蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

友よ!

2021年09月19日 | 季節の便り・花篇

   ごんしゃん ごんしゃん どこへゆく
   赤いお墓の ひがんばな
   きょうも手折りに 来たわいな

   ごんしゃん ごんしゃん 何本か
   地には七本 血のように
   ちょうど あの児の 年のかず
          曼珠沙華(ひがんばな) 北原白秋

 台風一過、俄かに秋が来た。ツクツクボウシの声が少し遠くなり、ツクツクが聞こえず、オーシ、オーシだけが耳に届く。夜の扉を叩くカネタタキの声も掠れがちになった。梅雨の長雨から、体温並みの酷暑、そして豪雨の秋雨前線が居座り続けた。その陰で、傲然とのさばり続けるコロナ。夏にとどめを刺したのは台風14号だった。3日ほど洋上を彷徨った後、一気に東に走り、直接福岡県に上陸、史上初めての出来事となった。
 
 観世音寺脇の戒壇院参道に、真っ赤な曼殊沙華が咲き揃ったという知らせが来た。白秋の詩を思い出し、ふと口ずさむ。
 白秋の愛弟子だった田中善徳という写真家がいた。白秋と共著で残した、白秋の郷里・柳川を美しくとらえた写真集「水の構圖」。復刻された一冊が、我が家の書棚にある。「昭和18年1月25日発行、8圓25銭」とある。既に絶版になっていたものを、昭和55年4月1日、善徳の長男、田中瑛によって復刻され、3500円で書店に並んだ。
 この田中瑛は、私の親友の一人だった。福岡学芸大学付属福岡中学校と福岡県立修猷館高校で勉学を共にし、彼は父の薫陶でろうけつ染めに優れ、後に東京芸大に進み、私は地元の九州大学法学部に進学した。瑛(あきら)という名前は、白秋が付けというた。彼が彼岸に渡って、すでに20年近くが過ぎた。実は、私とカミさんを結びつける機会を作った友人だった。(詳しいことは、いずれ書くことがあるかもしれない)
 もう一人の親友だった貝原信明は、貝原益軒の13代目の子孫だった。田中と同じく、中学と高校を共にした。算盤の名手であり、全国大会でも名を馳せたことが何度もある。九州大学医学部に学び、鳥取大学医学部教授を務めた。奥様に先立たれ、男の子二人と「キャンプのような毎日です」と賀状に書いてきたことがある。後に中学の同級生と再婚、その結婚式の司会に、赴任先の長崎から福岡まで駆け付けたことがあった。しかし、そんな彼も、鬼籍に入ってから既に数年が過ぎた。私一人が残されて、また「敬老の日」を迎えようとしている。

 コロナ禍に翻弄され、ひたすら自粛して耐えるだけの日々に、過ぎ去った昔を思うことが多くなった。夜ごと高まる蟋蟀の声に、次第に心が淵に沈んでいく。
 そんな夜が明けたひと日、Y農園の奥様から秋野菜の収穫のお誘いが来た。早速、カミさんを乗せて観世音寺に走った。駐車場から観世音寺の参道を横切って戒壇院の脇に出た小路で、畑に向かう奥様とばったり出会った。

 まだ苛烈さの片鱗を残す日差しの下で、存分に採らせていただいた。ピーマン、茄子、オクラ、生姜、ゴーヤ、無花果――あっという間に籠がいっぱいになる。
 長雨のせいで、昨今の野菜の値段の高騰が半端ない。白菜が4倍とか!昨日、近くのスーパーで野菜を買おうとしたら、そこにいた担当者が「高いから、野菜は買わないで!今は、肉を食べて下さい」と言われ、手に取った春菊を棚に返した。笑えない現実である。

 緑の大玉を提げる晩白柚の木陰で汗を拭いながら、心地よい秋風に吹かれていた。バッタが跳ねる、ツマグロヒョウモンが舞う。畑の傍らに一叢のススキがあり、21日の仲秋の名月に供えるために、数本を刈らせてもらった。

   ごんしゃん ごんしゃん 気をつけな
   ひとつ摘んでも 日は真昼
   ひとつ後から また開く

   ごんしゃん ごんしゃん なし泣くろ
   いつまで取っても ひがんばな
   恐や 赤しや まだ七つ
       

 真っ赤な彼岸花は、どこかに怖さを秘めているような気がする。球根に毒があるからというよりも、花言葉の一つに、「悲しい思い出」というのがあるせいかもしれない。
               (2021年9:月写真:戒壇院参道の彼岸花・Y農園奥様撮影)