に7000円を超えていたので、
やはり北海道は広いなぁ、と私は苦笑したりした。

その後、糠平湖の周囲を廻って頂こうとしたら、
小雪が降る中、この時節は氷結前であるので歩いても湖畔にも近寄れず、
         
周辺の道路からも霞〈かす〉んで視界が悪く、
やむなくダムの近場で湖の情景を眺めて、デジカメで10数枚撮って、帰館した。
          
そして指定された部屋に入り、浴衣に着替えて、風呂に入った。

http://www.nukabirakan.com/spa/
☆『糠平館 観光ホテル』ホームページ <== 温泉のご案内 ☆

このサイトで紹介されている通り、
大浴場は『木』と『岩』のふたつあり、それぞれ内湯と露天風呂がある。
私は内湯で身体を温めた後、前にある露天風呂に入った。
目の前は傾斜地で針広樹の森となり、下方は小さくなった川が流れ、
そして前方は丘陵に幾重かの樹木が観える景観の良い所である、

露天風呂の屋根は半分ほどで、私は前の方で入浴していると、
雪が強く降り変わり、頭の毛や顔も雪を受けたりした。

そして後方の屋根から、ときおり雪が落下してきたのに驚いたり、
私の在る所の上は、大きな樹木の枝葉に雪が積もっているので、
いつ雪が落下してくるのかしら、と時折不安げに見上げたりした。


或いは下方に川べりの付近には、『仙郷の湯』と称された露天風呂の館があるが、
私が入浴している場所からは、大浴場の入口の横の通りを少し歩いた後、
木の階段を40段ぐらい降り、館にたどり着く状態となっている。
雪は降る中、階段は積雪となっているので、滑らないかしら、と眺めたりした。

この後、小雪になった時、私は下方の川べりの露天風呂に挑戦した。
浴衣姿でこの40段ばかりの階段を下りたが、
足元は積雪で不安定、ときおり微風が吹くと、浴衣の裾は捲れ上がり、
寒い上に風吹くのは勘弁ねぇ、と心の中で叫びあげながら下ったのである・・。

何とか無事に館に着き、簡素な脱衣所で脱ぎ捨て、お湯に身をゆだねた。
男女混浴と称されているが、誰もいなく私は独り占めとなった。
積雪は30センチくらいで小雪が舞う中、
目の前の清流を眺め、川べりの樹木の情景に見惚〈みと〉れたりした。

私は齢を重ねても男女混浴は苦手である。
私の若き40代の半ばの頃、別所温泉に行った時、ある由緒ある観光旅館に宿泊し、
誰もいない大浴場で、ゆったりと身をゆだねていた時、
40歳前後の女性3人が入ってきた。
『あらぁ・・男の人・・独り入っているわ・・
でも・・あたしたち三人だから・・』
と悠然と入浴してきたので、私は圧倒されて、慄〈おの〉のいて片隅に移動したりした。

こうしたささやかな体験もあるので、たとえ同性であっても、
大浴場、特に露天風呂は静けさの中で、身も心も湯にゆだねたいのである。

たまたま今回は小雪舞い降る中で露天風呂は独り占めの贅沢なひとときを過ごしたが、
冬の旅を重ねてきたが、10回目ぐらいかしら、と指を折りながら微笑んだりした・・。


この糠平湖の周囲は、山なみが迫る地域で、大雪山連峰の東部に属し、
この時節でも雪が降り、ときおり止むといった状況であった。
         

          
私は小学校に入学した幼年期より、みゆき舞う情景に魅了されているので、
部屋の窓辺、ロビー、レストラン、大浴場などで、飽きずに見惚れたりしていた。


          最終章  旅の終わりは、メークイン

旅の最終日の24日、私たち一行は宿泊した『糠平館 観光ホテル』のご厚意で、
午後一時発のホテルの送迎バスで、とかち帯広空港まで送って頂けることとなっていた。

私は近くの『ひがし大雪博物館』に30センチぐらいの積雪の中を向かい、
小雪舞う中を歩いたりした。
          

          

          
私は旅をする時、その地の民族館などを鑑賞する習性があり、
もとより風土、文化などを教示されるためであった。
今回の『ひがし大雪博物館』は、動植物、土壌など多々学び、
特に数多くの樹木の特徴、盛衰、推移、
そしてアイヌ民族の長き歴史に及ぶ日常生活の変貌を教示させられたりした。

館内は、私たった独りで鑑賞したが、このようなことは初めてであった。
          

ホテルの前を午後1時少し前に送迎バスは出発し、雪道の中を上士幌、士幌を通り過ぎると、
路面は除雪した雪は消え、周辺は大雪原の中、小雪も止み、まばゆい晴れ間と変貌した。

ときおり微風が吹くと、大雪原の粉雪が吹き飛ばされて、道路に吹雪のような情景となり、
以前に観た道路際の風雪避けが、こうした時に大いに威力を発揮するが、
広い北海道の大地では限りある、とも感じさせられたりした。

やがて帯広市の郊外、やがて高速道路を疾走し、空港までは送迎バスは走ったが、
100キロぐらいの道のり、1時間半ばかりであったが、
改めて殆ど周辺の情景は大雪原であったので、やはり広い十勝平野を実感させられたのである。


とかち帯広空港発の午後4時の便であったので、それまでの待ち時間は家内がお土産を購入した後、
私は家内を誘い、レストランに入店した。
私たち夫婦は、旅の現地の最終には、食事処を利用することが多く、
私は地酒かビールを吞みながら軽食を頂くことが圧倒的に多いのである。
そして旅先の余情、そして旅先のこぼれ話を家内と談笑したりしている。

今回はレストランに入店すると、ビールとお徳用のつまみセットで1200円くらいを配慮していたが、
この時節はなく、やむなくメークインがふたつ蒸かしてある食べ物を指定した、
そして北海道だからサッポロビールの『クラシック』の銘柄と何かと優先していたが、
この店にはなく、サッポロビールの『生』の瓶ビールとした。

私はここ10数年、アサヒ、キリンは大手で成功しているビール会社で、
何かと劣勢なサッポロを応援したくなる性格であり、
特に北海道を旅する時は、サッポロビールの『クラシック』の瓶ビールであると公言し、
ほぼ実行を重ねてきたのである。

このたびは、やむなくサッポロビールの『生』の瓶ビールを吞みながら、
温かなメークインに少しバターをのせて頂いたのであるが、
ビールと波長が良く、家内に絶賛した、

そして家内から笑われてしまい、もとより私の独断と偏見の性格を発露したので、
あなたのとめとめない悪い性格が始まったわ、
というしぐさをまじえてである。


今回の旅先でも、私は地元の高齢者の70代の女性、60代の男性の3名、
そして中学生の男女の5名と談笑を重ねたりした。

旅のさなかに帯広の郊外の果てしなく拡がる大雪原の中、
大地は凛とし、果てしなく青空が観える蒼穹(そうきゅう)の情景に、
亡き作家の立原正秋(たちはら・まさあき)氏を思い馳せたりした。

そして一時時期に過ごされたシンガーソングライターの中島みゆきさん、
或いは亡き作家の福永武彦〈ふくなが・たけひこ〉氏にも思いを重ねたりした。

このようなことを思い、みゆき舞う情景も共に過ごせたのであり、
私にとっては限りなく贅沢な旅であった、と実感したりした。

この後、空港の待合室で、旅を共にした方たちと談笑し、
またお逢いしたいですねぇ、とそれぞれのご夫妻に私たち夫婦は言葉を交わしたりした。

                              《終わり》
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《初冬の12月の旅》 蒼穹&みゆき舞い降る十勝地方 【上】【2011.12.20.~12.24.】 

2013-12-07 09:26:14 | 定年後の思い
          序 章

私たち夫婦は、国内旅行が共通の趣味のひとつであり、特に雪の舞い降る情景に魅せられて、
この時節になると、雪恋し、心情となり、
一昨年の2011〈平成23〉年12月20日より北海道の十勝平野の中の帯広市の郊外にある十勝川温泉に2泊し、
そして奥地の大雪連峰の東部の糠平〈ぬかびら〉温泉に2泊し訪れ、4泊5日の旅をした。

私たち夫婦は何故かしら北海道の風土に魅せられて、幾たびか訪れてきたが、
無念ながら帯広の地域は、二度ばかりしかない。
最初は周遊観光で晩秋の時に、道東めぐりの2泊3日の最終で十勝地方を観たりし、
その後は、5月の知床半島のクルーズに魅了された後、旅の終わりとして十勝川温泉に宿泊したが、
いずれも雪のない時節であった。

たまたま今回の旅の企画は、ある有力な旅行会社が団体観光滞在プランとして、
11月中旬の頃に新聞に掲載されていた。
家内が見て、十勝川温泉と糠平温泉の特色ある旅程に、
この時節は交通機関のことを配慮すれば、私たち夫婦の個人型の旅としては困難さが予測され、
何よりも旅行会社まかせで、旅費も驚くほどに格安であり、
私たち夫婦は瞬時に魅了されて、この団体観光滞在プランに参加した。


私の心の奥底には、この十勝地方の帯広の冬のイメージは、
郊外の果てしなく拡がる大雪原の中、蒼穹(そうきゅう)の情景である。
厳冬の晴れ間の中、大地は凛とし、果てしなく青空が観えるのが、蒼穹(そうきゅう)の言葉に何よりも相応しい、
と思ったりしている。
                    
私が今でも敬愛している亡き作家・立原正秋〈たちはら・まさあき〉氏の随筆から、
私が30代のなかばの昭和55年(1980年)10月の初旬に遅ればせながら
蒼穹(そうきゅう)という言葉を学んだ。

この中の随筆のひとつとして、知人が古美術店を開き、命名を頼まれ『蒼穹』と氏は名付けられた。
氏の発想の根源は、もとより氏は朝鮮半島で生を受けられたので、
大陸性の気候の中、冬の晴れ間の凛とした情景を思い浮かべて、
蒼穹(そうきゅう)という言葉を思い重ねただろう、と私なりに解釈した。


そして帯広市は、シンガーソングライターの中島みゆきさんが、
小学時代の後半の頃から、帯広市の学校に学び、高校まで過ごされた、
と私は25年前に学んだりした。
私は中島みゆきさんを秘かに女神のように信愛し、
このお方の幾つかの歌に支えられて、この人生の難局を乗り切ってきたひとりである。

このような蒼穹(そうきゅう)の情景、そして中島みゆきさんが一時時期過ごされた地域を
私なりに少しでも学びたい心情があった。

糠平〈ぬかぴら〉地域に関しては、
過ぎ去る2009年2月にNHKテレビの『生活ほっとモーニング』を視聴していたら、
『糠平湖』の冬の情景の数々が映しだされ、
『一度は・・行った観たいわ・・』
と家内が私に言ったりしていた。


このような単純明快な発想で、この時節はマイナス10度前後、
烈風か寒気団が襲来すればマイナス20度前後と予測される地域を体感しながら、
多くの方とふれ逢いながら、旅をしてきた。


          第一章 壮大なる十勝平野の中、一部に心を寄せて

今回の旅で十勝平野の中、帯広空港から帯広市の郊外にある十勝川温泉の筒井地域にある観光ホテルの送迎バスの乗り、
宿泊地の筒井地域を散策し、
その後は糠平温泉郷に向い、送迎バスで士幌、上士幌を通り、宿泊地の糠平温泉の観光ホテル周辺を散策した後、
帰路は一路南下して帯広空港のコースであった。

20日より北海道の十勝平野の中の帯広市の郊外にある十勝川温泉に2泊し、
そして奥地の大雪連峰の東部の糠平〈ぬかびら〉温泉に2泊し訪れ、4泊5日の旅をした。

このようにわずかな旅路であったので、もとより壮大な十勝平野の中のほんの一部となる。

2000メートル級の山なみが聳える西方の日高山脈、北方の石狩山地、そして東は白糠丘陵に囲まれ、
平野の中を十勝川を中核とした札内川、戸蔦別川、岩内川、帯広川、売買川、ウツベツ川などの幾重の川が流れ、
中心地にはは帯広駅があり、明治の中期の頃から碁盤目状の大きな区画が四方に広がり、
この間には防風林が設けられている。

こうした壮大な十勝平野は、大豆、小豆、甜菜、じゃがいもなどの畑作を広い耕地、
或いは広大な酪農がされている情景が誰しも感じると思われる。


訪れた今回のこの時節は、この農地や酪農地は30センチ前後の大雪原に変貌し、
快晴の時は、遠方の山なみが雪で光輝き、高い大空は青い空が果てしなき拡がる蒼穹(そうきゅう)となった。
そして大雪原は陽射しを受けて、まばゆい光を帯びていた。
こうした時は、朝の6時はマイナス12度前後、昼下がりはマイナス4度前後、
そして夜の6時はマイナス6度前後となった。

或いは小雪が舞い降ると、天上から地表まで、みゆきの世界に変貌し、
ときおり風が吹けば、吹雪となるが、
寒さはマイナス7度前後で、雪が降る時は暖かく、
私は未知の大陸の北中国、朝鮮半島に近い気候かしら、と微笑んだりした。

尚、『みゆき』という表現は、もとより雪のことであり、
万葉集の頃は美由伎、私の敬愛しているシンガーソングライターの中島みゆきさんの本名は、
美雪だったかしら、と思いながら、私の好きな言葉のひとつである。


          第二章  『十勝川 国際ホテル筒井』に再訪、そして郊外を散策すれば

20日の午後3時20分に予定通り『とかち帯広空港』に着陸した私たち一行は、
宿泊先の帯広市の郊外にある十勝川温泉の筒井地域にある観光ホテルの送迎バスの乗り込んだ。
ここで初めて私は、今回の旅を共にする方たちのメンバーを知った。

羽田空港で旅行会社の方に参加最終チエックしたが、お互いにフリーの状況であり、
ただ航空便が指定されただけであったので、参加メンバーは不明であった。

私たちは送迎バスの車内で、60代、70代前半の夫婦が多く、
後で知ったのであるが独りで参加される男性5名、女性1名で、総勢23名であった。

私たち夫婦は、この後の宿泊地の食事処、ロビーなどの館内で、
共に旅する70代前半の3組の方たちを中心に、さりげなく談笑を重ねたりした。
そして現地にお住まいの方たちとも、私は何かと教えを受けながら、
ひとときを言葉を交わし、一期一会を享受した・・。

夕暮れが山なみに染め、そして大地は雪原の広大の情景を観ながら、
一時間ばかり車窓から鑑賞し、宿泊地の『十勝川 国際ホテル筒井』に到着した。

http://www.tutui-h.com/
☆『十勝川 国際ホテル筒井』ホームページ☆


この観光ホテルは、私が定年退職の翌年の2005年5月下旬に、
知床観光船で早朝にウトロから出航し、日の出の頃に洋上から知床岬を観る貸切クルーズに魅了され、
団体観光周遊ツアーに参加した3泊4日の中で、たまたまこの観光ホテルに宿泊した体験があったので、
6年ぶりの再訪となった。
                          
しかしながら、忘却とは忘れる事なり、と名言されたれ菊田一夫〈きくた・かずお〉氏の通り、
《 日本随一 天然植物性 モール温泉 》で、
《 肌にしっとりとなじみ、湯上りに肌がしっとりツルツル効果を実感する美人の湯 》
と明記されたポスターを見た記憶だけが鮮明に残っている。

その当時の私は、入浴後にポスターを見ながら、家内たちの女性なら喜ばしい限りであるが、
年金生活の駆け出し私は、温まればどうでもよいわ、と苦笑したりしていた。
          

再訪した観光ホテルは、リニューアルされて、
《 真心美人のおもてなしの宿 》と称されて仲居さんの30数名を見かけたが、
男性の私としては、ひとりの小柄な黒髪の仲居さんに見惚〈みと〉れただけであるが、
全般としては溌剌と笑顔を浮かべながら、健気に動く感じは好感させられた。

私は早寝早起き元気な児に徹し、入浴後はビールを吞み、
持参した新書本の二冊を布団の中で読んだり、まどろみながら昼寝をしたりした。
そして、この間のひととき、この周辺をマイナス数度ぐらいの中、
5キロぐらいを歩き廻り、帯広の郊外の情景を観て、思索を重ねた・・。

シンガーソングライターの中島みゆきさんが、
小学時代の後半の頃から、帯広市の学校に学び、高校まで過ごされた情景に思いを馳せたりした。

或いは亡き作家の福永武彦(ふくなが・たけひこ)の遺〈のこ〉された作品を思い浮かべたりした。
私は若き20代の前半に、文学青年の真似事をしたことがあり、
氏の作品に魅了されたひとりであった。

たまたま『草の花』を読みだして、圧倒的に魅了された後、
『風土』、『夜の時間』、『冥府・深淵』、『愛の試み』、『心の中を流れる河』、『 世界の終り』、
『廃市』、『告別』、『忘却の河』、『海市』、『死の島』などを精読したりした。

氏は敗戦後の1945年、治療と疎開のため北海道帯広市に移り、
3か月ほど滞在したのち一時東京に戻るが、
翌年り1946年に再び帯広に渡り、帯広中学校(現在・柏葉高校)の英語教師として赴任する。
その年に処女作「塔」を発表された後、冬に肋膜炎を再発し、
1947年秋に手術のため上京し、清瀬の東京療養所に1953年まで入院した。
そして後年に、『心の中を流れる河』の作品は帯広を舞台に綴られている。

このようなことを思い馳せながら、
遠方の2000メートル級の山なみが雪で光輝き、高い大空は青い空が果てしなき拡がる蒼穹(そうきゅう)、
そして大雪原は陽射しを受けて、まばゆい光を帯びている中、
歩いたりした。
          
家内と共に歩いたりした時は、頬が寒いわねぇ、と家内は言ったりしていたが、
          
凛とした冷気の中、私は微苦笑をしたりした。
                    
夜のひととき、中島みゆきさんの学んだ高校は、時代こそ違うが、
福永武彦さんが一時時期に英語教師をされていた高校と同じと思われ、
中島みゆきさんも『草の花』、『心の中を流れる河』、或いは『告別』を読まれた、
と私は確信を覚えながら、ぼんやりと思ったりした。

                              《つづく》

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《初冬の12月の旅》 吾妻高原の高湯温泉、うつろう情景 《下》【2012.12.16.~12.19.】

2013-12-06 10:00:45 | 定年後の思い
           最終章

私は滞在している中で、大浴場、露天風呂に定期便のように通ったりしたが、
部屋の中で、本を読んだり、或いは配布された新聞で、衆院選の結果状況のニュースを読んだりした。
もとより今回の衆院選は16日に投票日と公示され、
私は期日前に投票してきたので、結果には苦笑したりし、この思いは後日記載する。

こうした中で、私たち夫婦の指定された部屋は和室の10畳、
窓辺の近くの5畳ぐらいのスペースに椅子とテーブルが置かれている3点セットから、
そしてベランダに下り立ったりして、前方に広がる情景を朝、昼、夕に眺めたりしていた。

里山の樹林越しに、遠方の下方には福島市の大きな街並みが観え、遥か彼方には山なみが観え、
夕暮れ時から、福島市の大きな街並みの灯りが視(みえ)たりした。
                     
そして私は早朝の朝焼けの移ろう光景に、圧倒的に魅せられた。
          

          
そして陽が出始め、快晴ではなかったが、天上の神々の姿が視えたと錯覚した程、見惚(みと)れた・・。
          
   
          

          

その後、昼下がりの曇り空の中で、たおやかな福島市の大きな街並みが視(みえ)たりした。
             

私はこの光景を見惚れた後、至福の時を過ごせた、と家内に言ったりした。
『今回の旅は、珍しく外出もせず館内で過ごしたりしてきましたが、
貴方が魅了された情景にめぐり逢えて良かったですねぇ』
と家内は微笑みながら私に言ったりした。

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