蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

他山の石

2022年01月18日 | 季節の便り・花篇

 何事もなく、一日が明けた。当然のことながら、今日も昨日の続きでしかなく、いつもの通り起き抜けのストレッチを終えて、まだ明けやらぬ早朝ウォーキングに出た。気温も、昨日より3度ほど高く5度、皮手袋を突き刺す冷気もない朝だった。西の空には、まん丸い有明の月が雲の群れに追われて山蔭に逃げようといていた。
 石穴稲荷に詣でたのは6時20分、北面したゆるい傾斜に並ぶこの戸建て団地は、石穴の杜から朝日が昇るのは、9時過ぎである。南に低い冬の日差しは、昼前から夕方まで隣の2階建てのアパートに遮られ、我が家の庭は日陰になってしまう。洗濯物の乾きも悪く、一日晴天でも最後は部屋干しで仕上げることになる。

 83歳の誕生日を迎えた。いつの頃からだろう?親の年齢を超えることが、最後の親孝行と思い込むようになった。
 父は、昭和58年(1983年)7月14日に74歳で逝った。前日まで元気に庭いじりをしていたのに、老人性喘息で呼吸に基礎疾患を抱えていた父は、朝になって呼吸困難を訴え、明け方に救急車を呼んだ。その後、意識は戻らないものの、小康状態が続き、私は新会社設立を前に、組合幹部との協議を重ねるために出社した。昼過ぎに急変の知らせを受け、組合長に断って病院に駆けつけた。そのまま意識不明が続いたが、なんとか夜は越せそうだという医師の話を信じ、カミさんだけを残して帰宅した。再び危篤の知らせが届いたのは、帰り着いた直後のことだった。死に目には会えずに、カミさんだけが看取った。
 その後9年気ままに生きた母は、平成4年(1992年)7月22日に82歳で彼岸に渡った。最後の3年ほどは認知が出て、カミさんが介護に明け暮れた。今のような介護保険も制度もない時代だったから、負担は全てカミさんに来た。沖縄出張中の朝、ホテルで母危篤の電話を受けた。予定を切り上げて飛行機に飛び乗ったが、熊本上空を降下していた時刻に、父と同じくカミさんだけに看取られて母は息を引き取った。
 昨年、私はその年に届き、今日ようやく母の歳を越えたことになる。これで子としての親孝行の責任を果たし、ある意味、これからが本当の「余生」かも知れない。

 穏やかで豊かな日々を楽しむはずの余生が、いまコロナに翻弄されている。コロナ籠りは心身を少しずつ蝕んでいく。動きが鈍くなり、加齢が足腰を弱めていく。最近、階段や風呂場で不安を感じるようになった。カミさんは夜中に足がつって悲鳴を上げて目覚めたり、しゃがみ込んだら何かに掴まらないと立ち上がるのが困難になった。
 私も、左足人工股関節置換手術や左肩腱板断裂手術で、左手で重いものを持つことを避けるようになった。追い打ちを掛けるように、右腕から肩背中の帯状疱疹後神経痛が3年以上改善せず、右手も頼りにならなくなった。
 娘が見かねて年末に帰省、包括支援センターに相談し、早速ケマ・ネージャーが事情聴取に来て、介護保険の「要支援者」の申請を勧められた。家内外8か所の手摺工事の見積もりに専門業者が派遣され、市役所に申請書を出しに行き、年明けに市の調査員が審査に訪れ――事態が急展開し始めた。
 余生は、ただ待っていて与えられるものではないことを実感した年末年始だった。

 春の使者・蝋梅が咲いたが、まだまだ春の訪れは遠い。花言葉、「慈しみ」「ゆかしさ」。スーパーのレジや駅などで、モンスターみたいに店員や駅員をいじめている年寄り(ジジイが多い!)を見るたびに、蝋梅の花言葉に恥じない余生を生きたいと切実に思う。もって、「他山の石」としよう!

                         (2022年1月:写真:蝋梅)