蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

雨の訪問者

2016年06月26日 | 季節の便り・旅篇

 降り続く重い雨の底で、いつの間にか2頭のキアゲハの幼虫が孵っていた。例年になく早い訪れである。まだ幼い鳥糞状の姿だが、脱皮を重ねて、やがて緑の地に黒と赤の斑点を散らした美しい終齢幼虫となる。
 この日に備えて、春浅いころに求めてきた4本に加え、梅雨の前にもうひとつプランターを増やして4本を買い足し、合わせて8本のパセリが植え込んであった。知人たちに多少あきれ顔をされるが、時たま我が家の食卓に分けてもらうことはあっても、基本的にこれらはキアゲハの為のパセリ苗である。

 もう十数年習わしになっている我が家のしきたりであり、ツマグロヒョウモンの為に株を増やし続けているスミレと共に、わが家の庭で育て、大空にはばたくのを見守る儀式である。労せずして八朔の根方からは、毎年100匹を超えるセミが誕生する。(昨年は珍しく、7月7日から27日の間に70匹が羽化するにとどまった)

 山地の林縁や湿地、明るい草原、丘陵地の農地、都市部の公園などで観られるアゲハチョウの仲間だが、近年都市部の公園で目撃例が増えているという嬉しいニュースもある。一見アゲハチョウと見紛うことも多いが、見慣れれば白っぽいアゲハチョウと、黄色が強いキアゲハの区別が容易に出来るようになる。花に止まって吸蜜するところを見れば、その違いは一目瞭然である。

 彼ら(彼女ら)の訪れには、毎年悩ましいことも付き纏う。2頭が孵ったという事は、間違いなく孵化を待っている卵がまだまだあるということなのだ。しっかり繁った8本のパセリで何頭が育ちあがり、蛹化して、夏の日差しに羽化して飛び立つことが出来るのだろう。全てを蚕食するままに放置すれば、やがて餌を食い尽くして全てが命を失う羽目になる。
 いつものようにご近所の家庭菜園のニンジン畑を探し、夜陰に乗じてこっそり移民させるか……さもなければ、間引きという苦渋の選択を迫られることになるのだ。かつて、市販のパセリを束にして買ってきて与えたことがある。十分に洗浄して与えた筈なのに、翌朝真っ黒になって死に絶えていた……農薬の恐ろしさを完膚なきまでに思い知らされた事件だった。
 大自然の摂理はもっと厳しい。卵や仔が無事に育ち、やがて子孫を残せる親になるには、数十、数百、数千、場合によっては数万にひとつという生存競争に生き残らなければならないのだ。もしすべての卵や仔が生き残ったら、地球上は空も陸も海も生き物たちで覆い尽くされ、生存率は高くても生殖能力が衰えつつある人類など、あっという間に絶滅してしまうだろう……そう自分に言い聞かせながらも、間引きする時の後ろめたさは一向に軽くならない。
 しかし、今は考えるのをよそう。無心に日がな一日パセリの葉をショリショリと貪り続ける姿を、黙って見守っていよう。

 月下美人が今夜咲く。南米経由台湾から長崎に上陸して全国に広がった月下美人は全てクローンであり、不思議に全国ほぼ同じ夜に花開く。5年ほど前にカリフォルニアの娘の家から持ってきた2枚の葉を鉢に挿していたのが、ようやく蕾を着けた。南米から北米に渡ったものは微妙に緑がかった蕾であり、多分花の姿も微妙に違うのだろう。同じ原種が、それぞれの旅の途上で微妙に進化の道筋を違えていく……ここにも、大自然の不思議がある。
 今夜は「中村雀右衛門襲名披露公演千穐楽」、博多座最後の舞台を観て帰り着く頃、わが家は6輪の満開の月下美人の甘い芳香で満たされていることだろう。

 梅雨の束の間の中休みで雨がやみ、カッと日差しが突き刺さってきた。雲の上には、既にしっかりと夏が居座っていた。
                (2016年6月:写真:キアゲハの幼虫)