蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

つのぐむ

2008年01月31日 | つれづれに

 いち早く新春を告げたソシンロウバイも花時を終え、木枯らしに仄かな香りを添えた眩しい黄色も色褪せた。いつも歩く天満宮裏山の目立たない梅林の下生えに真っ先に花をつけるオオイヌノフグリが、今年はまだ青空のかけらを散り敷かない。早い時は師走の日差しの中でさえ花開いていたのに、年々季節の歩みは気まぐれである。庭先のプランターに、真っ先に咲いたのはサギゴケだった。
 山から下りてきたシジュウカラが、まだ冷たい冬空にツツピンと声を弾かせる。摘み終えた八朔の葉の緑が一段と色濃く見える。数え終わったら90個と、昨年を僅かながら上回った。暫く縁先に転がして熟成を待っている。毎年記念に1個だけ梢に残すのが習慣になった。ついばむ鳥もなく、緑の葉陰に当分はトロフィーのように輝くことだろう。春になれば又、袋一杯の油粕と骨粉の施肥が待っている。自然薯掘り用の鍬を逆さに立て、根っこの周辺を抉りながら深さ50センチほどの穴を幾つも掘って、そこに油粕と骨粉を施していく。こうして、瑞々しく甘酸っぱい八朔固有の味わいが育まれるのだ。

 しつこい頭痛と悪寒が背中を走り抜ける。珍しくひどい風邪も引かずに年を越した。人ごみを避けていたのに、年明けて九州国立博物館の環境ボランティアの研修が始まって連日人ごみにでるようになったら、早速風邪の洗礼が待っていた。11のボランティアに238人が採用され、延べ9日間に17の講座を受ける。その後部門ごとの実習があって、4月から第2期ボランティア活動が始まることになった。
 昆虫少年の成れの果てが、最後に辿りついた「環境ボランティア」。博物館の収蔵物に作用するフルホンシバンムシ(古本死番虫)やヒメマルカツオブシムシ(姫丸鰹節虫)などの昆虫や、黴、埃、湿気、温度などを管理する地味な仕事である。唯一「人前に出ない縁の下の仕事」という所に心惹かれて応募した。しかも、世界一の管理システムと運用を誇る九州国立博物館の収蔵庫にはいれる仕事なんて、そうそうあるものではない。一度博物館科学科の本田課長に案内されて、バックヤード・ツアーを体験した。その折、収蔵庫に濃く漂っていた九州産の杉材の香りが、今もしっかりと嗅覚に焼きついている。
 虫を殺せなくなった昆虫少年、「この世に害虫という虫はいない」という慎ましい信念がこの仕事にどう生かされるのか、今年の大きな楽しみの一つである。(勿論、もうひとつの楽しみはアメリカの娘夫婦と6月に計画が進んでいる、沖縄・座間味島でのダイビング三昧である。)

 横浜の長女が早速携帯にメールを送ってきた。「うわ!まさに天職な転職発見だね。おめでとう!しかもそれが『本の虫』相手とは。お父さんの本当に天職かもしれないね。」生活優先で、大学の農学部進学を諦めた経緯がある。そのことを知る娘からの祝福だったが、いい年して少年時代の夢を追い続ける父親に、少し冷やかしの気持もあったのかもしれない。

 数年前、天満宮の裏山から実生の楓の苗を頂戴してきた。生き残った3本が、庭の片隅で身の丈を超えるまでに成長した。冷たい氷雨の朝、梢の先に露を纏った新芽が健気に風に揺れていた。季節の足取りにその年毎の乱れはあっても、春に向かう大きな流れにためらいはない。いつの間にか、ヤマシャクヤクの3つの鉢にも7本の新芽が角ぐんでいた。
 1月が逝く。風邪っ気が取れたら、また天満宮の裏山にオオイヌノフグリの開花を迎えに行ってみよう。
                (2008年1月:写真:楓の芽吹き)