三億円事件の公訴時効が成立して、さらに4年が経過し、人々の記憶からも事件が薄れ始めた昭和54年4月、私は大学に入学したのでありますが、本学正門から学園通りに面した裏門に回ってみました。(決して裏口入学した訳ではないのであります…。)当時と同じように、お決まりの「本学関係者以外の構内立入を禁ずる」との立て札が掲げてあるものの、通用門は常に開放され、今でも近所の人々のショートカット道路として利用されております^^;
変わったことと言えば、学園通り口のこの辺りにコンビニのハシリがあったのでありますが、今では読売新聞の専売所になっておりました。そして、2号館のエントランスホールは、異様なほど綺麗になっていたのであります。「本学関係者以外の…」昔と同じように守衛が居る訳でもなく、私も同窓会員なのだから、まんざら関係が無い訳でもない、呼び止められた時は「一瀬太良先生に会いに来ました…などと惚けてみせよう。」(一瀬教授は25年も前に他界しているので、それこそ関係者以外は分からない暗号であります^^;)
4階の植物防疫学科は、応用生物科学科と名称を変え、農薬学研究室は生物制御化学研究室へと変わっております。私が履修した「害虫学研究室」は「応用昆虫学研究室」と名称が変わり、変わらないものといえば、雑然とした廊下と「植物病理学」の名称でありましょう。明治以来、東大を頂点とする旧態依然とした学会である「植物病理学」は、研究成果も上がらないと同時に、名称の変化も無いのだろうなどと、他の学会を揶揄する夢屋であります。
学生実験室は、古いメラミンの実験台からダルトン製でありましょうか、小奇麗な実験台に変化しております。学内は外壁のお色直しをするなど、国立大学から独立行政法人に移行した際の手切れ金で改修したのではないか…と思われるほど綺麗になっている。15年程前に子どもたちを連れて訪れた時よりも大きく変容していたのであります。
変わらないものと言えば、3年生の春、新入生歓迎コンパでしたたか飲んで、4年生の柔道部主将に絡んでしまい、お詫びに裸で飛び込んだ池…同じ研究室の〇滝君は、夢屋の粗チ〇を見て、我が粗〇ンに自信を持ったという逸話が残っております^^;
農学科のある1号館脇には、「欅寮」の前身である「駒場寮跡」の石碑が…「今朝も早よから 泥鍬担や~♪雲雀亦鳴く鳴く 春の空そうともな♪」と泥臭い節回しの寮歌「駒場小唄」は今も歌い継がれているのだろうか…応用生物科学などと、今風のお名前の現代の学生さんたちが歌っているとも思えない。大学裏の農場、東京都内(府中市ではあるけれど…)にこれだけの広大な敷地を農場として確保していて良いものだろうか?かつて農場長であった福島県下郷町出身の渡部直吉教授が、文部省(当時)官僚に農場の存続をズーズー弁で訴えたと本人から聞いたのは、やはり20年程前の話であります。
「夢屋~!ズーズー弁と言うものは良いもんだぞぉ^^; 文部省の官僚は、俺が何を言っているか分からないから聞き取ろうとして必死で耳を傾けてくれる。標準語で直訴しても聞き入れてもらえなかったろうなぁ~^^;」彼は、農場の移転計画に対して、東京都内の農場だからこそ存続させ、子どもたちに農業に触れる機会を与えなければならないと熱弁を振るったようであるが、恐らく明治維新以来、薩長を頂点とする中央政府に敵対感情を抱く『会津っぽ』の熱い心意気は伝わったことであろうが、言葉は通じなかったことだろうと思うのであります。こうしてみると、この大学は研究費は少ない貧乏大学ではあったが、時価数十億円の含み資産を保有する資産家大学であったことに今さらながら気付いたのでありました。(続く)