蛇口をひねって、ふと水を暖かく感じる朝がある。秋風が立った。その空気の冷たさに追いつけず、大地はまだ夏の火照りを残して、水道の水を温かく感じさせるのだ。今年の秋は、こんな小さなことから始まった。
ひと月以上懸命に鈴を転がし続けた5匹のスズムシが3匹になり、澄んでいたその声も少し掠れ始め、次第に勢いを増すコオロギの声に包み込まれていく。冬に備えて山に帰る途中のシジュウカラが名残の声を聴かせ、断ち切るような百舌の裂帛が冴える。夏と秋の小さなせめぎ合いも次第に秋の旗色が濃くなり、9月が進んでいく。庭先の思いがけない所から白い彼岸花が立ち上がり、棚の上ではかすかに緑に染まるオゼギボウシが高い茎の上に白い花を並べた。窓辺の夕顔、宵闇の月下美人……今、蟋蟀庵の庭は白い花の競演である。
得体の知れない選挙が終わった。問題をすり替えた傲慢な権力者の詭弁に乗せられた人々が、世の中を大きく傾けた。日本人はここまで愚かになったのかと慨嘆しながら、不気味な足音を聴いている。イラク派兵がなし崩しに正当化され、やがて平和憲法に手が着けられるのも必至、無定見な外交が益々日本を孤立させるだろう、北朝鮮の拉致問題も結局権力闘争に利用されただけなのか、経済も年金問題も増税も、環境問題も少子化問題も、先行きは見えないままに、日本は人口減少時代にはいった。気が付いてからでは遅い。いつかきっと後悔を強いられる時代が、遠からず来るように思えてならない。若者の正義は何処に消えてしまったのだろう。今ほど学生の社会的存在感が希薄な時代はない。そう言えば、初夏のアラスカ・クルーズから帰って成田に降り立ったとき真っ先に感じたのは、日本の若者はどうしてこんなに薄汚いのだろう、ということだった。
町内のお年寄りを招いて、敬老会が今年も盛会裡に無事終わった。携わって5年目、今年も喜んでいただいたという満足感の裏に、一年ごとに歳を取る姿を目の当たりにする寂しさがある。辛さがある。高齢化率30%を超える自治区を預かる重さが、ズッシリ肩に落ちかかる。
その夜、近付いた九州国立博物館開館を記念して、大宰府天満宮で薪能が行われた。迫る闇の底から沸き上がる虫の音に呼応して響く鼓の冴え、篝火の揺らぎの中で繰り広げられる幽玄の舞いに心を鎮めた。やがて来る開館式に文化庁から招きを受けた。皇太子殿下の来臨を仰ぎたいという声もある。起工式、竣工式、そして開館式と、思いがけず100年の願いを篭めた歴史的瞬間に立ち会える幸せを思う。
ひとり夜道を帰る頃、国立博物館の青い屋根の上に、見事な十六夜の月が出た。少し湿気を帯びながらも、吹く風は間違いなく秋だった。
(2005年9月:写真:オゼギボウシ)