広大な遠の朝廷・太宰府政庁跡の礎石に座り、カラカラと氷の音を転がしながらサーモスの麦茶を含んだ。一瞬、冷たい柱が喉に立つ。アメリカの次女が土産にくれたお気に入りのNASAのキャップを脱いで、額に滴る汗を拭いた。
足元に広がる草叢はしっとりと露に濡れ、辺りの朝景色も、苛烈な夏の日差しに叩かれる前の起き抜けのすっぴんの姿である。早朝散歩は、そのすっぴんの風情がいい。広場を囲む木立を白鷺が縫い、もう辺りは蝉時雨が姦しいほどに溢れ返っていた。
5時過ぎの散歩に出掛けた家内が帰ってきた。指宿の先進医療から半年、15ミリの二つの肝臓癌は見事に消失し、腫瘍マーカーも劇的に下がった。「神の手」が本当に存在することを実感したこの半年だった。
昨秋、5年振りに家内の肝臓癌が再発、放置すれば早ければ2年と宣告され、主治医の勧めと治癒率89%というデータ―を信じて、鹿児島県指宿にある「メディポリスがん粒子線治療研究センター」に走った。診断から検査、治療計画、放射治療と延べ1ヶ月ほどの滞在は保険も効かず350万の高額出費となったが、結果として救われた命の値段としては決して高くなかった。副作用も後遺症もなく、今はこうして一人で元気に1時間余りの早朝散歩をこなしている。
家内と入れ替わりに、朝の散歩に出た。(二人の散歩に時差があるのは、お互いのやむにやまれぬ身体のリズムのせいであり、他意はない)いつもながらの御笠川沿いの散策路を辿る。曇り空が日差しを遮り、爽やかな川風が吹き過ぎる。高橋口の橋の上で釣り人が一人、川底に群れる小魚の魚影に竿を垂らしていた。少し川下の小さな堰では、1羽の白鷺が羽繕いをしている。「おはようございます」と声を交わしてすれ違う人は何故か男ばかり。紫外線を嫌う女性たちは、多分もっと早い時間を歩いているのだろう。
足元に纏わり付くハグロトンボを見送って川沿いをしばらく歩き、橋の袂から右に折れて観世音寺に抜ける。久し振りに潜る木立のトンネルは、早くも鼓膜が麻痺しそうなほどのクマゼミの大合唱である。格子の開き戸を持ち上げてお賽銭をあげ、観世音寺の裏に抜けた。
ちょっと寄り道して、日吉神社の下に広がる、いつも我が家に朝採りの新鮮な野菜を届けてくれる親しい友人の畑(我が家では感謝と敬意をこめて「Y農園」と呼んでいる)を覗いてみた。まだ青いイチジクがみっしりと実り、秋の収穫が待ち遠しい。畑に咲く夏水仙のピンクが清々しく爽やかだった。夏の花は強い色合いが多い中で、ヒガンバナの一種だというこの花の色は優しい。真っ赤に熟れたトマトに食欲をそそられながら横目に見て、裏道を太宰府政庁跡に向かった。
肩透かしが続いて、運よく今年もまだ台風の洗礼を受けることなく、猪除けの柵に囲まれた水田の稲の生育は順調だが、稲の茎に毒々しいピンク色のジャンボタニシ(スクミリンゴガイ)の卵塊が気になった。南アメリカ・ラプラタ川流域原産のこの貝は、食用として1981年に台湾から長崎県と和歌山県に持ち込まれて全国に広がった。我が家でも一時飼っていたことがあるが、水槽の悪臭に参って、さすがに食べる気にはならなかった。一時は全国に養殖場が500ヶ所以上出来たが、需要が伸びず採算が取れないために事業としては定着しなかった。1984年に有害外来生物に指定されたが、棄てられたり養殖場から逃げ出したものが野生化し、今では水田の稲を食害する厄介者となっている。
土砂降りの蝉時雨に追われるように川沿いの道を帰った。未明のヒグラシに代り、この時間はクマゼミとアブラゼミの天下である。昨夕、昨年より10日遅くツクツクボウシが初鳴きを聴かせてくれた。秋の先駆けである。待っていたかのように、夜の庭でチンチンチンと小さな鐘を叩くように、透明な声でカネタタキが鳴き始めた。残暑の中に、小さな秋が育ち始めている。
再び高橋口橋まで戻ったところで、携帯の歩数計に設定した目標8000歩達成のファンファーレが鳴った。
家近くの玄関先で、子供会のお母さんの姿を見かけた。起き抜けで眉を落としたすっぴんの顔に、慌てて目を逸らし顔を背けて気付かぬふりしてそっと通り過ぎた。女性には、見てはいけない顔があるらしい。
(2014年8月;写真;Y農園に咲く夏水仙)