翌日の手配を済ませ、25日・月曜日の夜9時頃に福岡へ向け自宅を発った。
この夜は、いつもの鳥栖経由ではなく、伊万里から唐津を経由するコースを採った。糸島を抜け福岡に入り、けやき通りを過ぎ天神界隈に差し掛かかったのが11時前頃だったか。その時刻だというのに歩道には人が溢れ、車道にはタクシーが溢れていた。
結局、アパートに着いたのは11時半頃になった。
翌朝早く、和也くんは出勤して行った。私と女房どのは午前9時過ぎ産院へ向かう。
有紀さんの出産予定日は27日だったが、お腹の中で赤ちゃんは十分育っているとのことで、お産のリスクを低減させるために早期の出産をとの医者の提案が事前にあり、前日の午後2時頃に子宮口を広げる働きをする「バルーン」の装着を行っていた。
そして、この日の午前9時頃に陣痛誘発剤「オキシトシン」の投与を受けていた。
私たちが着いた時にはなるべく動くようにとの医者の指示で、有紀さんは産院の廊下を行ったり来たり歩いていた。
やがて、一定の間をおいて痛みが襲ってくるようになり、午前11時頃には分娩室へ入った。そのおよそ30分後に破水したとの報告を看護師から受ける。
どうしても出産時に傍に居たいと言っていたくるみさんが馬出からタクシーで駆けつけてきた。
また、出産時に立ち会うことになっている有紀さんの夫である和也くんが予定の授業を済ませ、午後3時前には到着した。
こうして、この日、赤ちゃんの誕生の瞬間に傍に居ることを希望する家族みんなが揃ったのを確認するかのように午後3時22分、元気な産声と共に和也くん・有紀さん夫婦の初子が誕生した。
分娩室の外で、その瞬間を待っていた私たちの元に、看護師さんが誕生間もない赤ちゃんを連れて来てくれた。すぐさま赤ちゃんをこの腕で抱かせてもらう。なんという感激。
これまで、我が子すべて、そして、孫すべての誕生の瞬間に立ち会い、すべての赤ちゃんを胸に抱くことが出来た。こんな幸せな男はそういないだろう。
夜7時頃まで病室で赤ちゃんを代わる代わる抱っこしたりして過ごしていたが、7時過ぎに明日の準備があるからと帰るくるみさんを和也くんが車で送って行ってくれた。
和也くんが戻って来るのを待ち、赤ちゃんと有紀さんに挨拶をして、女房どのと和也くん、私の3人で祝杯を挙げるため夜の街へ出かけた。
和也くんがアパートから1時間ほどかかる学校に勤めているので、夜更かしはするまいと言っていたのだが、結局2軒はしごして帰宅したのが夜の12時頃だったらしい。この夜は嬉しくて嬉しくてたまらなく、グラスを空けるピッチが速いのを十分に自覚していたのだが、止めることが出来なかった。したがって、2軒目の後半からの意識はない。
和也くんもそこそこ酔っていたと女房どのは言うが、アパートに帰った後、和也くんと私はソファーに座り、2人して泣きながら「おめでとう」「ありがとうございます」と時計の針が午前1時を回る頃までやっていたそうだ。おそらく、感動・感激・喜びの涙だったのだろうが、全く覚えていない。