蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

露天風呂幻想

2005年07月19日 | つれづれに

 いつになく短い梅雨が明けた。水不足の心配が消えた代償は、炙り上げるように苛烈な夏の日差しだった。そんな油照りの一日、父の23回忌の法要を終えた。菩提寺は春先の大地震で山門が崩れ、本堂も立ち入れないほどに傷んだ。その為に控えの小さな部屋での供養となったが、いつもは遠く仰ぎ見るご本尊の阿弥陀様が身近に眼を伏せられ、兄弟だけでささやかに法要を営むに相応しい佇まいとなった。
 前日まで元気だった父は、明け方喘息の発作で救急車を呼び、その日のうちに意識不明となって、その深夜呆気なく逝った。苦しくて救急車のストレッチャーに横になることが出来ず、蹲るように座ったまま「きつい」と残した一言が私の耳に残る最後の言葉になった。家族に全く負担をかけない潔い最後ではあったが、好きな庭いじりを終えて庭先から上がってくる父の幻がいつまでも消えなかった。梅雨末期の豪雨の中で父は仏となった。
 その父が好きだった月下美人が、命日に合わせるように今年も花を咲かせた。月下美人が父を偲ばせる花となってもう23年が過ぎた。仮借ない歳月の流れを思う。

 法事を終えて、久しぶりの兄弟寄りをしようと、嬉野温泉に車を走らせた。休日前の旅館は客も少なく、大浴場を独り占めにする贅沢な静けさを味わうことが出来た。和やかに「黒懐石」という珍しい夕食を終え、夜更けの露天風呂でひとりくつろぎながらふと思った。露天風呂はやはり湯煙の風情が味わえる冬がいい。寒風に頬を嬲らせながら、染み入る温泉の温もりに身を沈め、時には暗い空から雪が舞い落ちる冬の露天風呂の風情は喩えようがない。
 山歩きのときによく訪れる湯坪温泉K館、その庭の片隅に小さな池のような岩風呂がある。そこでいつも山男の正昭さんがロマンチックな演出をしてくれる。ホテルの結婚式場から使い残りの蝋燭を仕込んできて、竹に流し込み三色のキャンドルに仕立てる。斜めに切った孟宗竹の筒の中にその蝋燭を立て、露天風呂の周囲に並べてライトを消すと、夢幻の世界が広がった。湯煙の向こうにキャンドルの揺らぎを見ながら、頭上から散る花びらを肩に受けていると、ふくらはぎに染み込む山歩きの疲れが、湯煙と共に夜気に消えていく。むさ苦しい男二人の湯船は少し味気ないものの、それぞれの女房共が童心に還ったようにに嬉々としてはしゃぐ声を夜風の中で聞きながら、得難い山友達の心遣いを噛みしめるのだった。

 74歳の早すぎる父の送りだった。その年まであと8年。それを越すまでは生きるのが子の責任、本当の余生はそれから始まるのかも知れない。そんなことを思いながら、露天風呂で川のせせらぎを聴いていた。
         (2005年7月:写真:K館露天風呂のキャンドル)