蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

蘇る少年時代

2020年05月22日 | 季節の便り・虫篇

 4月並みの気温に逆戻りした朝、梅の葉先に蓑虫を見付けた!オオミノガの蓑虫だった。
 何年振りだろう?かつては、払いのけるのに煩いほど何処にでもぶら下がっていた。しかし、外来寄生種のオオミノガヤドリバエによって、1990年代から急速に姿を消していった。
 このハエは、オオミノガの終齢幼虫を見付けると、その食べている葉に卵を産み付けて幼虫に食べさせ、口で破壊されなかった運のいい卵だけが体内で孵化する。最近では、オオミノガヤドリバエ自体に寄生する蜂が見付かっているというから、自然界の生存競争は厳しい。
 子供の頃、蓑虫から幼虫を揉み出し、千代紙や毛糸などを切った中に這わせて、色とりどりの蓑を作らせて遊んだ。そんな記憶を持つのは、もう高齢者だけだろうか?喪われていくものが多いのは寂しい。
 ミノガの雌は一生成虫の蛾になることはない。蛆状のまま蓑の中で過ごし、蓑の下からお尻を突き出してフェロモンで雄を呼び寄せて交尾して命を繋ぎ、産卵した卵に包まれて一生を終える。

   蓑虫の 父よと鳴きて 母もなし    虚子
 季語では「蓑虫鳴く」と扱われている。「父よ父よ」と鳴くとの言い伝えがあるのは、一説によれば、これは秋の深い頃まで「チン、チン、チン」と鳴くカネタタキの鳴き声と混同したものと言われる。「鬼の捨子」、「木こり虫」とも。

 「断捨離の」過程で、中学時代・昆虫少年だった頃の、採集や観察レポートの束が出てきた。読み始めたら、当時の思い出が泉のように湧き出してきて止められなくなった。ウ~ン、これは捨て難い!
 家から歩いて15分、母校の小・中学校の裏山が西公園という小山だった。昆虫少年の日々は365日通い詰めたり、早朝5時半や夜の10時過ぎに一人で訪ねるなど、昆虫採集の日々を重ねていた。
 時には、福岡市南部の平尾山に夜中の2時半に自転車でカブトムシを採りに行ったり、ひと晩テントを立てて樹幹に白布を張り、アセチレン灯を焚いて蛾やゾウムなど数十匹を集め、合間に近くの樹林を巡って、カブトムシを30匹以上採った記録もある。猛烈な藪蚊に苛まれた徹夜の採集だった。

 どの場所でどんな蝶や蜻蛉や甲虫類を採ったかを記録した、西公園の緻密な手書き地図も残っている。
 春は桜に酔客が騒ぎ、秋は紅葉に染まる西公園での多感な思春期の日々の記録……遊び、学び、導かれ、やがて大人への階段を昇って行った想い出深い場所だった。

 「……昭和28年7月28日午前7時30分、家を出て西公園に向かう。今日の目的は、主に鱗翅目(蝶類)にあるので、採集網、三角紙包、三角缶、それに用心のためのピンセット、小箱を1個持って出かける。(註:何もない時代であり、これらは全て手作りだった)
 天気快晴、風ナシ。絶好の採集日和である。去年歩き回った細い坂道を上り、右に折れる。間もなく、櫟や楢の甘酸っぱい樹液の匂いが漂ってくる。去年の記録ではこの辺りが最も昆虫が多かった。樹に近づくと、ヒメジャノメ、ヒメウラナミジャノメ、それにキマダラヒカゲ、ゴマダラチョウがパッと飛び立つ。早速バタバタと捕らえて三角紙に収める。
 樹液に首を突っ込んでいたカナブン、アオカナブン、シラホシハナムグリ、ヨツボシケシキスイも用意してきた小箱に投げ込んだ。もう1本の樹のところで、キマダラヒカゲ、ヒメジャノメ、ヒメウラナミジャノメをそれぞれ数匹ずつ捕える。
 再び最初の樹に戻り、ルリタテハを初めて捕らえることが出来たのは嬉しかった。やがて、別の坂を下り七曲りに出る……」
 
 数十ページに及ぶ黄ばんだレポート用紙に当時のときめきが蘇り、感傷に耽って夜が更けた。
 ……いつの間にか、昆虫少年に戻っている自分が居た。
                            (2020年5月:写真:蓑虫)