蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

平成を折る

2017年10月19日 | つれづれに

 長崎地区の取引先を回った夜、昭和天皇の崩御を聞いた。歌舞音曲自粛の静かな夜、同行した社員が「飲み屋も休みで、飲みに行けない」とぼやいていたのを不謹慎と諭し、昭和の時代の終焉を何となく虚ろな気持ちで噛みしめていた。
 昼間回った長崎郊外の取引先で見事な折鶴蘭を見掛け、ひと株を濡れたティッシュに包んで分けてもらった。三日間の巡回を終え、帰り着いて吊り鉢に植え、風呂場の窓際に吊るした。以来29年、株が増え、伸びた茎(ランナー)の先に次々に新しい子株を着け、その株のひとつを切り取って水栽培すると、縺れ合った綺麗な根の形を楽しむことも出来る。その小さなガラス鉢はトイレの窓を飾って久しい。白い花は限りなく地味である。
 今年の暑さと風呂場の湿気のバランスが良かったのか、29年目とは思えないほど豊かに繁った。風呂場で独り楽しむには惜しくて、ホームセンターに走り、ちょっとした工夫で玄関脇に提げた。

 「三種の神器」という人々の夢の牽引力となった家電品、業界は高度成長の競争力確保の為に、挙って町の電気店の囲い込みを繰り広げていた。「○○電機ストア」「○○ショップ」……メーカー名を頭に掲げ、店舗も車も指定色に塗り上げて、当時は家電売り上げの7割を占めていた町の電気店も、やがて量販店やスーパーの安売り競争に押されて、1割を割り込むまで落ちて行った。その量販店も喰い合って、九州の雄も中国地方の一番手も、関東の量販店に経営を奪われていく。栄枯盛衰の中で、数少ない「町の電気屋さん」は、地域密着とサービス力で今も生き残っている。時代は移っても、失われない温もりがある。
 リタイアして17年、今も島根や徳島、鹿児島の電気屋さんと家族ぐるみの付き合いが続いている。
 思い返せば、決して得手ではなかった営業の仕事に40年も携われたのは、そんな「町の電気屋さん」との温かい付き合いがあったからだと思う。
 毎年6~7月、11月~12月……所謂「季節商品」の最盛期は、300店ほどの店を回るのが慣例だった。予告なしに訪問し、店主が居たら「商売してきなさい」と追い出し、奥様方と語り合う。後継者の二世教育にも関わり、そこから家族ぐるみの付き合いが始まった。

 年号が平成に変わり、長崎支店長として赴任、平成2年11月半ばに島原地区を巡回しているとき、雲仙普賢岳から細い煙が立ち上っているのを見た。
 「噴火の兆候かもしれないね」と、部下の課長と話しながら帰った1週間後、本当に普賢岳が噴火した。
 翌年5月に最初の土石流が発生、やが「火砕流」と言う聞き慣れない言葉がニュースで叫ばれるようになる。
 巡回の途中、水無川に架かる橋の上から、遥か4キロほど先の噴火口から流れ下る小さな火砕流を見上げて翌日、大火砕流が発生して、その橋も呑みこまれた。6月3日、43名の犠牲者を出した大火砕流だった。

 もう四半世紀を過ぎた昔の話である。その時、島原で拾った拳二つ分ほどの噴石と、道端で掬って来た火山灰が、いまも我が家の棚の一角を飾っている。
 火砕流に埋められた家屋も、奇岩累々の平成新山も、今では島原半島の貴重な観光資源……時間が悲劇を浄化していく一例である。
 平成天皇生前退位の意向により、平成も30年で新たな年号に受け継がれようとしている。昭和も遠くなった。私たちも古びた。

 平成を折り続けてきた折鶴蘭のひと鉢が、今日も淡々と折り鶴を折り続けている。
 心癒される生命力の逞しさである。
                      (2017年10月:写真:折鶴蘭)