「学生による寮運営・学生の自治権の確立!」そんなスローガンをぶち上げられても、田舎出身のノンセクトの貧乏学生にはピンと来るわけがない。ただ、漠然と分かっていたことは、60年代安保闘争は、学生たちが集団という不穏な結社を繰り返したことに起因する。したがって、学生には3S政策を進めるという文部省(当時)の方針だけは理解出来た。3Sとは「Sports」「Study」「Sex」の頭文字であります。学生はこの三つを満足させれば不満を言わない…代表的な例は、筑波大学における大学運営方針であり、学長の権限を異常なほどまで高め、教職員を押さえ込み、学生たちには3Sを満足させる、寮は完全個室化し集団化しないように配慮し、さらには夫婦寮もあるという近代施設を作り上げた。一方、欅寮は、一人3畳(配置が悪いので、自由になる空間は、ベッドの上と机しか無かったのでありますが…)の空間しかない。しかし、寮生活と寮委員を経験し、最も有効だったと感じているのは、学部学科を越えて先輩・同輩と議論が出来た事かもしれません。
獣医学科の長老「蔦沢さん」に初めて寮委員として挨拶を交わした時、「君が新しい寮委員かぁ?じゃ~歓迎するからお好み焼きを食べに行こう。」そんな会話で、部屋回りもそこそこに工学部の銀杏並木道を抜け、正門前のお好み焼き「友紀」に連れ出された。
「友紀のおばん」は、三村さんという当時60歳代のおばちゃんだったが、歯槽膿漏のポメラニアン「リリー」と暮らしていた。当時、350円~400円程度で大判の広島風お好み焼きを食べさせてくれました。「夢屋~!そのダウンベスト寄こせぇ~。」「夢屋~!徹マンするぞぉ~。」その後、私がこの店で学生以外の一般客を見たのは一度だけ^^; その後、度々寝込みを襲われて、マージャンに誘われたが、勝っても負けても朝飯だけは奢ってもらった気がする。『友紀のばばぁ杯』ボウリング大会が恒例で、今は亡き「須田加代子プロ」とタイマンで投げ合ったという経歴は伊達ではありませんでした。酔っ払うとベロンベロンのおばちゃんで、度々カウンターでお好み焼きを替わりに焼かされ、私がお客対応をさせられた。「夢屋!昨日お前と寝た夢を見たぁ~!お前下手だなぁ~!」(あくまで、おばんの妄想であります。)何故か、おばんには可愛がられた^^; 今では、跡地にマンションが建っていたのであります。
当時の小金井南口商店街は学生に寛大であり、碁会所も兼ねていた寿司屋の大将は、350円程度で握り一人前を食べさせてくれました。しかし、そのネタは向うの風景が透けて見えるほど薄く、学生たちは名人級であると彼の腕を評価していたのであります。松之家は、カウンターだけの飲み屋で、ここもまた、おばちゃんが接客係なのでありますが、寮長の『薫ちゃん』が、「夢屋~!酒飲みてぇ~!」と突然絶叫し、1円や5円玉交じりで640円位のチャラ銭を握り締め、「おばちゃん御免!これしかな~い。飲ませて…^^;」と懇願したら、コップ酒各々2杯とわんこの餌皿のような、ボコボコの古鍋に2人前の湯豆腐を提供してくれましたっけ^^;
東小金井駅南口は、以前は空き地にフェンスが巡らされており、夜になると夏でもおでん屋台が引き出されてきました。屋台のオジサンは893系の幹部らしいと専らの噂でありましたが、酔っ払い同士の喧嘩を腰が引けた状態で仲裁する姿は、とても893系の業界の方とは思えませんでした。
彼が出すラーメンは、とても食えた代物では無く、専らおでんとコップの中で浮遊物が舞う熱燗を目的に通ったのでありますが、スープの中にゆずを入れるなど、私が在学する4年間でかなり味は進化いたしました^^;
ひとつ50円位のおでん種でありましたが、お愛想を頼むと菜箸で「ひ~ふ~み~」と数える。バイトでお金に余裕があって少し多めに食べても「ひ~ふ~み~よぉ~!」とまでしか数えない。
「おじさん!もっと食べてるよぉ。」と言っても「ひ~ふ~み~よぉ~!」としか数えない。恐らく、「いつ(5)」以上の数を知らないのではないかと疑ったものであるが、その疑問はある日、解けたのであります。
寒い夜、グデングデンに酔っ払った客を「学生さん!この人の家は〇△の辺りで、〇□と表札が出ている家だから抱えて連れ帰っておくれよ…。」
「分かったよおじさん!じゃ、お愛想^^;」
「いいよ、いいよ学生さん!おじさんは、後でこの人に貰うから^^; 学生さんは勉強して、社会に出てから良い仕事して返しておくれよ…。」
卒業して10年後、気まぐれでこの街を訪れた時、どうも卒業に失敗して893系の業界人(不動産屋)になった藤本という同級の寮生に、おじさんは小金井でビルのオーナーになり、友紀のおばんはそのビルで働いているという噂を聞いたが、事の真偽は定かではない^^;
(続く)