深浦九段とお互いの子供の成長などを語り合いながら歩いているうちに目指す「木楽屋」に着いた。
ウナギの寝床のような店内を奥へ進んで行くと、既に光武前佐世保市長が到着しておられた。
光武さんは大の将棋好きで、確か日本将棋連盟からアマ五段の免状をいただいておられる。もちろん、深浦さんを囲むこの会にも必ず参加されている。日本将棋連盟佐世保支部の良き理解者という存在だ。
松山先生の司会で先ず光武さんの挨拶から会が始まった。続いて深浦九段の挨拶、そして佐々木新四段の挨拶と続く。
いよいよ乾杯の段になり、その音頭をとるよう松山先生に指名を受けた。
せっかくだったので乾杯の発声の前に、直前の佐々木新四段の挨拶の言葉から、彼と深浦九段との師弟関係にまつわる話を紹介させていただくことにした。
このブログを通してお近づきになった憲司さんが孫娘たちの家へ訪ねて来てくださった際、お会いするや否や私に深浦さんのですと言ってたたまれた新聞紙を差し出された。見ると、対久保利明九段の竜王戦の棋譜だった。そこには、観戦記者・池田将之によって深浦九段と佐々木新四段の師弟についての厳しくも心温まるエピソードが書かれてあった。
佐々木新四段は、プロ棋士になったとはいえとりあえずフリークラスからのスタートとなる。10年以内にフリークラスから抜け出せなければ引退を余儀なくされる。そのフリークラスを抜けるためには任意の範囲で30局以上の勝率が6割5分を超えなければならない。プロになるのは厳しいが、プロになった後も厳しい。
観戦記の最後の段に、師匠・深浦九段の弟子・佐々木新四段に送るエールがこう記されてあった。
「私は地元の方々に支えられてプロ棋士になれました。佐々木もそうだと思います。地元に応援してくれる方々がいることを胸に抱いて頑張ってほしいと思っています」
この観戦記は、お姉さん天使の卒園の前日である3月25日付けの読売新聞に掲載してある。佐々木新四段は、もちろんこの棋譜に目を通していただろうし、直接師匠から聞いていたのかもしれない。
プロ棋士なって初めて師匠と共に帰郷し、深浦九段をずっと応援し続けている私たちを前にして「私は地元の方々に支えられてプロ棋士になることが出来ました…」と師匠から送られたエール同様の言葉を挨拶で語ってくれたのだった。
深浦九段は、まだ幼くして日本列島の西の果てから上京し、精進を重ね将棋界のてっぺんまで這い上がった。それは、計り知れなく厳しい道だったことだろう。
それ故か、はたまたその逆か、深浦九段は闘志溢れる棋士である。誰より負けず嫌いの棋士である。師匠は、晴れて四段になった弟子に万感の思いでエールを送ったに違いない。佐々木新四段は、その厳しくも温かい師匠の教えをきちんと受け止めていた。
そのようなことを紹介し、乾杯の音頭を取らせていただいた。