夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

《初冬の12月の旅》 吾妻高原の高湯温泉、うつろう情景 《上》【2012.12.16.~12.19.】

2013-12-05 14:35:20 | 定年後の思い
           序 章

私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳となった身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして定年退職した2004〈平成16〉年の秋以降、年金生活をしてきた私たち夫婦は、
毎年11月初旬になると、12月の初冬の旅行はどうしょうかしら、と話し合ったりしてきた。

私たちは夫婦の共通趣味のひとつは国内旅行であるが、
特に12月はクリスマスに関しては、もとより孫もいないので、自宅で装飾しても張り合いがなく、
たまたま家内の誕生日が12月下旬となり、できれば観光ホテルで温泉に入り、ゆっくりとしたいわ、
と家内の要望もあり、殆ど毎年のこの12月に旅行をしてきた。

今年の12月も舞い降る雪の情景を観たい、そして温泉にゆったりと浸(つか)りたい、
と検討した結果、ある旅行会社が企画された団体温泉滞在型、
《~奥州三高湯の秘湯 良質な乳白色の硫黄泉 湯三昧「高湯温泉」・・》
このように明記された3泊4日の観光ホテル滞在に私たちは魅了され、
過ぎし12月16日から吾妻連峰の片隅みの高原地帯にある『高湯温泉』に初めて訪れた。


           第一章

今回の団体温泉滞在型に参加した私たち一行は総勢28名で、
東北新幹線の『福島』駅に下車したのは16日の午後2時40分過ぎであった。

そして観光ホテルのご厚意のマイクロバスの送迎車に乗車し、
殆ど吾妻連峰の山なみに一直線に向かう国道を走り、連峰の最初の山の中腹に高湯温泉の幾つかの観光ホテルが観え、
やがて登りきった山頂を切り拓いた標高800メートルの所に、宿泊する『花月ハイランドホテル』に着いた。
          

まもなくして私たち夫婦の指定された部屋に入室し、
ベランダからは里山の樹林越しに、遠方の下方には福島市の大きな街並みが観え、遥か彼方には山なみが観え、
『東京駅がたった2時間ばかりで、このような景観が望めるなんて・・』、
と私は家内に言ったりした。

周辺は4日前に雪が30センチぐらい降った、と送迎車のドライバーさんから教示されていたので、
雪が見られ、道路は除雪されていたが、道路のはずれは残り雪とアイスバーンで散策するには滑り易い状況であった。
          
               花月ハイランドホテルの駐車場

私たちは旅立つ前に積雪20センチぐらいの中、
中腹にある高湯温泉の幾つかの観光ホテルのはずれある共同浴場の『あったか湯』など立ち寄ったりすることを
想定していたが、余りにも少ない雪とアイスバーンの道路のはずれを歩くのは危険だなぁ、
と話し合い、館内滞在とした。
http://www.kagetsu.net/
☆ 『花月ハイランドホテル』公式ホームページ ☆    

          第二章

この後は私は、お風呂に行ってくる、と家内に言った後、長い廊下を歩いた・・。
               

私たち夫婦は、ここ数年『源泉かけ流し』の温泉地に注視して、旅を重ねることが多く、
今回の旅も、《平成22年6月1日  東北初!! 高湯温泉「源泉かけ流し宣言」》に魅了され、
旅行の予約をした。

もとより『源泉かけ流し』の温泉は、
《 温泉の浴槽への給湯・排水方法のひとつで、源泉から自然に湧出または機械的に汲み上げた温泉を
浴槽に加水・加温せずに供給し、浴槽から溢れ出た湯を循環させず排水すること》
このように、この世で贅沢極まりない温泉である、と無力な私でも確信している。
家内は日頃から、何かのプレゼントの品物よりも『源泉かけ流し』のある小旅行の方が遥かに嬉しいわ、
と私に言ったりしている。

当館の大浴場は乳白色の硫黄成分があり、入浴後は湯ざめなく心身心地よく、
特に露天風呂は大浴場より少し高めの42度ぐらいで、入浴後の30分過ぎた頃から何かしら汗ばむ程、
快感を増す不思議な湯質である。

大浴場、露天風呂を写真で絶賛したいところであるが、無念ながら紳士淑女のエチケットとして紹介できなく、
当館の公式ホームページを参考し、諸兄諸姉の感性ゆたかな想像力にゆだねる。
http://www.kagetsu.net/onsen.stm
☆ 『花月ハイランドホテル』公式ホームページ  温泉☆

私は滞在中、朝食前に大浴場で髪の毛、身体を洗い清め、身体を温めた後、
日中は幾たびか露天風呂に入ったりした。
                           《つづく》

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初めて大雪山の麓(ふもと)にある天人峡温泉に訪れることとなり・・。

2013-12-05 03:32:55 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
家内との共通趣味のひとつとして、国内旅行であるが、
今年は1月下旬に北海道の帯広市の郊外にある『十勝幕別温泉』地にあるリゾート観光ホテルに、
5泊滞在して、帯広市の市街をひたすら歩き廻ったりした。

その後は、2月中旬に、遥か南の果ての『石垣島』の市内にあるビジネス風のシティホテルに9泊して、
石垣島の島内、或いは竹富島に再訪したりした。
或いは西表島に隣接したパナリ島とも称される上地島に初めて訪れて、
観光客は誰もいない中、私たちは砂浜を散策したり、浜辺で5時間ばかり過ごしたり、
そして後日には小浜島も初めて訪れたりした。

この後は、旅行は行くことなく半年ばかりとりとめなく過ぎた頃に、我が家の老朽化し、
特に17畳ぐらいの洋間の居間は、床板の劣化が甚(はなは)だしく、
結果としては、過ぎ去りし11月の16日に於いて現在の床板の上に、
ウッドカーペットと称せられる表面は化粧板でほどこした合板を敷き、私たちは夫婦は強化作業をしたりした。

そして私たち夫婦は、この前後に居間にある食卓テーブル、ソファー、本箱、音楽棚、ビデオ棚、
パソコンを置いてある机、そして脇机などを書庫、隣室に待避させたり、
戻りたりした作業も時間を要したりした。

こうした中、今年の残り少ない12月の日々に私たちは夫婦は、旅行の意欲が薄らいできた・・。


思い馳せれば、昨年の2012〈平成24〉年の12月下旬は、
福島市の郊外の里山にある『高湯温泉』の観光ホテルに3泊して、冬枯れの里山の情景を享受した。
          
           ☆部屋のベランダより、早朝の情景☆

一昨年の2011〈平成23〉年の12月下旬は、
北海道の帯広市の郊外の『十勝川温泉』地にある観光ホテルに2泊した後、
          
           ☆『十勝川温泉』地から帯広市の郊外を散策☆
大雪山のふもとにある『糠平(ぬかぴら)温泉』地にある観光ホテルに2泊したり、
          
           ☆『糠平(ぬかぴら)温泉』地にある付近を散策☆

こうした厳冬の来襲する前のマイナス5度ばかりの中を歩き廻ったりした。


この前の年の2010〈平成22〉年の12月中旬は、
北東北の十和田湖に近い『蔦(つた)温泉』に再訪して、この地に旅館に4泊した後、
          
           ☆『蔦温泉旅館』の初冬の情景☆ 
          
           ☆奥入瀬渓流の遊歩道に隣接した道路、観光客は私たち夫婦だけ静寂な情景☆ 

青森市内のシティホテルに一泊し、日本海の『不老不死温泉』の観光ホテルに再訪した3泊ばかり滞在した。
この時の旅路は、5月の下旬から6月初旬の若葉の季節に初めて訪れて、圧倒的に私たち夫婦は魅了されて、
みゆき降る時節に再訪となった旅路であった。


このようなことを思い馳せると、今年の12月にどちらかの地に訪れたいなぁ、
このまま新年を迎えるのは、余りにも寂しいじゃないの、と私は思ったりしたのである。

我が家は年末年始の時節は、独り住まいの家内の母に我が家に来て貰い、
この期間は共に、生活を過ごすのは、家内の父が病死された2004〈平成16〉年の年末から、
ここ9年の恒例となっている。

こうした事情もあり、家内の母を迎える前の準備作業、そして我が家なりの年末の大掃除、
正月料理にあるので、家内は孤軍奮闘している。
こうした中、愚図の私は、家内の足手まといにならないように、買物する回数が増える程度となっている。

          
このような状況もあり、家内は急に12月の旅行と私から言われても、戸惑いながら思案したりしている。
『3泊4日ぐらいの短い旅・・なるべく源泉かけ流しの観光ホテルなどで・・ゆっくり過ごそうょ・・』
と私は家内を誘惑した。

こうした根底のひとつには、家内は12月は誕生日の月であり、
ここ10数年は家内は私からの品物の誕生日プレゼントより、温泉地でゆっくりと過ごしたいわ、と念願の中で、
私たち夫婦は12月の旅路を重ねてきた。


そして私たち夫婦は、ある有力な通販の旅行会社のフリープランのひとつに、
《 大雪山国立公園の秘湯 源泉かけ流し 天人峡温泉4日間 》
と題された企画を見つけて、検討した。

このフリープランは、指定された羽田空港と旭川空港の間の航空便で往復し、指定された観光旅館に3泊した上、
観光旅館のご厚意で、旭川空港と観光旅館の間は歓送迎バスもあり、気楽に往還できる旅路である。
その上に、旅行直接費も格安料金で、私たち夫婦は年金生活の身であるので、
天は我に味方せり、と私は微笑んだりした。

こうした関係で、本日の5日の早朝より、積雪ある旭川市の奥地の天人峡温泉に3泊4日で、
私たち夫婦は訪れる。

尚、旅行の5日から8日まで、投稿文に関して、
私は《初冬の12月の旅》として題して、一昨年、昨年の旅路を4話ばかり写真を含めて再編集をしますので、
この間、予約セットし公開しますので、お読み頂き、ご笑話を願えれば幸いであります。

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何かと気弱な癖に、自己顕示欲が強い私は、ときおり微苦笑をして・・。

2013-12-04 12:32:53 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は中小業の民間会社に35年近く勤めて、2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。

今朝、洗面した後、いつものように、居間のビデオ・ケースの上に立てかけている
曹洞宗を学ばれた書家・詩人の相田みつを氏の『日めくり ひとりしずか』に毎朝向っている。
そして氏の綴られた本日の格言を、心の中で、呟(つぶや)いている。

本日もいつものように向っていると、
          
そして深く心の中で読んだりした後、
何かと気弱な癖に、自己顕示欲が強い私は、苦笑させられてしまった・・。
       

私は東京オリンピツクが開催された1964(昭和39)年に大学を中退し、
アルバイトをしながら映画・文学青年の真似事をしたが、
30代の頃に妻子を養なって家庭生活を思い浮かべると、とても過ごせる自信もなく、あえなく挫折した。

やむえず人生軌道を修正し、民間会社は新卒が最優先の時代であったので、
中途入社するひとつの手段としてコンピュータの専門学校に一年間学び、
ある大手の音響・映像メーカー会社に何とか中途入社ができたのは、
1970(昭和45)年の春で25歳の時であった。

そして、この会社の中のレコード事業本部に配属させられ、
この当時のレコード業界の中で圧倒的に首位を独走していたが、
この中のひとつの一部門が外資の要請で新たなるレコード会社として新設されることなった。

そして私も新設レコード会社に転籍させられ、商品の現場を学んだ後、
本社のコンピュータ専任者に配属させられたのは1971(昭和46)年の新春であった。

私は大学中退の上に中途入社の身であったが、大学を新卒されて入社した人の同年齢の方に、
多少の卑屈と劣等感がありながらも、給与など含めた待遇に早く追いつきたく、
ときには悪目立ちする時もあったりした。

たとえはアイドルスターの全盛期の1980(昭和55)年の当時、
ある会社では松田聖子をデビューさせ、ある会社でも河合奈保子をデビューして、
私が勤めていた会社も、ある新人をアイドルスターを抜擢した。

そしてデビュー曲の数が月前に、社内の大きな会議室で、このスターを囲み、
本社の社員の殆どが記念写真を撮ったりした。

この時、このスターと社長は最前列の中央に座ったが、四列ぐらいある中、
私たち平社員は片隅でもじもどと躊躇ったりしていた・。

こうした時、社長が私たち平社員に向って、前に来て早く座れなさい、と小声で言った。
そして私は最前列の社長の横に座っている邦楽制作本部長の横に座ったりした・・。

このようなふるまいを35年近く勤める間、年に一度ぐらい私はしたりし、
後日に何かと気弱な私は自己嫌悪をしたりした。
          

2004〈平成16〉年の秋に定年退職した私は、まもなくブログの世界を知り、
パソコンの故障、国内旅行をしている以外は、毎日投稿している。

こうした中、私が加入している【gooブログ】のサイトは、
2008(平成20)年の頃は、確か加入数150万人ぐらいで、
この当時の私は写真を添付する技量もなく、ひたすら散文らしき文を綴り投稿文としていた。

そして私のサイトは訪問者数は長らく日々300人前後が多く、
【gooブログ】の総加入数の中に於いては、
多くある広大な砂糖黍(さとうきび)畑の中のたった一本の砂糖黍(さとうきび)のような存在であった。

このように私は、やがて埋もれてしまい、誰からも読まれなく無視されることが想像されて、
つたない私でも、余りにも悲しきことで愕然とするので、ひとつの対策をした。
       

こうした思いからひとつの方法として、
やはりブログのランキングに加入して、程ほどに上位にランキングされれば、
少しでも多くの方に読んで頂けると、つたない投稿文ながら自己顕示欲が増して、加入することとした。

          
そしてブログのランキングのサイトも幾つか彷徨(さまよ)うように加入したが、
『人気ブログランキング』の『随筆・エッセイ』に加入し、今日に至っている。

その後、2010〈平成22〉年の秋に、やはりブログのランキングの『にほんブログ村』に再加入した。

私は2008〈平成20〉年の頃に『にほんブログ村』に漠然と加入し、
何かしら他のブログのランキングに魅了され放置していたが、
投稿文ごとの具体的なランキングに気付かされて、ふたたび本加入させて頂いた。

そして現在は、『人気ブログランキング』に於いては、『随筆・エッセイ』に所属し、
『にほんブログ村』に関しては、加入時は『随筆・エッセイ』系に重点していたが、
一昨年の秋の頃から、世代のよしみに甘えてシニア日記系『60歳代』に移行している。
          

こうした中で、つたない私の投稿文に於いて、気楽に綴ったのが上位になると戸惑い、
真剣勝負のように綴ったのが評価されず下位となり落胆したりする時もあったりしている。

しかしながらブログの世界は、諸兄諸姉のサイトを読ませて頂き、多々教示されながら、
何よりも感じ深めていることは、この広い空の下で、未知のお方に投稿文、或いはコメント上で、
めぐり逢えたこと、秘かに感謝したりしている。
          

私は世の中で著名な『相田みつを』氏を遅ればせながら学んだのは、
過ぎし1999〈平成11〉年の5月中旬、私たち夫婦は家内の両親と、
伊香保温泉に2泊3日で滞在した時、 ある民芸土産店で私はひとつの品に目がとまった・・。
               
『ひとりしずか』、と大きく題され、みつを、と署名されていた。

そして私は手に取り、ページを捲(めく)ると、
著名なこのお方の名は知っていたのであるが、遅ればせながら初めて接した書物の言葉、そして書体であった・・。
               
この言葉を読み終わった後、瞬時に圧倒的に魅了された・・。
               
私は幾つになっても拙(つたな)い我が身を振り返り、
私の父は、無念ながら私が小学2年の時に病死された体験もあり、
私はこの『トイレ用日めくり』を買い求めた後、その日に応じたページに、
さりげなく深い人生の教訓の言葉を特有な書体で書かれ、
この日以来、私はこのお方を秘かに慈父のように人生の師と掲げたのである。

その後、私は氏の遺(のこ)されたされた『じぶんの花を』、
『いのちいっぱい』、『雨の日には雨の中を 風の日には風の中を』などの作品を拝読し、
ときには傲慢と独断、そして偏見の多い私を戒(いまし)めている。

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東京の田舎者、都心に出れば、この時節は風邪気味となり・・!?

2013-12-03 09:51:00 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
一昨日の日中のひととき、都心の品川の駅前にあるシティホテルの『品川プンリスホテル』で、
小用があり、久々に都心の人出の多い中、往還した。

そして高層ビルの街並み、人出の多い中を行き交うと、
私は疲れは果てしまい、帰宅するとクシャミ5回ばかりした。

私の住む地域は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅であり、
最寄駅としては、京王線の場合は、『つつじが丘』、『仙川』の両駅は徒歩15分であり、
小田急線の場合は、『喜多見』、『狛江』の両駅は徒歩20分となり、
この京王線と小田急線にサンドイッチされたかのような辺鄙(へんぴ)な地域に住んでいる。

そして現役サラリーマン時代の時は、更に利便性の良い『成城学園前』駅を最寄駅と活用し、
年金生活の今でも、都心に買物に行く時、或いは国内旅行に行ったりする時は活用している。

いずれも路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりして、季節のうつろいを享受している。
          
このような地域でも、私の自宅周辺は住宅が密集しているが、数分歩けば、
野川が流れ、この両岸には遊歩道があり、小公園もあり、住宅地としては緑が豊かである。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

このような辺鄙な処に住み、私の生家に近くあり、
この地域に結婚前後の5年を除き、早や63年が過ぎている・・。
          

私は農家の児として1944(昭和19)年の秋に生を受けて、
地元の小・中学を卒業するまでの間、何かと都心にあこがれて、ときおり行ったりした。

やがて都心の高校に入学したのは1960(昭和35)年の春であり、
これ以来、青春期、青年期、自己格闘しながら都心から数多く学び、
長きサラリーマンの時代も都心で苦楽を共にして奮戦してきた・・。


そして2004〈平成16〉年の秋に定年退職した後、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

このような拙(つたな)い歩んできたが、年金生活を丸9年が過ぎている今、
都心に対し齢を重ねるたびに興味がなくなっている。
          
こうした根底には、イギリスの時代の風潮のひとつとして表現するならば、
ロンドンの街中で長らく奮戦して、第二の人生を郊外の農村で過ごすのが理想のひとつ、
と20数年前の頃まで、伝説のように書物に記載されている。

私は深く共鳴してきたが、無念ながら資金力と決断力に乏しく現在の所で住んでいる。
しかしながら都心の中で、たったひとつ訪れたい所があった、と思いだした。

恥ずかしながら告白すれば、『皇居・吹上御苑』である。

この思いになったのは、過ぎし2008年5月12日であった。
この日の新聞の切り抜きを私の机の中にある。

《・・皇居・吹上御苑での初の自然観察会が4日、行われ、
3万人以上の中から抽選で選ばれた一般参加者が、都心に残された自然の中を歩いた。

今年創設された『みどりの月間』にちなんで、天皇陛下が『国民と自然を分かち合いたい』と発案。
4日午前は約30人、午後は約70人、5日の『こどもの日』には、小学生ら約100人が参加する。

吹上御苑は、昭和天皇の住まいだった大宮御所の東側約25ヘクタールの森で、
宮内庁職員でも立ち入りが制限されている地区。

元は江戸時代に日本庭園として整備され、その際植えられた木や、
その後自然に生えた植物が混在して独特の森を形成。
昭和天皇の意向で、武蔵野の自然を残す為、約70年間は殆ど手をかけない管理が行われた。

巨木の数は東京全体の2割、昆虫は日本の1割に当たる約3000種類が生息。
アオヤンマなどの東京では、皇居以外でほぼ見られないトンボもいるという。・・》

このように記事は掲載されて、私はいつの日に抽選で選ばれて、訪れたい所である。

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何かと都心には、齢を重ねるたびに、私は苦手となり・・。

2013-12-02 12:18:33 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
昨日の日中のひととき、品川の駅前にある『品川プンリスホテル』で打ち合わせをしたりした。

私は指定時間に間に合うように自宅の近くに走行している路線バスで、
最寄りの駅のひとつの小田急線の『成城学園前』駅前に行き、
そして小田急線で『新宿』駅に到着した後、
山手線に乗り換えて『品川』駅で下り立ったのは午後1時過ぎであった。

そして駅前に聳え立つ『品川プンリスホテル』のメインタワーにあるロビーを目指して、
人出の多い中、確か20年ぶりかしら、と思いながら歩いたりした。
          

私は遠い昔、東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年の秋、
映画の脚本家になりたくて大学を中退し、アルバイトをしながら映画青年の真似事をした。

その後、養成所の講師の知人から、同じ創作をするのだったら小説を書きなさい、
とアドバイスを受けた後、契約社員などをしながら文学青年の真似事をし、
新人の純文学の小説コンクールの最終候補作の6作品の寸前で、3度ばかり落選したりしていた。

こうした落胆していた時、30代に普通の家庭が築けるの、妻子を養っていけるの、
と素朴な叱咤を叔父さんから、やんわりと言われ、
根拠のない自信にばかりの私はうろたえ、はかなくも挫折した。

やむえなくサラリーマンになる為に、あてどない心情の時、
たまたま本屋の店頭でビジネス情報誌として名高い『週間 ダイヤモンド』に於いて、
付録として『三週間でわかるコンピューター』と題された小冊が付いていた。

購入して読んだが、数学、物理などの理工関係にも弱い私は、無念ながら理解出来ない方が多く、
ただ漠然として、これからの企業ではコンピューターの活用は必要不可欠で伸長する、
と理解していた程度であった。
          
この後、私はコンピューターの専門学校のソフトコースを1年間学んだ上、
ある程度の企業に中途入社しょうと思った。
こうした中で、石原慎太郎さんが名誉学院長されているあるコンピューター専門学校に、
1969〈昭和44〉年4月に入学した。
          
確か最初は飯田橋駅の付近の老朽したビルが校舎であったが、
数が月後に代々木駅の近くの新築されたビルが校舎となった。

こうした中でソフトコースの同期の生徒は、
高校を卒業したばかり理工方面に優秀な若い男女が圧倒的に多く、
わずかながら大卒、或いは企業に入られた後に退社したりした方もいて、
私は遅れた24歳の青年であったが、年齢こそ違え同級生のよしみから交遊も重ねたりした。

そして科学計算向きのフォートラン、事務計算向きのコボル等のプログラムを実習したりしたりし、
汎用の小型コンピュータを稼動させて、テスト処理を行ったり、
或いはシステム概要、特に苦手な微分・積分などの授業を受けたりした。

私は映画の脚本とか小説などの創作者向きと思った文科系の身であったので、
人生やり直しと思い、苦手なコンピュータ分野であったが、
企業に中途入社する為に、何らかの技量が不可欠と思いながら、あえて学んだのである。

やがて1970〈昭和45〉年の3月に、私たち生徒はソフトコースを卒業して、
それぞれ企業に就職して行った・・。

その後の私は、同級生だった人たちが、どうような進路を歩まれたか、
そしてお世話になった先生にも連絡をしなかったので、音信不通となった。
          

今年の初夏、この中のひとりの講師から電話を頂き、私たち同級生の幾人かのその後の歩みを私は知ったりした。
その後に有志で懇親会を開こうとなり、やがて私たち生徒の中で、
優れた機敏能力のある女性を中核に、私たち3人の男性が賛同し、
今回、クラス会のような40年ぶりの集会する為の打ち合わせで待ち合わせたりした。

もとより40年の歳月が流れる中、就職して結婚されて、社会の第一線から退職され、
私のように69歳で年金生活、若い方でも63歳となっているので、
お孫さんにも恵まれている方も多いと思われる世代となっている。

そして日本の各地で住まわれて、日々を生活されている。

このようなことを配慮しながら、私たちは3時間ばかり、クラス会の招集を打ち合わせをした。

そして優れた機敏能力のある女性を幹事として、私たち男性3名が助成として散会した。

やがて私は『品川プンリスホテル』のメインタワーを後にして。
人出の多い中を歩いたりしたが、都心には、私は齢を重ねるたびに、疲れを感じて苦手となっている。
          
こうした根底には、このサイトで過ぎし日の6月4日に於いて、
『都心にあこがれ、そして長年苦楽を共にした私は、定年後は遥か遠い存在となり・・。』と題して、
投稿している。

お時間がある方はお読み頂き、ご笑話を願えれば幸いです。
http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/d/20130604
☆【 夢逢人かりそめ草紙 】2013年6月4日
           >===『 都心にあこがれ、そして長年苦楽を共にした私は、定年後は遥か遠い存在となり・・。』☆

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12月の『師走』、何かと愚図の私でも、慌ただしく・・。

2013-12-01 09:43:32 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の69歳の身であるが、
今朝、11月の朱紅色、紅色、黄色、茶色などに染められた錦繍(きんしゅう)に彩(いろど)った月に別れを告げて、
今年も確かな秋が受容できました、と感謝しながらカレンダーを破いたりした。

そして、『師走(しわす)』の12月に、こんにち~は、と心の中で呟(つぶや)いたのであるが、
月日の流れは余りにも早く過ぎ去った、というのが年金生活を過ごしている実感である。

そして笑っても泣いても、あと一カ月で新たな新年を迎えるのか、微苦笑したりした。

今朝の6時半過ぎに、地元の天気情報を見たら、
朝の6時過ぎは2度、昼下がりの最高気温は12度前後、夜の6時は9度前後で、
快晴の一日となり、日中のひとときは秋日和の余韻の暖かさに恵まれる、
と思いながら、平年並みの寒さかしら、微笑んだりした。
          
12月は、古来より『師走』とか『年満月』と称されているが、
幼年期の頃に農家の児として育てられた田舎者の私は、
何かの本で中世の頃は、『為果(しは)月』とも命名されているのを学んだりしてきた。

たとえ身体は衰えてきたが、少なくとも気力と感性だけは12歳ぐらい若い、と秘かに私は思っているので、
今年最後の12月ぐらいは、せめて何とか目標をたてて成果ある月に、しなければならない、
自身にすまない、と思ったりしているのである。
          

定年後の12月の毎年の私の習(なら)わしは、
年賀状を差し出す方の選定、文案の創作、投函することだし、
          
          ☆5日前、郵便局に行った時、こっそりと撮った☆

そして年末に向けて庭の手入れをした後は掃き清め、
或いは御節料理に準じたの食材を家内からの緊急要請で、私の買物に行く回数が増えるぐらいとなっている。

そして家内が誕生日を迎えるので、プレゼントの代わり、国内の短き小旅行を要望しているので、
殆ど毎年旅を重ねきた。
          
           ☆昨年の旅先の観光ホテルのロビー片隅、たわむれに撮った☆

あとは独り住まいの家内の母に年末の28日にに来宅して頂き、
私たち夫婦と共に三人で年始の1月3日まで共に過ごすぐらいが、恒例となったりしている。

しかし、今年はこの間に、スケジュール表を見れば、忘年会、小用が増えて、
何かと愚図の私でも、慌ただしい12月の日々となる。

このように本年の12月を過ごす予定であるが、
果たしてどのようになるか、と小庭にある朱紅色に染められたモミジを眺めたりし、
微苦笑したりしている。

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コメント (2)
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