私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たったふたりだけの家庭である。
そして民間の中小業のある会社を35年近く勤めて定年退職になったのは、
2004(平成16)年の秋で、そして年金生活に入り、今日に至っている。
この時節、世の中の働いて下さる現役の諸兄諸姉は、ボーナスシーズンも過ぎて、
多忙の中のひととき、忘年会を会社の同じ部署の人たち、或いは同僚たち、そして友人たち、
それぞれ懇親を深め12月中旬になると思われるが、
何かしら遠い世界の出来事のように感じたりしている。
私の50代の前半の頃は、サラリーマンで私なりに奮闘し、
この12月は部内はもとより、同世代、悪友たちと、何かと忘年会と称して懇親会を重ねてきた。
そして50代の半ばに、リストラが盛んとなり、
早期退職優遇制度の名目で先輩、同僚、後輩たちが退職されたり、組織の統廃合により人事異動、
そして私のように出向となったりし、烈風の社内状況となった。
定年退職するまで、年に数回は互いに連絡して、東京に残った人たちと懇親会を重ねてきた。
その後、私の定年後になる頃は、病気で通院しているの・・、親の介護で・・、親が亡くなったので・・、
メンバーが次第に欠落した・・。
そして、この時節になると、忘年会は2月頃に有志で集まってすれば、
と敬愛してきている先輩だった人から云われたりすると、
そうですよねぇ、と私は応(こた)えたりしてきた。
このように私は、この時節の忘年会と称した懇親会は、無念ながら消滅したのである。
昨今は、多くの退職された方たちも同様と思われるが、
過ぎ去る年の会社時代の先輩、同僚、後輩たちの集いより、
家族の団欒はもとより、親族、親戚関係の冠婚葬祭が優先となっている。
或いは私の近くに住む地元の小、中学の同級生と、最寄駅の居酒屋、食事処で逢い、
懇親を深めたりしている。
こうした時は、同級生の女性から、XXクン、と私は呼ばれたり、
悪友たちとは、お互いに苗字を呼び捨てにし、この世の一番気楽なグループ、と微苦笑したりしている。
このような心情で昨今は過ごしている私は、たまたま昨夜は高校時代のひとり悪友と逢った。
私の高校3年生の時に、私は彼の実家に50回ぐらいは泊まったり、
彼も私の実家に少なく20回は泊まったりし、もとよりお互いの家族とも懇親していた。
こうした間柄でも、私が20歳を過ぎた頃から、私は映画・文学青年の真似事に邁進し、疎遠になったりし、
その後は彼の結婚式の披露宴に列席したぐらいとなった。
そして私が定年退職後になるまでは、お互いに年賀状を交わす程度で、数年毎に電話をする程度となった。
そして私が定年後に毎年一回ぐらいは、お互いの住まいの中間点の『吉祥寺』の居酒屋で、
懇親を重ねた復活してきた。
親友か悪友、友人か解らないが、お互いに包み隠せず話し合える貴重な友である。
こうした時は、お互いの好きな単品を数多く注文し、彼はビール、私は地酒を呑みながら、話し合った。
家族のこと、そして昨今の世情を憂いた後、
昭和妻の専業主婦、或いは居候のようなことが許された良き時代だったことなどが、
たまたま話題となり、話が尽きないのである。
結果として、終電のこともあり11時過ぎに散会とした。
或いは家内と駅前で買物して夕暮れになった時、夕食を食事処で思案している時など、
何かしら居酒屋チェーンのネオンが数多く観えた時、
私は家内を誘い、忘年会の代わりの懇親会の真似事をしたりしてきた・・。
こうした中で、たまたま私はサラリーマン時代を含めて長年に愛用してきた居酒屋の変貌を話題にしたり、
或いはリストラ烈風で私の出向時代の心情、やがて同僚たちの動向を話題となったりしている。
そして苦節の時代があったが、今こうして大病もすることなく年金生活を過ごせるのは何よりだ、
と私は微苦笑を重ねて、家内に言ったりした。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪strong>
にほんブログ村
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、たったふたりだけの家庭である。
そして民間の中小業のある会社を35年近く勤めて定年退職になったのは、
2004(平成16)年の秋で、そして年金生活に入り、今日に至っている。
この時節、世の中の働いて下さる現役の諸兄諸姉は、ボーナスシーズンも過ぎて、
多忙の中のひととき、忘年会を会社の同じ部署の人たち、或いは同僚たち、そして友人たち、
それぞれ懇親を深め12月中旬になると思われるが、
何かしら遠い世界の出来事のように感じたりしている。
私の50代の前半の頃は、サラリーマンで私なりに奮闘し、
この12月は部内はもとより、同世代、悪友たちと、何かと忘年会と称して懇親会を重ねてきた。
そして50代の半ばに、リストラが盛んとなり、
早期退職優遇制度の名目で先輩、同僚、後輩たちが退職されたり、組織の統廃合により人事異動、
そして私のように出向となったりし、烈風の社内状況となった。
定年退職するまで、年に数回は互いに連絡して、東京に残った人たちと懇親会を重ねてきた。
その後、私の定年後になる頃は、病気で通院しているの・・、親の介護で・・、親が亡くなったので・・、
メンバーが次第に欠落した・・。
そして、この時節になると、忘年会は2月頃に有志で集まってすれば、
と敬愛してきている先輩だった人から云われたりすると、
そうですよねぇ、と私は応(こた)えたりしてきた。
このように私は、この時節の忘年会と称した懇親会は、無念ながら消滅したのである。
昨今は、多くの退職された方たちも同様と思われるが、
過ぎ去る年の会社時代の先輩、同僚、後輩たちの集いより、
家族の団欒はもとより、親族、親戚関係の冠婚葬祭が優先となっている。
或いは私の近くに住む地元の小、中学の同級生と、最寄駅の居酒屋、食事処で逢い、
懇親を深めたりしている。
こうした時は、同級生の女性から、XXクン、と私は呼ばれたり、
悪友たちとは、お互いに苗字を呼び捨てにし、この世の一番気楽なグループ、と微苦笑したりしている。
このような心情で昨今は過ごしている私は、たまたま昨夜は高校時代のひとり悪友と逢った。
私の高校3年生の時に、私は彼の実家に50回ぐらいは泊まったり、
彼も私の実家に少なく20回は泊まったりし、もとよりお互いの家族とも懇親していた。
こうした間柄でも、私が20歳を過ぎた頃から、私は映画・文学青年の真似事に邁進し、疎遠になったりし、
その後は彼の結婚式の披露宴に列席したぐらいとなった。
そして私が定年退職後になるまでは、お互いに年賀状を交わす程度で、数年毎に電話をする程度となった。
そして私が定年後に毎年一回ぐらいは、お互いの住まいの中間点の『吉祥寺』の居酒屋で、
懇親を重ねた復活してきた。
親友か悪友、友人か解らないが、お互いに包み隠せず話し合える貴重な友である。
こうした時は、お互いの好きな単品を数多く注文し、彼はビール、私は地酒を呑みながら、話し合った。
家族のこと、そして昨今の世情を憂いた後、
昭和妻の専業主婦、或いは居候のようなことが許された良き時代だったことなどが、
たまたま話題となり、話が尽きないのである。
結果として、終電のこともあり11時過ぎに散会とした。
或いは家内と駅前で買物して夕暮れになった時、夕食を食事処で思案している時など、
何かしら居酒屋チェーンのネオンが数多く観えた時、
私は家内を誘い、忘年会の代わりの懇親会の真似事をしたりしてきた・・。
こうした中で、たまたま私はサラリーマン時代を含めて長年に愛用してきた居酒屋の変貌を話題にしたり、
或いはリストラ烈風で私の出向時代の心情、やがて同僚たちの動向を話題となったりしている。
そして苦節の時代があったが、今こうして大病もすることなく年金生活を過ごせるのは何よりだ、
と私は微苦笑を重ねて、家内に言ったりした。
☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、幸いです♪strong>
にほんブログ村